規格外の英雄その名は曹操!乱世の奸雄は66年の生涯で何を夢見ていたか?


【赤壁】誤算と審判

預言者:
三月十五日に、お気をつけなされよ……
『ジュリアス・シーザー』第一幕第二場

このあとの歴史の流れから、曹操は主役の座にはもはやとどまることはできません。

反董卓連合の中一人気を吐いていた青年将軍はもう舞台の上にはいない。
そこにいるのは、倒されるべきスーパーヴィランなのです。

物語主役の座は、周瑜がふさわしい。

絵・小久ヒロ

ジョン・ウー監督『レッドクリフ』は、あるべき人物を主役に据えたまでのこと。
その前半部は、早々から逃げ惑う劉備一行の姿を見なくてはなりません。

劉備は、この前後で別の顔を持つ軍団に変貌をとげます。

 

建安12年(207年)、諸葛亮を配下に加えた劉備は、もはやただの将ではなくなった。
魂と思想、来るべき世界のかけらを手に入れたのです。

そして後半は、もう一つの世界が曹操の進路を遮るのです。

 

『レッドクリフ』の主役である周瑜です。

周瑜
三国志・周瑜は正史が激カッコいい 赤壁で魏を打ち破った智将の生涯

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周瑜の言動を探れば、曹操は敗北するべくしてそうなったことがわかります。

曹操は、天命を盲信してはいない。
まぎれもない人によって、敗北した。
それはなぜなのか?

赤壁の戦いを曹操の目線から見るとすれば、敗因を探ることこそ、意義が大いににあるのです。

曹操は、周瑜と諸葛亮にだけ負けたのではありません。
無数の人の恨み、そして彼自身の慢心があったことを考えねばならないのです。

◆江東の台頭
→当時の人々にとって、江東は山越族はじめ漢民族以外が割拠する未知の世界でした。いわばフロンティアです。
【中原に鹿を逐う】という言葉が示すように、長いこと政権の基盤は黄河流域を指していたのです。しかし、このころはもう江東を無視できなくなっていた……そのことを、曹操は気づかなかったか。彼よりもむしろ時代の流れを敏感に感じ取っていたのは、孫策の意思を継いだ周瑜、魯粛、諸葛亮らでした。
かつて時代の流れについていけないライバルたちを、何もわかっていないと嘲笑していた曹操。彼はいつしか、時代が理解できていない、アップデートが停止した側になっていたのです。

◆二喬が欲しかったのか?
→曹操が赤壁に進軍した理由を、孫策と周瑜の妻である大喬・小喬姉妹に求めること。このことは、荒唐無稽であると一蹴できるものです。
『三国志演義』等でその根拠となる曹植『銅雀台の賦』成立は、建安15年(210年)。赤壁の二年後です。

唐・杜牧は、『赤壁』でこう詠んでいます。
これは文学者特有のフィクショナルなセンスであり、史実とみなすことはできません。

折戟沈沙鐵未銷 折戟沙に沈みて 鐵未だ銷せず
自將磨洗認前朝 自ら磨洗を將て 前朝を認む
東風不與周郞便 東風周郎の與に 便せずんば
銅雀春深鎖二喬 銅雀春深くして 二喬を鎖さん

【意訳】
折れた戟が砂に沈んでいて、鉄が錆びてボロボロになってはいなかった
手に取って磨いたら、昔のものだとわかったんだ

もしも東の風が周さんのために吹かなかったら
銅雀台の奥深くに、二喬が閉じ込められていたんだろうねぇ

孟徳さんの気持ちになって、要点から言いましょう。

「おめーよー、いい歳こいて城の奥にピーチ姫が閉じ込められているレベルの与太話、信じてんのか、このダボがッ! ミスコン開催すれば美人なんていくらでも手に入るのに、そんな理由で戦争するかーッ!」

