夏侯惇/wikipediaより引用

夏侯惇とは?三国志・魏で人気の忠義武将はナゼ荒っぽく描かれるように?

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220年6月13日は、三国時代の魏の将として有名な夏侯惇が亡くなった日です。

正史の三国志はもちろん、三国志演義をはじめ、この時代をテーマにした創作物でも欠かせない存在ですよね。

ゲームでは三国志演義の印象から猛将として描かれていることが多いですが、史実の彼はどちらかというと文武両道タイプ。

ではなぜ演義で荒っぽい感じになったのかというと、おそらく若い頃のエピソードが理由だと思われます。

 

「師匠を侮辱したな!」という理由で相手をブッコロ

夏侯惇14歳のとき。
「俺の師匠を侮辱した」という理由で因縁をふっかけてきた相手をブッコロしてしまいました。お師匠様もさぞ驚いたでしょう。

「ちょっと兄さん呼んできて」とトーチャンに言われて「兄貴ブッコロしてきました!」と報告したヤマトタケルと同じくらいこわい(個人の感想です)。

夏侯惇自身の生年は不明ですが、184年に曹操が黄巾の乱討伐のため挙兵したときから付き従ったといわれています。

このとき曹操29歳。
従兄弟である夏侯惇もだいたい同じくらいの年齢でしょう。

前半生においては、曹操のために物理的に走り回っていました。

曹操が董卓(後漢王朝末期の佞臣)の配下に負けて割とボロボロになったとき、夏侯惇は失った兵を補充するため、他の親戚とともに奔走したといいます。

このとき集まった全ての兵がずっと忠実だったわけではありませんが、早いうちから夏侯惇は曹操の別働隊として動いているため、信頼は揺らがなかったと思われます。

また、曹操のために有能な人材を見つけてくるのも得意でした。

中でも典韋てんいは力自慢の大男で、曹操の護衛として重んじられました。

典韋本人の忠義心もすごいもので、とある場所で曹操がだまし討ちにあった際、殿しんがりを務めて討ち死にしています。
まさに「士は己を知る者の為に死す」というやつですね。

 

さすがに矢の刺さった目を食べたのは創作でして

夏侯惇の特徴として、曹操が本拠地を留守にするたびに留守を任されていることも挙げられます。

自分が戦場に立つのはやや苦手だったのか。
三国志最強の武将とされる呂布に出し抜かれたこともありましたが、部下に助けられ、混乱する陣中に冷静な対応をして落ち着かせた……という話もあります。

有名な左目喪失の逸話は、この呂布との戦いの最中にあったできごとです。

流れ矢を避けきれず左目に突き刺さってしまい、当然のことながら左目は失明しました。
「矢に刺さった目を食べた」というのは三国志演義の創作です。

ショック死してもおかしくないでしょうから、生き残っただけでもスゴイですけどね。
まぁ、刺さるにしても正面からだったのか、側面からかだったのかでだいぶ変わるかもしれませんが……グロいのでその辺にしておきましょう。

これ以降、夏侯惇は鏡を見ることを極端に嫌がるようになります。そりゃそうだ。

他の面は以前と変わりなく、曹操の信頼も変わりませんでした。
戦線から退かされることもなく、ときには戦略のため堤防を築く工事に自ら参加することもあったといいます。

この時のみならず、夏侯惇は他者への献身的な逸話が多いのも特徴です。忠誠も献身みたいなものですしね。

 

曹操が亡くなると、その数カ月に……

夏侯惇にも敗北がなかったわけではないし、むしろ敵に捕まって助け出されたこともままあります。

が、やはり功績のほうが大きいといえます。
孫権や関羽など、呉・蜀の代表格となる人物ともやりあったことがありました。

武官・文官がはっきり分かれているタイプが多い曹操の陣営にとっては、まさに得難い人材です。
曹操もその信頼の証として、車への同乗や寝室への出入りまで許していたといいます。

この時代の中国では「相手の寝室に入れる」「一緒に寝る」というのは最大の信頼を表す……というのをどこかで見た気がするのですが……スイマセン出典忘れました(´・ω・`)

彼の最期も、それを裏付けるかのようなものでした。
220年の年明けに曹操が亡くなると、その数ヶ月後に夏侯惇もまた世を去ったのです。

晩年は曹操の皇帝即位に賛成したとも、逆に反対したともいわれていてはっきりしません。
おくりながそのものズバリの「忠侯」なので、いずれにせよ忠誠心は疑いのないところです。

財産ができるたびに周囲に分け与えてしまったため、墓の中の副葬品は剣一振りしかなかったとか。
盗掘されたとか「埋葬までの間に盗まれた」ということも考えられるが、素直に受け取っておきましょう。

ちなみに、曹操の墓からは見事な唐竹割り状態の頭骨が見つかったそうです。恨まれすぎやろ……。

 

世界史上でも稀なレベルのナンバー2では

こうしてみると、演義とは全く違う人物像のようにも思えますね。

「射られた目玉を食べた」など、三国志演義の各所にみられる豪胆な逸話は、おそらく若い頃のブッコロシを拡大解釈したのでしょう。
もしくは、同じく隻眼の将として有名な唐の李克用(”独眼龍”の語源となった人物)が混同されたか、イメージのもとになったのかもしれませんね。三国志演義の成立は李克用の時代より数百年後のことですし。

史実のほうでもう一つやらかし……といえなくもないエピソードがあります。
夏侯惇が陳留(現・河南省開封市付近)の領主だった頃、宴の席で部下の衛臻えいしんに「お前の妻も同席させろ」と命じました。

しかし、当時の常識では妻を他の男性に会わせるというのは、差し出すも同然のことです。衛臻は当然断ったのですが、何故か夏侯惇はブチキレて衛臻を投獄しているのです。後に釈放していますが。

イヤラシイ意味だと疑われたことが気に食わなかったのか、ただ単に部下が命令に従わなかったから怒ったのか、はたまた当時の常識的な意図が叶えられなかったから怒ったのか……どれでしょうね。
いずれにせよ、他の逸話にはそぐわない一面といえるでしょう。

まあ、そのくらいのほうがリアリティはありますよね。他の武将だったら、多分力尽くで妻を出させるか、衛臻をブッコロすかしていたでしょうし。
三国志演義でも、ここはクローズアップされていません。女絡みの逸話は曹操で充分だと思ったんですかね。

夏侯惇を日本史の人物で例えるとすれば、足利尊氏(気前が良く部下に慕われる)+丹羽長秀(内政も得意・主君と友人)あたりでしょうか。あるいは豊臣秀長とか。

まとめると「世界史上でもおそらく稀なレベルのナンバー2」というのが夏侯惇の評価に最もふさわしいと思われます。

長月 七紀・記

【参考】
夏侯惇/wikipedia
西高穴2号墓/wikipedia

 



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