三国志その他

極寒の三国志~あまりの寒さに曹操が詠んだ詩が凍えるほどに面白い

グレタ・トゥーンベリ氏の、環境問題への主張が熱気を帯びる昨今。

彼女は現代のイエスかブッダか、そういう論調が出てくるほどですが、敢えて、こう考えてみてはいかがでしょうか。

グレタ氏は、21世紀の天公将軍・張角である――。

張角/wikipediaより引用

いや、いくらなんでもそれは失礼でしょ! 動機だって全然違うし……と、思われますか?

歴史の研究は日々、進歩しています。

科学技術や他の分野が進歩することで、別の顔が見えてくる。張角が黄巾党を率いて蜂起した後漢末も、21世紀現在も、実は「環境の激変に直面」しているという点では一致します。

科学知識が不足している張角は道教に救いを見出しました。そこがグレタ氏との違いではありますが、両者ともに社会を救うために立ち上がった点では一致しています。

環境史から注目する、三国時代を考えてみましょう。

 

後漢末を襲う環境問題

後漢の政治が乱れた原因とは?

真っ先に挙げられるのが、外戚と宦官です。

幼い皇帝が続き、その母が政治の実権を握る。
宦官が腐敗政治を繰り広げ、どんどん人の心が堕落してゆく。

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確かにその通りではあります。

しかし、そうした人災ではない天災も、立て続けに発生していたのです。

コーエーテクモの『三国志』シリーズでもおなじみの、あの要素です。

三国時代の天災

・洪水
・旱魃
・飢饉
・疫病
・蝗害

現代人ほどの科学知識があるわけでもない。

「これもきっと人の行いが悪いため、天が怒ったのである」

当時の人は、そう結びつけてしまいます。そのことそのものは仕方ないにせよ、後世からすると問題の本質がわかりにくくなるのです。

 

気温低下と政治不安の時代

前漢・武帝(在位前141年〜前87年)は、漢王朝最盛期の皇帝として知られています。

武帝/wikipediaより引用

だからといって名君とは判断がつきにくい。

先代と先々代「文景の治」の蓄積により全盛期が訪れただけで、むしろ王朝疲弊を招くような外征を行っており、戻太子・劉拠を巻き込んだ【巫蠱の禍ふこのか】を起こした、評価の難しい君主です。

ノスタルジックに過大評価されているだけではないか?

と、昔から批判にはさらされており、この武帝以降、政治が停滞。時を同じくして、華北はじめ領内において気温低下が起こっていったと考えられるようになっていきます。

◆作物の不作により、餓死が発生して人口減
◆経済の停滞と破綻
◆人心の荒廃

寒冷化に耐えきれぬ北方の遊牧民が南下し、衝突が発生する。じわじわとダメージを受ける民衆は、その原因を求め始め、後漢末期にはちきれんばかりの緊迫感がうまれてゆきました。

環境の変動は歴史を動かし、人類に災厄をもたらしてきたのですね。

そんな時代、曹操のような官僚は、こう考えます。

「悪いのは腐敗だ。コネ政治をしているからいけない。ここは清流派を登用しましょう!」

中原から離れていた江南は、寒冷化の影響を比較的受けにくい。その地で仲間をまとめていた孫堅は、どんどん力を伸ばします。
名士だけではない、力があってこそ伸びる。そう考え、兵力を蓄えてゆきます。

関羽と張飛と行動を共にする、劉備という若者は、世の不安を察知していたことでしょう。

そんな不安な時代において、張角はこんな結論に至り、同じ考えの者を増やしてゆくのです。

「諸悪の根源は儒教だ……きっともう、こんな思想ではいけない!」

そう考え、道教の思想を掲げた黄巾党が蜂起する――それが『三国志』の幕開けでした。

 