こう、一刀両断はできるわけですが。
そういうことになる背景は、ないわけではありません。

・二喬は「橋」が正しい。曹操が保護を頼まれた橋玄の娘という可能性は完全否定できない
→年齢を考えると疑念は残るものの、三公になった橋氏はさほどいない。嘘であると断定はできません。とはいえ、開戦動機としては薄弱。

・曹操はじめ、曹一家の貞操観念は逸脱傾向がある
→宛城の戦いにおいて、曹操が未亡人と情事を楽しんでいたのか? それが決定的な敗因と言えるのか? その点については疑念を呈してはおります。
ただ、そういう噂が流れてもおかしくないほど、性生活が自由闊達であった可能性は十分考えられます。
曹操には、青州兵の母体となった黄巾賊も理解を示していました。彼らは性的な奥義を追求する黄老思想を信奉していました。曹操が同じ道に理解を示し、逸脱したとしても、それは十分にありえることです。

・曹丕の妻は甄夫人
→曹丕が、袁煕の妻であった甄夫人を自分の妻としたこと。このことは消せません。それを曹操が止めるわけでもありませんでした。我が子の自由恋愛を認めたのかもしれませんが、それがどう思われるかまで考えていたのでしょうか。
甄夫人と曹植との悲恋も、文学としては美しかろうが倫理観を逸脱しています。義姉と義弟なのですから。
この一連の行動を見ていて、なんて非常識でぶっ飛んだ性的規範なのか、眉をひそめた人がいても、おかしくはないのです。

・曹操は女性の意思を尊重し、そのために労を惜しまない
→曹操は丁夫人の強気な態度に降参し、手も足も出ないまま、離婚しました。
蔡琰奪還のために、曹操が労を惜しまなかったことも確かなのです。それそのものはよいことなのです。性欲のためにそうしたわけではない。けれども、当時の価値観においては奇妙なことでした。
男と比較すれば価値を認められない女。しかも、異民族の男に身を許した女に、そこまで入れ込む。そんな異常性のある曹操ならば、二喬に執着してもおかしくないのではないか?
そんな邪推がなかったとは、言い切れないのではありませんか。

杜牧や羅貫中はじめ、文人たちがおもしろおかしく脚色したことは、否定できない事実です。
それを真に受けることはナンセンスではある。

ただ、当時の人からしてみても、曹操にはどこか奇妙で異常なところがあった。
その点に警戒心を抱き、妻や娘、姉妹を守るために団結したとしても、荒唐無稽なことではないのです。心理的にみれば、ありえることです。

曹操は、性的な欲求も含め、森羅万象を激しく愛し、求めていた。
けれど、そのことが周囲からどう思われるのか。そのことには無頓着ではなかったか? そこはどうしても考えてしまいます。

◆張松をすげなく追い払う
→赤壁前夜、荊州に進軍した曹操の元に、劉璋から張松が派遣されていました。楊修はその才知を見抜いたにも関わらず、曹操は張松に塩対応を取ります。こののち、張松は劉備に期待を寄せ、蜀獲得の計画を立てることになります。
このとき、張松を追い払ったことは曹操の大きなミスでした。
孟徳さん……ご自慢の才能を見抜く目は、どこへ行ったのでしょうか?

◆自分の嘘を見破られると警戒しなかったのか? 周瑜や黄蓋の嘘を見破られなかったのか?
→周瑜の策は見事です。しかし、彼の見事さだけではなく、曹操の迂闊さも気になるところなのです。
周瑜の見立て通り、曹操は『孫子』に注釈をつけたとも思えないほどのミスを連発している。
最大のものは、黄蓋の偽装投稿を信じたことでしょうか。即座に信じるわけでもなく、一応疑念を抱いてはいるのです。それでも結果は、ああなってしまいました。
これまでの、曹操の家臣を思い出してみましょう。荀攸、賈詡、辛毗、張遼、張郃、陳琳……錚々たる面々が、元の主君を裏切って彼に投降しています。中でも許攸は、曹操にとって官渡大勝利の鍵となったほどでした。
官渡の戦いの後。曹操は味方陣営から出てきた、裏切りをにおわせる証拠物件をまとめてを焼き捨てました。自分も含めて、強い力に挫けて裏切りを仕掛けることは、人間の本質だと断言しながら。
裏切りこそ、人間の本質だーー曹操はそう信じてしまっていたのかもしれません。

