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週刊武春

「古代の日韓交流史」NHKがクローズアップした時代の少し前になにが起きたかまとめた

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2013年12月2日のNHKクローズアップ現代は「明らかになる古代の『日韓交流史』」という歴史・考古学ネタでした。

この10年で古代史で最もエキサイティングなのがこの日韓(日本と韓国ではなく、日本列島と韓半島)の関係史です。11月に発表されたばかりの最新の「黄金」の馬具(福岡・船岡古墳、新羅系)の発掘(報道まとめ)とあわせて、近年の動向まできちんとおさえて、非常に面白い内容でした。

中日新聞(記事は共同通信)から

報道された時の中日新聞のWEB(記事は共同通信)から

しかも、番組の全文テキストはなんとNHKのホームページで見られることを知りました。びっくりしました。

ですので、黄金の馬具の時代、日本と朝鮮半島の新羅が緊張関係にあり、聖徳太子が九州に数万の兵を派遣して、渡海しようという状況は、ぜひホームページでチェックしてください。

せっかくなので、なぜこんな緊張状態になったのか。

その前史についてまとめてみました。 長いので、最初に末尾の文(結論)を載せます。

この継体天皇がなしえなかった「任那奪還」のヤマト王権の悲願と、九州の「また独立したいウズウズ」があらわれたのが、福岡で出土した新羅系の黄金の馬具というわけです。

 

大王の世継ぎがいない!!!

さっそく、話を始めます。そもそものきっかけは、武烈天皇という大王が子のいないまま崩御したことです。後継ぎがいなくなり、急遽、後継者探しが始まりました。その結果、507年に擁立されたのが越の国(福井県など)出身の継体天皇です。
継体はオオド(オホド)と言い、父は応神天皇の血を引き、琵琶湖沿岸の近江国(現・滋賀県高島市)を本拠とした皇族系の豪族で、母は越の高貴な女性でした。継体は父の住む近江で生まれましたが、父が早世したために母の実家の越で育ちました。応神天皇というのは仁徳陵と呼ばれている日本最大の前方後円墳の真の被葬者でないかと見られている大人物です。

 

継体関係図

継体関係図、恵美嘉樹「継体天皇と新王朝の成立」『古代天皇列伝』(学研)から

継体はよもや自分が天皇になるとは思ってはいませんでしたが、還暦前に、大伴金村と物部あらかいという天皇の重臣が越にまでやってきて、即位を願い出たのです。

実は二人は、丹波国(京都・兵庫県)にいた皇族を擁立しようとしたのです。しかし、彼は「自分を殺しに来た」と勘違いして、逃げてしまい、行方が分からなくなっていました。それで次に白羽の矢が立ったのが応神から数えて6代目(五世孫)の継体でした。

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継体は皇位を簒奪していない

6代なんていっているが単なる自称で、継体は皇位の簒奪者だったではないのかとも言われています。

しかし、答えはNOでしょう。

確かにはるか昔の天皇から数えて6代目ともなると、もはや皇族と言えないくらい遠いのですが、少なくとも「昔の大王の子孫」と、自他共に認識されていたことは間違いなさそうです。(DNA的につながっているかどうかではなく、あくまで認知されていた)
もし継体が征服王朝の始祖だと考える場合、戦国時代のように、まずは地元でトップになっていることが必須となります。

ところが、越(福井県)での古墳の規模を見ると、継体がいたと考えられる地区とは別の地区に圧倒的に大きい前方後円墳があることが考古学から判明しています。つまり、継体は越の王ですらなかったのです。日本海側で一番強い武将だから天皇になったのではなく、やはりいにしえの天皇の血を引く人物とみなされていたことが最大の決め手だったといえます。

物部と大伴のお仕事とは

この時、次期天皇の擁立に日本中を走り回った大伴氏と物部氏は、江戸時代風にいえば「直参旗本」です。いずれも天皇の私兵でしたが、古代初の専制君主と言われる雄略天皇の時代に、雄略のライバルたちを圧迫、時に殺してしまう天皇の手足となる軍団として、力を伸ばしていきました。
両氏はあくまで天皇に依存する武人でした。だから雄略の孫の武烈天皇で天皇が途絶えたことは、彼らの存在理由が揺らぐ大きな危機となりました。
大伴氏は、靭負《ゆげい》部という天皇を守護する近衛兵を管轄していました。近畿地方や西日本の農民からなる一種の徴兵された軍隊であったようです。

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新しい近衛兵「舎人」軍

一方、即位した継体は婚姻関係でつながる東国(愛知県など)の人脈を使い、新しい天皇直轄軍「舎人《とねり》軍」を編成しました。

これまでの靭負軍は農民兵でしたが、舎人軍は東日本各地の豪族の子息で組織されていました。日本史において数少ない「法則」のひとつに、兵の強さは常に「東高西低」であることがあります。(*言い過ぎでした)

まして、無理やり徴集された農民と、手柄を立てれば栄達が望まれる地方のエリートたちとでは、技量も意識も格段の差があります。王権内では新参者の継体ですが、この圧倒的な兵力を背景に、強いリーダーシップを確立していきます。

