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一揆なめんなよ(絵・富永商太)

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週刊武春 豊臣家

3倍に領地が増えたのに…太閤検地で痛い目にあったのは農民でなく武士だった!

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太閤検地のひみつ

歴史教科書に刀狩りとともに必ず出てくるのが太閤検地。

豊臣秀吉が天正10年(1582年)から始めた画期的制度とされています。全国の水田・畑の広さと等級をチェックしなおして、全国統一の石高を算定したもので、正確な土地調査に基づいて、どれだけ米などがとれるか、つまり税金がとれるかが明らかになりました。

「この道しかない!」(絵・富永商太)

「この道しかない!」(絵・富永商太)

今でも税務署と高額納税者のバトルがありますが、いかに収入を小さく見せて税金を少なくするかが納税者側のポイント。当然、農民たちも「自分たちはこんなに貧しいんです」といって実際より田畑の面積を小さく、過少申告していました。

検地=増税なので、みな大反発し、各地で一揆が起こります。肥後(熊本)の佐々成政は検地がきっかけで起きた一揆を抑えきれずに切腹させられたくらいです。そうした、合わせて刀狩りも行われるわけですが。

検地をすることは、農民=敗者、武士=勝者と思われがちですが、実は武士たちも痛い目にあっているのです。

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3倍に領地が増えた!でも帳簿上だけ

薩摩の島津氏も1592年(文禄元年)以降に、検地を行います。検地にはノウハウが必要なため、出来杉くんこと石田三成にも手伝ってもらいます。

 

画・富永商太

「数字のことは私におまかせを」絵・富永商太

その結果、なんとそれまで約22万5000石だった島津領は、約57万石とおよそ3倍増になってしまったのです!
どんだけ隠し資産が多かったんだ、薩摩っぽ!
ともかくお殿様も武士たちも大喜びと、いかないのが世の中の常であります。

(ずる)賢い三成が背後にいるのは、理由があります。
武士は石高に応じて戦争のときに兵隊を出さないといけません。石高が3倍になれば兵数も3倍出さないといけないのです。
ちょうど豊臣政権は朝鮮との出兵をしていました。島津藩としては収入がぐんと増える分、大軍を送らないといけないことになりました。

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三成、騙しのテクニック

そこで島津のお偉いさんはうまいこと考えます。
検地前は100石だった武士にこうささやきます。
偉い人「お前、今度300石にしてやるよ」
武士A「ありがとうございます!」
偉い人「その代わりに朝鮮にいって頑張ってこいや」
武士A「…ははぁ(仕方ないか)」
偉い人「ちゃんと300石分の兵隊連れて行けよ」
武士A「…ははぁ(きついなぁ、でも帰ってきたらずっと300石だもんね)」

「帰ったら3倍、帰ったら3倍」

「帰ったら3倍、帰ったら3倍」

帰国後

武士A「無事、帰ってきました」
偉い人「おかえり。じゃあ、ここの山田村に300石用意したから引っ越して」
武士A「えっ、地元の鈴木村で領地を増やしてくれるんじゃないんですか?」
偉い人「色々こっちも事情があってね」
武士A「まあ3倍だからいいか」

新領地の山田村に到着

武士A「えっ! これで300石?!どう見ても、もとの100石とかわらない…」

里山

そのころ山田村で100石だった武士Bが300石といわれて鈴木村に引っ越した
武士B「えっ! これで300石?!どう見ても、もとの100石とかわらない…」

武士A・B「もしかしてダマされた!!」

秀吉が死んだ翌年(慶長4年)、島津藩では、「庄内の乱」という内乱が起こるのですが、その理由のひとつはこの太閤検地でだまされた武士たちの怒りの爆発でした。

絵・富永商太

絵・富永商太

川和二十六・記

参考文献 山本博文『日本史の一級史料』 (光文社新書)

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