◆【徐州大虐殺】の怨恨
→呉と劉備配下には、徐州大虐殺から逃れた人々がおりました。彼らからすれば、曹操は自分たちを襲い殺し食べる、そんな猛獣でしかないのです。
自分につながりのある誰かを殺されたら、怒りと恨みが残ることを、曹操は学べなかったのでしょうか。悩むだけ無駄だと割り切ってしまったのでしょうか?
我が子・曹昴と甥・曹安民、そして典韋を思い、涙したはずなのに。
丁夫人と別れ、心を痛めたはずなのに。
自分がその原因である賈詡を迎えられたのだから、他の人もそうなると思い込もうとしたのでしょうか?
それは、彼の誤算でした。
官渡の投降兵大量処刑も、敵対者にプレッシャーを与えました。
【窮鼠猫を噛む】危険性を、曹操は忘れたのでしょうか?

◆郭奉孝と我が子・倉舒は、どうしてこの世にいないのだ……
→大敗戦を受け、曹操はこう嘆いています。
「郭奉孝さえ生きていれば、こんなことにならなかったのに!」
この大敗北の前年、郭嘉は38歳という短い生涯を終えていました。

思えば荀彧の推薦で二人が出会った時、互いにこう思っていたのです。
「こいつだよ、こいつさえいれば、俺の思うままになるんだ!」
「この人こそ、我が本物の主君だッ!」

曹操って、実は友達が少ないんです。
いや、友達というと語弊があるのでしょうが、気の合う相談相手が多くはない。
武勇に長けた将軍はまだマシ。いわゆる軍師タイプはプライベート交際は避ける傾向すら見られるのです。

例えば賈詡は、いろいろあったとはいえ、プライベートでは絶対に会おうとしませんでした。理由はお察しください。

郭嘉は、曹操が公私ともに仲良くできる数少ない一人です。
郭嘉も癖の強い性格で、しばしば「あいつは一体、なんなんですか!」と糾弾されていました。
曹操は、奉考はそこがいいと庇ってきたのです。

そういう、公私ともにつきあって、相談相手になってくれる郭嘉がいなくなっていた。
ここであげてきた迂闊なミスも、郭嘉ならば突っ込みつつ、止めてくれたかもしれない。

曹操は、大好きな郭嘉の死でメンタルが悪化していたようです。

「哀しいよ、奉孝! 痛ましいよ、奉孝! 惜しいよ、奉孝……」

そう嘆き悲しんだ理由には、何か当人同士ならではの深いものがあるのでしょう。

この年、もう一人最悪の人物を亡くしております。
曹沖(母・環夫人、196ー208)です。

曹沖は幼い頃から賢いものでした。
孫権から象を贈られたときのこと。

「はい、問題です。この象の重さはどうすればわかるでしょう?」

曹操の問いに、誰もが頭を悩ませていたとき。
僅か5歳の曹沖は答えました。

「象を船に乗せて、沈んだところに印をつけます。象をおろして、そこまで重石を載せてゆけば、わかります」

【アルキメデスの原理】です。
彼が幼くして亡くなったとき、曹操は夭折していた甄家の少女とともに埋葬されました。冥婚です。
ここまではまだよいとして、慰める曹丕への態度が酷い。

「この俺の不幸は、お前たちにとっては運がいいってこと(=後継者ライバル消滅)だな……」

孟徳さん、そんな言い方、ないでしょうに。
曹丕だって、弟を失っているんですよ。

曹操の運命まで焼き尽くした、赤壁という審判。
『三国志』の記述が意外とあっさりしているから、赤壁が大したことがない。
そんな論調もありますが、論点を整理しつつ、否定しましょう。

