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週刊武春 江戸時代

単に「箱」と呼ばれていた「目安箱」 批判をするにも住所・氏名を明記してからね♪

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目安箱とはいわず、そのまんま「箱」

「よし。社員の声に耳を傾けるぞ。社内に目安箱を置くから何でも言ってきなさい」
なんてコト言う社長に限って、パフォーマンスばかりで実際は聞く耳なんて持っていない。ダメ会社のあるあるですね。

そんな風にしてよく耳にする「目安箱」ですが、もとは江戸時代に8代将軍徳川吉宗(暴れん坊将軍)の考案で設置された投書箱だというのはよく知られた話でしょう。

実は当時、この箱は「目安箱」などと呼ばれていませんでした。
単に「箱」と呼ばれていたんです。「目安箱」というのは明治政府が使った呼び方だったのです。

徳川吉宗/wikipediaより引用

目安箱には、幕臣以外なら誰でも不満や意見を投書することができました。設置されたのは、江戸城辰ノ口評定所前は現在の東京駅の北口付近にあたります。
目安箱の売りは、将軍自ら鍵を開けて投書の中身を検分したということにあります。
一般庶民の意見をマツケンに直接伝えることができたのです。これはまさに庶民と将軍との間を結ぶホットラインでした。

自分の意見が直接将軍様の目に触れる、千載一遇のチャンスに心が躍りますが、やはりいつの時代にも真偽の疑わしい、確かめるのが困難な訴えが少なくなかったようです。
将軍の側近によってまとめられた「訴状留」によると、訴えのほとんどが役人による不正疑い、つまり「チクリ」だったという。

そのためこの目安箱、細かいルールがありました。

まず投書内容は
1)政治に役立つ意見
2)役人の悪事・不正に関する通報
このどちからだけ。ただの不満や人の悪口などはNGでした。
また自分に直接関係のないことを人に頼まれて訴えるというのも認められませんでした。

 

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実名オンリー! 単なる悪口はダメ

そして箱が設置されるのは毎月3日、決められた日のしかも午前中のみと決められていたのです。
さらに投書には住所、氏名を明記しなければなりませんでした。

こういったルールを守れない投書は焼却処分されました。
本気で訴えたい内容ならば決められた日に早起きして、自分の名をオープンにしてわざわざ投書しに行くという覚悟がなければいけなかったのです。面倒だな~。

とはいえ、これだけ細かい制約があっても毎回かなりの数の投書が集まりました。
そして身寄りのない貧しい人にも医療が受けられるようにしてほしいとの訴えで小石川養生所が設置されたり、江戸市中は火事が多いので町火消を整備したり、上総・下総に開発できる土地があるとの進言から新田開発をしたりなど、実際に目安箱の意見をもとに実現したことは多かったのです。

このホットラインは決してパフォーマンスだけのものではなかったのです。

 

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将軍を真っ向批判してアベノミクスを提唱した勇者

目安箱で吉宗「享保の改革」を真っ向から批判したというツワモノもいました。
山下幸内という浪人は、享保の改革で吉宗が贅沢を禁じて倹約を勧める経済政策をとったのに対して、「倹約で経済を立て直そうというのは根本的に間違っている!お金は使ってなんぼ」と痛烈に批判したのです。

将軍に直訴などというのは本来ならば重罪。
しかし吉宗は山下を処罰するどころか非常に喜んで、この訴えを書き写したものを三奉行に保存させたんだそうです。

本当に文句があるなら名前と住まいを明らかにして、正々堂々と訴えなくてはいけないんだ!
もちろん、聞く側にきちんと聞く耳があればこその話なんすけどね。

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参考文献
徳富猪一郎『近世日本国民史』(民友社、1926年) (国会図書館デジタルライブラリー)
「江戸期の目安箱 内容まとめた資料発見」読売新聞 2008年3月8日記事
大石学『史上最強カラー図解 江戸のすべてがわかる本』(ナツメ社、2009年)





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