物部と大伴に話しを戻しますと、物部氏も武人ですが、武器の管理やそれに伴う祭祀なども担当しており、宮廷を守る大伴氏に比べると、どちらかというと公安警察のような存在だったと考えられています。継体が新設した舎人軍と被るところが少なく、継体から(息子の)欽明天皇にかけての治世で、物部氏はそれまで先んじていた大伴氏を追い抜くようになったようです。

大王の空位で半島での日本の影響力が低下

継体の視線の先は、列島内でとどまらず、常に朝鮮半島をにらんでいました。
当時の半島情勢は、小国連合である半島南部の加羅(加耶)の盟主が代わり空中分解気味になり、その混乱を狙って、西の百済(くだら)、そして東の新羅(しらぎ)が少しずつ浸食し始めていました。

恵美嘉樹作成

恵美「倭の五王」『古代天皇列伝』から

 

現在は、加羅、百済、新羅ともに現在の韓国であるため、日本と加羅が手を組んでいたこと自体に一部で拒否感が強いようですが、NHKの番組で韓国の研究者・朴天秀教授が言っていたように、1500年前に今のような民族意識などはありません。

加羅にとっては、日本も百済も新羅も、隣人である一方、それぞれ油断ならない強欲な敵でもありました。それでも、加羅にとって一番安心な存在は、海を挟んだ日本でした。日本も加羅は外国文化の入り口であり、少なくとも百済、新羅からは独立して存在し続けてほしい。こうして弥生時代から相思相愛が続いてきたのですが、武烈死後の「大王空白」による混乱で、日本の存在感は半島でみるみるうちに低下していきました。
そうした折の512年(継体6年)、百済が、加羅の西半分にあたる任那四県(四つの小国家)の割譲を日本に申し出ました。大伴金村からのアドバイスを受け、継体は割譲を決定しました。

「割譲を申請されるということは、やはり日本が加羅を支配していたのでは」

と思うかもしれませんが、そうではなく、倭の五王の時代に日本が中国から加羅の「名目的」な軍事支配権をもらっていたからです。そのため、中国の冊封体制、いわば国際法に基づいて、百済は「名目上」の宗主国である日本に了解を得る必要があったのです。特に百済は東アジアでもっとも中国文化に染まっていた国でしたので。

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ヤマト(大和)に入れない継体の基盤の弱さ

それまで天皇の宮殿はほぼ例外なく大和国(奈良盆地)か河内国(大阪湾沿岸)に設けられていました。しかし、継体は「応神五世孫」という血統のあいまいさからでしょう、大和や河内の伝統的な大豪族から即位を拒否されていたようです。

移動する継体の宮。恵美「継体」より

移動する継体の宮。恵美「継体天皇と新王朝の成立」前掲書より

樟葉《くずは》宮(大阪府枚方市)、筒城《つつき》宮(京都府京田辺市)、弟国《おとくに》宮(京都府長岡京市)と、大和と河内の外縁を点々としていました。
国内すら抑えていない継体はとても半島に影響力を行使できる状態になかったのです。百済からの大量の物品や人材の提供を見返りに、実情に合わせた四県割譲を認めざるをえなかったのです。

しかし、加羅にとっては、名目ではあっても日本の軍事支配権は百済と新羅への抑止力になっていました。日本がそれを一部とはいえ捨ててしまったことで、加羅の諸国の不信感と反発は一気に高まるのは当然です。
「もう日本には頼れない」

当時、露骨に領土を侵しているのは百済だったため、加羅の諸国では、百済のライバルの新羅へ接近し、自ら併合を申し出る国が相次ぎました。

既得権の一部と交換に友好を結んだ百済ではなく、新羅が加羅を併合しては、日本にとってもともこもありません。

長年寄り添った妻といえる加羅を裏切った結果とは言え、ヤマトの橋頭堡である加羅南部で最大の国、金官国(現・釜山付近)にも新羅の手が伸びてきました。金官国には、現在の横須賀の米軍海軍基地のような、かなり大規模な日本の出張所があった可能性もあり、それがのちに「任那日本府」と呼ばれたのだろうと筆者は考えています。(韓国の研究者の多くは日本府の存在自体を捏造としています)

ともかく、ここだけは死守する必要がありました。古代の天皇が権威を持つ理由のひとつに、半島から来る先進の文物を各地の豪族に分配するという仕組みがあったからです。(このシステムでできたのが仁徳陵などの河内での巨大前方後円墳群です)

恵美嘉樹

恵美、「継体天皇と新王朝の成立」前掲書から

国内を掌握し、一度手放した半島権益奪取に取りかかる

526年、即位から20年にしてようやく継体は大和の地に入り、磐余玉穂《いわれたまほ》(奈良県桜井市)に宮殿を建てました。名実ともに天皇となると、さっそく懸案だった半島情勢に取りかかります。