・曹操が負け惜しみ、悔しがって過小評価したところで、主張者のバイアスがあるから信憑性に疑念がある

・劉備も同様。そもそも劉備は、この戦いではさしたる活躍はない

・『三国志演義』以下、フィクションと比べると地味って言われましても。盛りに盛った記述を削除すれば、シンプルであることは当然の帰結です。

・史書の記述を過小評価しようとも、発掘された武器が証拠となる。現に形跡は残されている

・曹操はじめ、当時の人物の軌跡や思考に明確な変化がある。たとえ赤壁を無視しようと、この歳を境に劇的な変化があったことはわかる

孟徳さん、負け惜しみをするにしても、そんなすぐバレる嘘はやめましょうよ。

「た、たまたま疫病が流行したから、船を焼いて帰ってきただけだもんね!」
船をそこで焼く必要性ってありますか?
移動に必要なのに?
帰り道は泳げって?
節約志向のくせに、船を焼いてキャンプファイヤー?
何がしたいんですか?

それに、こうも言っているじゃないですか。
「あの周瑜に負けたのであれば、恥ではない」

誰をどうこじつけようが、大敗北は大敗北です。
しょうもない負け惜しみにつきあう理由はないのです。

【赤壁】――曹操の短所が跳ね返った、審判のような大敗戦であると思えてしまう。
天命じゃない。人の行く道を塞ぐものとは、人なのではありませんか。

人を観察し、人を愛し、人の持つ魅力を見出し続けたかった。
それなのに、人を思い通りにできなかった。

そんな曹操の人生を凝縮したような苦しみが、そこにはあるのです。

 


砕けた何かを求めて【求才令】

ホレイシォ:
そのご様子は、嚇怒よりも、沈鬱といったところです
『ハムレット』第一幕第二場

リチャード王:
この地に座って、命尽きた王たちの悲しい物語をしようではないか
『リチャード二世』第三幕第二場

赤壁の大敗戦は、曹操に決定的な打撃を与えました。
程昱(141ー220)はこれを機に引退していますが、いろいろ困ったことになると想像がついたのでしょう。

曹操は、反省点をまとめたようです。
水軍の本格的な編成にも乗り出し、新たな屯田にも乗り出しています。

建安14年(209年)には、揚州刺史(長官)劉馥が、合肥城で10万ともされる孫権軍を押し返しました。

そして建安15年(210年)、曹操は彼の真髄とも言える【求才令(求才三令、求賢令)】を出すのでした。
まとめるとこんなものです。

「素行不良ということで、世に出ない才能がある。そういうことでは、埋もれる奴がいるから。私はそこは無視する。才能があればともかく推薦してくれ!」

これは曹操が終始一貫して主張してきたことであり、なんとなくぽっと思いついた話でもありません。

郭嘉と賈詡は、素行不良のためしばしば周囲から非難を浴びていましたが、曹操本人は気にしておりませんでした。
袁紹相手にも、「天下の智勇を集めて統制すれば不可能はない!」と言い切りました。

蔡琰奪還のために、労を惜しんでもいない。

この元をたどってゆけば、素行不良少年だった自分自身を橋玄が認められた喜びがある。
減点式ではなくて、加点式で人材を見つける。
一貫性のあるシンプルな態度を明文化したわけです。

そしてこの頃、ある人物がしぶしぶ曹操に仕えるようになっております。

司馬懿(179ー251)です。
なまじフィクションで諸葛亮のライバルとされるため、誤解があります。

曹操は、ともかく司馬懿を頼りにした。支えた。彼なしでは曹魏政権はない――それはどうでしょうか。
因果関係はむしろ逆でしょう。
曹魏あっての晋です。

司馬懿の才能にケチをつけるわけではありません。
ただ、曹操にとって唯一無二の存在ではなかった。その役割を探すとすれば、荀彧や郭嘉のほうがふさわしいのです。曹丕と曹叡の人生においては唯一無二でも、曹操にとっては違います。

