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北斗の拳に脳内変換したらバッチリわかる!聖徳太子以前の日本古代史

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二朝並立論とは、ラオウ・トキ王朝とケンシロウ王朝が平行していたという説

 継体天皇のあと、安閑、宣化、欽明天皇と三人の息子が順番に即位しています。

 しかし、継体後には王朝が分裂して、「安閑・宣化」朝と「欽明」朝が同時に立つという「二朝並立論」が提唱されていました。これは、古代史上最大の謎のひとつです。

 なぜ「謎」になっているのかというと、正史の『日本書紀』のせいです。

 531年に継体天皇は安閑に譲位して死亡したとする一方で、安閑が即位した年は534年としているのです。譲位しているのに即位していない空白2年間があるのでしょう。わけわからん。

 書紀の編集者はわざわざ、「とある資料には534年に継体が崩御した(これだと空白はなくなる)とあるが、日本書紀では531年死亡説を採用した」としているのです。その理由として、『百済本記』に「辛亥年に日本の天皇(継体)、皇太子(安閑か)、皇子がそろってなくなった」とあり、辛亥年は531年だから、と注釈を入れています。

 おまけに「どちらが正しいかは後世の研究で明らかになるだろう」と判断をあきらめているという謎っぷり。さらにさらに、ややこしいことに『古事記』は継体天皇の死を527年としています。

百済本記にはとんでもない罠がありました

 継体天皇の死という重要な出来事についても矛盾があるのを承知で、あえて百済本記の情報を正史に採用したのです。

 2つの王朝が同時に立ったというからには、年若き弟のほうの王朝のほうもみていきましょう。
 日本書紀では、欽明天皇の即位は540年です。安閑の即位の9年後だから、「二朝並立」にはなりません。
 ところがところが、『元興寺伽藍縁起』と『上宮聖徳法王帝説』という有力な史料には、継体天皇の死の翌年にあたる532年に欽明天皇が即位したとあるのです。
 これを「よし」とすれば、安閑・宣化と平行して即位していたことになります。
 2年の空白、天皇や皇太子が同時に死んだという不穏な記事、そして安閑・宣化天皇の治世を否定する別の史料……。
 おいしい! 小説家にとってはおいしすぎる!
 この状況に釣られたのは小説家ではなく、戦前の高名な歴史学者・喜田貞吉さん(1871ー1939)です。喜田さんは、安閑・宣化朝と欽明朝が南北朝時代のように、二朝が並立していたという大胆な説を提唱したのです。

釣られた歴史学者

 この魅力的な説ですが、残念ながら今では否定されています。
 喜田さんはやっぱり釣りにひっかかったのです! ぷぎゃー!
 最大の理由は、百済には当時、3年の差がある2種類の百済王暦が存在していたことが明らかになったためです。
 つまり、『百済本記』の辛亥年を西暦に置き換えると、継体天皇は534年に死亡していた計算になります。これで空白の2年は消えます。
 いまだに二朝並立論を唱える人もいますが、二朝並立を隠蔽するために『日本書紀』の編集者が、「二種類の百済王暦」のからくりを知った上で利用したと主張するなど、論理的に無理がある展開になっているのは否めません。書紀が編纂されたのは8世紀、継体朝は6世紀と、ざっと200年も昔の話であることを素直に考えれば、隠蔽説は成り立たないでしょう。
主な参考文献

吉村武彦編『継体・欽明朝と仏教伝来』(吉川弘文館)
田中俊明『古代の日本と加耶』(山川出版社)
水谷千秋『謎の大王継体天皇』(文芸春秋)



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