翌年には、尾張国(愛知県)など東国の兵力をかき集め、側近の近江毛野を将軍に任命。6万の兵で海を渡らせて、新羅と戦うことを命じました。ところが、九州北部の豪族である筑紫磐井《つくしいわい》が協力するどころか、反旗を翻し、百済などから送られる物資を載せた船を接収したのです。

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なぜ九州の豪族が大王を裏切ったのか

なぜ磐井は裏切ったのか。いくつか説があるが、渡海作戦への負担を嫌ったのに加え、磐井の戦争ビジネスの維持のためという面が大きそうです。これは、NHKのクローズアップ現代で出た韓国で出土している前方後円墳に直結します。
そもそも、「大王」と呼ばれていた時代の天皇は、各地に林立する「王」(豪族)のなかのリーダー格に過ぎず、不可侵の権威や権力を持っていたわけではありませんでした。そうした中、雄略天皇は暗殺や粛正という強権を駆使して、専制君主として日本列島に君臨しました。しかし、それも一代限りのもので、逆に雄略後は揺り戻しが起きて大混乱となり、群雄割拠の状況になっていました。

継体が正統な「大王」を名乗っても、畿内の豪族ですら最近まで拒否していたなかで、磐井をはじめとする地方の勢力がやすやすと認めるはずはありません。

雄略の死から継体の死までの数十年の間、筑紫一族は九州北部の勢力のリーダー格として、事実上、独立していたと考えるのが自然です。加羅の諸国が、ヤマトから離れ独立志向を高めたり、新羅へ近づいたりと様々な動きを見せていたのと同様の行動です。

逆に、磐井は半島の混乱を利用して力を蓄えていました。加羅諸国の最大の敵は南進する百済。加羅は小国の集まりで軍隊は弱い。百済も北に高句麗がひかえており、大きな軍勢を南に割けない。

韓国の前方後円墳は九州の傭兵たちが作った

こうした状況で、加羅、百済の双方が日本人を傭兵として雇い、最前線でにらみ合いをさせていたことが近年、韓国考古学の成果で浮かんできました。そう韓国の前方後円墳です。

「傭兵」であることは、日韓の研究者ともに認めるところですが、問題となるのは派遣元です。 威勢良くヤマト王権でしょ!と言いたいところですが、磐井ら九州勢だったことはまず間違いないでしょう。

この磐井の戦争ビジネスが、継体の渡海作戦によってつぶされる可能性が高まったのです。

こうして始まったのが磐井の乱の真相です。

磐井は新羅に応援を求めますが、新羅は海を越えてまで戦うつもりはなかったようで、一度、増援を送ったが撃退されると中立に転じました。孤立した磐井は1年半後、東国から動員された大量の兵からなる物部軍によって鎮圧されました。
翌年、あらためて継体軍の将軍、近江毛野が半島に乗り込んだものの、かえって新羅に金官国などを攻撃され、半島での日本の勢力の復活はなりませんでした。毛野は2年間、外交、軍事を駆使したがほとんど新羅から相手にされませんでした。

一方で、ヤマトからは「任那(加羅)復興の成果はまだか」と突き上げを食らいます。とうとう、結果を出せずに召還されますが、心身共に疲弊したようで毛野は本土を踏む前に、対馬(長崎県対馬市)で病死しました。

531年、継体も崩御、なんと82歳!半島での失地回復は果たせなかったものの、当時としてはきわめて高齢から王道を歩み、日本列島内をまとめあげた功績は限りなく大きいといえるでしょう。

この継体がなしえなかった「任那奪還」のヤマト王権の悲願と、九州の「また独立したいウズウズ」があらわれたのが、福岡で出土した新羅系の黄金の馬具というわけです。

*おもいがけず好評をいただきましたので、以下のようにシリーズ化しました

1 NHKがクローズアップ現代(12月2日)で「明らかになる古代の『日韓交流史』」を放送。聖徳太子の時代に日本と新羅が緊張状態にあったという内容だった

2 そもそもなんで緊張状態になったのか?というエントリーを「古代の日韓交流史」NHKがクローズアップした時代の少し前になにが起きたかまとめた」を書く(継体天皇の時代)

3 「北斗の拳に脳内変換したらバッチリわかる!聖徳太子以前の日本古代史」を書く(継体天皇の次ぎの3代)

4 「ドラえもんに脳内変換すれば古代の【崇仏論争】が劇的に面白くなる!」

5 「和を以て尊しとなす」の聖徳太子が武闘派で戦争好きだった件当は武闘派だった聖徳太子

 

恵美嘉樹(歴史作家)・記

著書に『古代天皇列伝―日本の黎明を統べる系譜』 (歴史群像シリーズ)(共著)=本記事のベース、『最新 日本古代史の謎』など。

 

参考文献

加藤謙吉『大和の豪族と渡来人―葛城・蘇我氏と大伴・物部氏』(歴史文化ライブラリー)

枚方市文化財研究調査会編『継体大王とその時代』(和泉選書)




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朴天秀『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』 (講談社選書メチエ 398)
・番組に出ていた考古学者。韓国の前方後円墳についてはこの本が詳しい

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