そんな本音と、建前も表明しています。
劉表を討ち、天下平定をしたと宣言したのです。荊州を奪ったことで、ゲームセットだとこじつけているのです。

この観点からは、赤壁の大敗はスルーされています。
ただ、そんな曹操の論理破綻を、誰も彼もが見逃せたわけもないのです。

 


沸騰する関西

諸葛亮や周瑜は、曹操は西が弱いと喝破しておりました。これはその通りなのです。

関中・涼州は、羌族との武力衝突が多い地方でした。
後漢末期は、董卓はじめこの方面から将軍が中原に乗り込んできたものです。

曹操としては、もう見逃すわけにもいかない状況です。
荀彧の策もあり、曹操は韓遂・馬騰相手に和平を結んでいました。これが赤壁の敗戦によって、揺らぎ始めたのです。

しかも、事態がなかなかややこしい!

中原には、曹操がいる、
江東には、孫権がいる。

ならばどこが空いているか?
蜀、つまりは現在の四川省。そう狙いを定めた諸葛亮の策を得て、劉備が情勢を動かすようになっていたのです。

建安16年(211年)、曹操は宗教団体五斗米道・張魯による勢力に狙いを定めます。
夏侯淵を派遣し、この漢中を討伐することにしました。五斗米道は曹魏に服することとなります。こうした宗教団体も、曹操には待望論を寄せるようになったのでした。

劉璋陣営は、これを受けて反応を示します。
漢中の次はこちらの番だと恐れ、劉璋を見限った張松・法正らが劉備を蜀に引き入れるのです。

ドミノ式に、こうした動揺は関西の将軍にまでおよびます。

その筆頭が、馬超(176ー222)でした。

曹操は、馬超対策をしていなかったわけではありません。
宛城の敗戦から、人質を取ることを学んでいました。馬超の父・馬騰を朝廷の警備隊長として招聘し、手元に確保していたのです。

馬超にも招聘はあったものの、拒否していました。
この馬超が韓遂と組んで、武装蜂起したのです。

曹操は曹仁を派遣したあと、自ら出兵しました。
【潼関の戦い】が、かくして火蓋を切ります。

これも、主役である馬超側の目線で見たほうがよいかとは思います。
要点をさっくりとまとめましょう。

◆曹操、馬超の猛攻によってピンチに陥る
→丁斐と許褚のおかげでなんとか助かりました。典韋亡き後、裏表のないボディガードとして、曹操が大事にしていた人物です。
「お前ってばマイ樊噲(劉邦の護衛)❤︎」
曹操はともかく許褚が大好きでした。ニックネームは【虎痴(=虎みたいに強いアホ、発音も似ている】」。今回は彼のおかげで、曹操は助かりました。
でも、それはそれ。これはこれ。
「さぁ、お仕置きの時間だよ……」
となります。

◆偽手紙で引き裂くぞ!
→どうにも前述のピンチが強調されていますが、あれはあくまで最悪の事態でして。戦術面では絶好調です。嘘じゃありませんよ!
賈詡はここで、お手紙作戦を提案します。伏せ字やあやしい箇所だらけの手紙を韓遂に送り、馬超を疑心暗鬼にしたのです。
「うわっ……俺の同盟者、曹操と密通している?」
さらに、韓遂と馬上で親しげに会談をして見せつけ、心理的揺さぶりをかけるのです。
この策が当たります。馬超・韓遂軍にはヒビが入り、弱体化したのです。やったね!

◆敵の得意戦法を見切るんだ!
→赤壁の敗因として、水軍特性をうまくつかめなかった点があるでしょう。その点、曹操は猛反省をしたのか、敵が得意とする長矛対策を取っております。
中央に囮として軽装歩兵を置き、そこを敵兵が蹂躙したところで、左右から重装騎兵で挟み撃ちにする。そんな冴えた戦術がそこにはありました。

◆そして訪れる、馬超にとっては悪夢のお仕置きタイム
→曹操は、人質にとってあった馬騰を筆頭に、馬一族を滅しました。
孟徳さんの気持ちになれば、
「それが人質の有効活用だろ? ここで見逃したら、人質戦法が今後使えなくなるでしょ。そんな覚悟もなく反抗したの? 見通しが甘すぎて意味不明だし……」
といったところかな。