寒さに強い! そんな北の雄が力を伸ばす

おそるべき寒冷化の時代は、北の雄の時代到来でもありました。

なんとかして南下したい。
そんな彼らには、寒さに耐え抜いたスキルがあるのです。

「黄巾の乱」終息後の189年――そんな北の雄に、着目した人物が出てきます。

十常侍はじめとする宦官に手を焼いていた、外戚の何進。彼はこう考えます。

「宦官を倒すためならば、ここはやっぱり北のあいつらだよな」
「そうですね、ナイスアイデアですよ」
「董卓だ、彼に決めたッ!」

宦官の政治腐敗に断固対抗したい何進は、志を同じくする袁紹とそう決めたのです。

一方、その計画を聞いていた曹操は、こう突っ込みました。

「いやなんかそれ、絶対ヤバイからやめときましょうよ。宦官で悪質な連中を殺せばいいのに、大袈裟すぎるわ……」

しかし、曹操は宦官の孫という出自もあってか、宦官に甘いからと却下されるのです。

ここから先は、『三国志』ファンならばおなじみの、荒ぶるあいつらが到着するわけです。

董卓!
呂布!

曹操は計画そのものの杜撰さを指摘しましたが、それだけではない要素がありました。中原で暮らしていた何進や袁紹たちは、北方の英雄の持つ力を過小評価していたのではないでしょうか。

董卓は宦官を倒すどころの騒ぎではない。後漢王朝の根本的改革に挑みました。

ただし、その悪辣さは強調されています。ここには、どうしたって当時のバイアスが入ります。漢の人々からすれば、中原から離れた野蛮な連中が、漢の伝統を破壊して何かしようとする――それだけでもう、許せないことでした。

 

寒さに強い人馬一体、それが北の雄

何進は宦官によって殺され、そのあと本当の悪夢が、董卓によって到来します。

袁紹や曹操は「反董卓連合」を結成するものの、惨敗を喫しました。徐栄と戦った曹操は乗っていた馬まで倒れる中、傷を負って脱出するほど苦戦するのでした。

「黄巾の乱」でそれなりに活躍した武将たちが、董卓はじめ北の雄にまったく歯が立たない、地獄としか言いようのない事態です。彼らは武力行使ではなく、内部分裂を狙い、倒すしかありませんでした。

このあと董卓は、呂布の手にかかりはてます。フィクションでは貂蟬を投入する羽目になるほどのあっけない最期です。

董卓がなぜそんなにあっさり倒されたのか?
そこも気になるところですが、考えてみればそういう展開でもなければどうしようもないほど、彼らは滅法強かったのでした。

董卓が倒れた後も、北の雄たちは天下を揺るがし続けます。

劉備に馳せ参じた、人馬一体の「錦馬超」。

呂布の配下から曹操のもとに転じ、電光石火の急襲で呉を震撼させる。「遼来遼来」の張遼。

「白馬義従」を従えた公孫瓚。

そして『三国志』最強の武勇を誇る、呂布。

彼らがどうしてそこまで強かったのか?
フィクションの影響もあり、どうしても個人的武勇を想像してしまいますが、それだけではありません。

第一に、その機動力があげられます。寒冷化した大地になじみ、駆け抜ける騎兵を率いた北の雄は、まさしく時代の申し子でした。

もちろん、彼らに欠点がないわけでもありません。

後漢の流儀や人脈を形成した、名士やブレーンの取り込みができない。結果、前述の英雄たちも呂布や公孫瓚のように破滅を迎えてしまった者もいるのです。

 

曹操、気候に苦労する

北の雄・董卓に歯が立たなかった群雄も、策を練り対抗してゆきます。

袁紹は物量と攻城兵器を用い、公孫瓚を撃破。

曹操は、策を練り呂布を撃破。曹操は歴戦の中で、騎馬戦術を身につけ、かつ応用していたのです。

その成果が、馬超との対決でも発揮されています。

袁紹と曹操の両雄は【官渡の戦い】で激突し、曹操が勝利をおさめます。

この「官渡の戦い」のあと、曹操は袁家の残党征伐の際、凍結した黄河を割って進軍する羽目になっています。

建安9年(204年)、船で進もうとして、凍っているからまず割らねばならない。なかなか揉めており、厳しい事態であったと伝わってきます。

あまりにつらかったのか。
逃走を試みたある作業員が曹操の前に引き出されてくると、こう言いました。
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