馬超はこのあと、張魯を頼り、さらには劉備を頼り、蜀の【五虎将軍】となるのでした。

曹操はこのとき、自分を見ようと集まった諸将の前でこんなことを言ったのでした。

「よっ、曹公がそんなに見たいのか? どう? ごく当たり前の奴だろ? 目が四つあると思った? 口が二つ? そうじゃない。ただ、この頭の中に知恵が詰まってんだよな」

顔グラじゃない。パラメータを見ようね。

ここで、曹操お決まりのげんなりする締めくくりについて、触れねばなりません。

関西を平定した曹操は、【徙民(=強制移住)】を断行します。
気候変動、政治の混乱、戦乱、それに伴う食糧危機……その結果、中原の人口減は深刻なものでした。
それに対する即席の策として、有効ではあるのです。

ただ、これがのちに災いとなります。

強制移住によって【五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)】は苦しめられ、再起のときを窺いました。

そしてこれから1世紀を経た四世紀に中原に押し寄せ、乱世を引き起こすのです。
五胡十六国時代の幕開けです。

人の情を考慮しない、曹操の悪癖がまたも禍根を残すことになるのです。
彼自身の言葉を借りるのであれば、彼の頭脳には知恵だけではなく、災厄も詰まっていたのです。

 

彼の子房を殺した空箱

建安17年(211年)、曹操は前漢・蕭何と並ぶ特典を賜りました。

・剣履上殿(帯剣・靴を履いたした状態での昇殿許可)
・入朝不趨(皇帝の前でも、小走りをしなくてもよい)
・謁賛不名(皇帝から、実名で呼ばれない)

唯一無二の家臣となったと、示したわけです。
むろんこれは献帝の意思ではなく、曹操がそうさせたわけです。

建安18年(212年)、曹操にとっては痛恨の喪失が起こります。彼自身のもたらしたこととはいえ、取り返しのつかないことです。

幾人もの人士を推薦し、彼自身が曹操を支えてきた、そんな荀彧。
「きみこそ我が子房(劉邦のブレーンである張良の字)だ!」
そう呼んで、大切にしてきた存在。

しかし、いつしか二人の間には冷たい風が吹き始めていました。

孔融はじめ、士大夫と曹操はときに対立することがありましたが、決定的な破綻はあの赤壁の後から生じ始めているのです。
この契機に程昱は引退を決めていますが、荀彧はそうできなかったのでした。

孫権と対峙するために濡須口に向かう前。
董昭はじめとする曹操の家臣は、こう進言しているのです。

・爵位を進め、国公とすること
・皇帝から恩典として【九錫】を賜ること

この前例として、王莽がおります。

王莽
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それは、荀彧の望むことであったのか?
何に対して彼が反対したのか?
禅譲の前段階であるとみなし、漢王朝復興が成し遂げられないことがゆるせなかったのか?

赤壁の敗戦で挫折し、ゆがんでしまった曹操の理想。
それをごまかすようにする態度がゆるせなかったのか?

動機の断定は、難しいものがあります。

漢王朝再建をするのであれば、献帝を利用した時点で反対すべきではないか?
曹操の簒奪の手助けをしておいて、ここまできてやっとこの態度をとるのは、あまりに中途半端だという解釈もできるわけです。

天下統一を成し遂げて、新たな価値観を目指していたのに。その現実と向き合わず、いじましく名誉ばかりを追い詰める曹操に絶望した?
本人に聞いてみなければ、そこはもうわかりようがありません。

荀彧を忠臣とみなすか、曹操の悪事の片棒を担いだ人物とみなすか?
これは意見が分かれるところなのです。

確かなのは、彼が死んだということ。
還暦まであと10年、享年50でした。

曹操が濡須口へ向かったあと、病気で同行しなかった寿春で荀彧は死を遂げています。
表向きは、病死とされおります。
許都では殺せなくても、遠征中であればどうにでもなります。

『魏氏春秋』には、謎が深く、ゾッとするような逸話が記されています。
曹操から空の箱を贈られて、それが原因で荀彧は精神が崩壊し、死に至ったというのです。

臣下に自殺を促す場合、剣を贈ることは常套手段でした。

ではなぜ、空箱なのか?

従来、これはもうお前は空箱、用済みだと解釈されておりました。
しかし、これも状況からの推理に過ぎません。誰にもその意味はわかりませんが、参考文献を読みながら、私なりに考えてみました。

「きみこそ我が子房だ!」
こう曹操が語ったとき。それを聞いて荀彧が臣下に付くと決めたとき。
二人の間には、曹操が劉邦となり、荀彧が張良となるシナリオがあった。

ところが、赤壁の敗戦で予定は大きく狂った。
もはや、劉邦と張良のように全土を統一することはできない。シナリオは破綻した。

二人にとって、これは痛恨の極み。
人生の大半をかけて築き上げてきた計画と志が、空中分解してしまった。
曹操はその現実から目をそらし、歩もうとする。
荀彧にはできない。

曹操だって傷ついていた。苦しかった。そのことから目をそらしたいのに。
自分の分身である荀彧の顔を見て、言葉を聞くと、どうしてもその破綻に向き合うことになってしまう。

我慢できない。
もう、限界だ!

「私たちの二人の人生は、抱いてきた計画は、いわばこの空箱だ!」

空の箱だからやりなおそうと思うか?
それとも何もない、虚無だと解釈するのか?

曹操の解釈は不明ですが、荀彧はもう、これ以上生きられないと思ってしまったと。
そして、毒をあおったのか、あるいは精神を病んだのか。いずれかの原因で死んでしまった――。

空箱を贈られて、用済みだと察知して自害したという話そのものが、真偽不明です。
役立たずという解釈も、後世の推理です。
この空箱解釈にしたって、あくまで私の推理です。

直接的な動機も、死因も、空箱の真偽も不明です。
ただ、加害者と被害者はわかっています。

加害者は曹操で、被害者は荀彧なのです。陰惨極まりない出来事であったことも、確かなのです。

曹操は自分を支えた忠臣を苦しめ抜き、死へと追いやりました。
荀彧ほどの存在を殺すことは、彼自身を殺すことにもなるのだと、気づかなかったのでしょうか?

曹操は『孫子』に注釈をつけたほどであり、彼自身が知能に絶対的な自身を持っています。
呂布や劉備とは異なり、策を立てる家臣がいなければ困るわけではない。

だからといって、支える家臣がいなくてもよいはずがありません。

自分自身の向かう道が正しいのか?
この策でよいのか?

家臣たちの反応見て確かめるために、反射板のようにするためにも彼らは必要であったはずなのです。
そんなかけがえのない一人を失って、曹操はどこへ行こうとしていたのでしょうか。

 


遼来、遼来!

翌建安18年(212年)、曹操は濡須口で孫権と対峙します。
なんとしても、孫権を叩いておかねばならないと感じていたのです。

孫権は建業(=業を建てる、新規事業スタート)を拠点とし、やる気を見せています。
この建業はのちに南京として栄えるわけであり、孫権の目の付け所は実に正しいのです。この都市は、のちに世界最大級のものとなり、明と中華民国の首都に指定されています。

そんな偉大なる年が生まれたこのとき、歴史は動きつつあったのです。
この対戦で曹操は、孫権の水軍を見て感心しています。

「へー、孫仲謀ってばやるなぁ。息子を持つならこういう奴がいいね。これと比べたら劉景昇(劉表)のガキどもなんて、豚や犬並だわ」

そう言い残し、勝ち目がないとわかると撤退しています。
孟徳さん、孫権を褒めるのであれば、それだけでよろしいのでは?
劉表の息子をきつい言い方で罵倒する必要ありますかね? いちいち一言多いんだ……。

曹操は、ただ見ていたわけでもありません。
孫権の利点を分析した上で、建安20年(215年)を迎えます。

合肥で対峙した曹操は、彼らしい秘策を授けておりました。
10万の守備兵に、張遼率いる8百の決死隊が襲いかかったのです。

ここまで兵力差がある場合、こんなことはまずできません。異常事態です。
到着後浮き足立っていたという要素はあるものの、あまりに規格外で対応できません。

呉の名だたる将がいるにも関わらず、張遼がリアル『三國無双』をしてしまったのでした。

呉はこのことがトラウマとなり、
「遼来遼来!(張遼が来るぞおーッ!)」
という言葉が流行したほど。

張遼も素晴らしいのですが、曹操側も頑張って水軍対策を練っていたと思われます。
準備を周到にすれば強いんだ。赤壁の敗北は、雑な事前準備が災いしたのでしょうね。

建安21年(216年)、曹操は調子に乗りましてこう言い切ります。

「歩兵と騎兵40万で、軍馬に水を飲ませようツアー開始ィ!」

孟徳さん、赤壁では「80万で狩猟ツアー!」でしたっけ。
そういうよくわからない挑発をしながら進軍することは、何かフラグを立てておりませんか。それも文才だということはわかるのですが。

まぁ、今回はそこまでひどいことにはなりません。
呉の甘寧が本陣に夜襲を仕掛けてきて、冷や汗をかいたくらいです。

横山光輝『三国志』における、「甘寧一番乗り!」ですね。

フィクションで強調されるほど被害甚大ではありませんが、本陣を夜襲されるだけでも十分屈辱的ではあります。
このことに、孫権はこう勝ち誇ったとか。

「孟徳には張遼がいるけど、こっちには甘興覇がいるからな!」

はいはい、逆張り強がりお疲れ様でした〜……というのは言い過ぎですが、張遼の一撃目の方が強烈ではありました。

孫権の息の根を止めることは、曹操だって難しいとは痛感していました。
これは地理的なものもあるのです。

長江を突破することは難しい。時代がくだると、長江を境に建国する国が出現します。
この大河は、中国史において重大な意味を持つのです。

 

虚しき魏王の座

荀彧が絶望し、孫権と劉備が認めなかった、曹操の中途半端な覇業。
曹操は、それでも制度を固めて、成し遂げようとしたあとが見えます。

荀彧の最期の前後から、曹操は内政改革も行なっています。
魏公国建国です。

・魏国社稷・宗廟建設
・曹操の三女(曹憲・曹節・曹華)が献帝の後宮に入る。建安20年(215年)、伏皇后が廃されたあとは、曹節が皇后となる

あわせて、国のシステムの整えてゆきます。

建安20年(215年)末、漢中を征西将軍・夏侯淵に任せます。
どうにもパッとしない夏侯淵は、こう陰口を叩かれたとか。

「親戚だから優遇される【白地(=なんとなく任命、コネ枠)将軍】だろ……」

曹操も、歴戦の勇将を補佐につけてはおります。

建安21年(216年)、ついに曹操は魏王にまでのぼりつめます。
あとの皇帝への道のりは、曹丕に託されたのです。

なぜ、曹操は皇帝の座にのぼるという総仕上げをしなかったのか?

これについても、私なりに考えてみました。
皇帝とは、始皇帝が全土を統一してからの称号です。

それ以前は、王なのです。

全土を統一しないで皇帝というのは、おかしな話ではありませんか?
袁術はじめ、統一しない状態で名乗った皇帝が出たことをふまえた後世の者からすれば、ひっかかるわけでもない。

ただ、当時の曹操としては、そんな整合性不一致は納得できなかったのかもしれない。

全土を統一して、皇帝となる。
高祖と並ぶ。
側近の荀彧は張良となる。

その志が破綻したからには、もう王だろうが、皇帝だろうが、同じこと。
破綻は破綻、空箱なのだ。
そんな心境であったかもしれない。そう想像してしまうのです。
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