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絵・富永商太

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週刊武春 伊達家 真田家

100年後に蘇った「真田幸村」家!娘が伊達藩のNo1イケメンと結ばれる(仙台真田氏・下)

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前回(真田幸村の12歳の娘(超絶美少女)が伊達政宗の仙台藩にかくまわれていた!)からの続きです。

慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣。死を覚悟した「日本一の兵」真田幸村は、落城寸前の大阪城から愛娘で超絶美少女と名高い阿梅姫を脱出させようと決心する。
眼下に広がるは徳川20万の軍勢。果たして阿梅姫は無事片倉小十郎重綱の陣へたどり着くことができるのか!?

 

大坂城を抜け出す女カゴ

5月6日の夕刻、大坂城が落城する十数時間前のこと。
今日の死闘の痕も生々しい戦場を、そろりそろりと進む女駕籠がありました。
真田幸村の愛娘、阿梅姫がわずかな供を連れて大坂城を脱出したのです。

この時、阿梅はわずか12歳。明日には討ち死にを遂げるであろう父、真田幸村(信繁)や兄の幸昌、九度山で失意の内に亡くなった祖父昌幸、その他この戦で犠牲となった大勢の家臣や郎党達の期待を一身に背負い、彼女は大阪城の向こう、東軍が野営する陣地へと運ばれて行きます。

今や敗軍の将の娘となろうとしている彼女の武器は「容貌群を抜く」と言われたその美貌と清和天皇から綿々と続く貴い血筋、そして真田の娘としての矜持のみ。(以下、「梅ちゃん先生」でイメージ推奨)

真田の血筋を絶やさぬため、そしていつの日か家名を復興するため、今から彼女は真田の尖兵となって伊達政宗麾下の武将に対面して保護を求め、彼らの協力を取り付けねばなりません。
彼らの庇護を受けることができれば、彼女の縁者もまた、伊達家を頼って仙台に落ち延びることができるからです。

 

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幸村&大谷吉継 危険だけど魅力的すぎる血筋

関ヶ原でおなじみの大谷さん

関ヶ原でおなじみの大谷さん

阿梅は父幸村とその正室、大谷吉継の娘を母とした7人兄弟の長女でした。
父と兄が討ち死にすれば、明日からは彼女が姉弟の中の一番の年長者であり、幼い弟妹は彼女が守らなくてはなりません。
特に未だ4つの大八は、幸村と母の血を継ぐ唯一の男子です。何に替えても、彼女は弟を守らなくてはなりませんでした。

敗軍の将の娘が、敵に嫁すことで家族を守る。
12歳の女の子が負うには余りにも重い責任と多くの命が、彼女の双肩に掛かっていました。

 

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ウキウキの片倉隊に 幸村から豪華プレゼント付きお手紙

一方、今日の快勝に湧く伊達家中片倉隊の陣地では、明日に備えて具足や武器の手入れをする者、今日の戦果を報告する者、負傷者の看病に当たる者などで、陣中はごった返していました。

しかし、どの顔も表情は晴れやかで活気に満ちています。それもそのはず、片倉隊は今日の戦で数々の武功を立て、彼らの主である小十郎重綱は、大将自ら四つの首級を挙げる働きで、主君伊達政宗公はもとより東軍の総大将である徳川家康公からも直々に褒賞と感状を頂戴するほどの大功を立てたのです。
明日の戦でも大いに戦って戦果を挙げてやるぞ、そんな雰囲気が陣中に満ちていました。

そんな時です。片倉隊の陣の前に一丁の女駕籠が着いたのは。
駕籠の側には東軍でも大坂方との交渉に当たっていた武士が付き従っており、彼らから差し出された書状を見て、重綱は目を見張りました。
書状の差出人は今日の戦闘で激しく干戈を交えた真田幸村その人。内容は、今日の重綱の戦場での活躍を見込んで、娘の阿梅姫を重綱に預けたいとするものでした。

「幸村一人の娘あり、その愛いわゆる掌上の珠にひとし、しかるに落城も近きにあり、瓦となりて砕けしむるに忍びず。幸村思いらく、城上より天下諸大名の陣屋を見渡すに、托するに足るるもの一人公(重綱)あるのみ。願わくは我が請いを容れて愛子を托するを得んと」(矢野顯蔵著「仙台士鑑」より抜粋)

数時間前には敵として激しい戦いを繰り広げていた大阪方の名将、真田幸村が、自分を見込んで愛娘を託したいと願っていると知り、重綱はその栄誉と重責に身震いする思いでした。

早速駕籠の中にいた姫を呼びにやると、連れて来られたのはまだ12,3の可憐な少女です。
これが戦国期の血で血を洗う時代を生きてきた彼の父、小十郎景綱や主君伊達政宗であったならばまた違う感想を持ったかも知れませんが、重綱は戦国の世が終わろうとしている時代に生まれ、伊達家の重臣の子として大事に育てられてきた、言わば生まれながらのプリンスです。若さも手伝って父や主に比べるとだいぶ、いやとても素直でした。

彼は頼れる家族もなく、身一つで他家に送られてきた小さな姫にいたく同情し、その保護を堅く約束したのはもちろん、「なにぶん戦場ゆえ……」と照れながら瓜やら煮た豆やらを出してくるやら「奥州は遠い所ですが……」などと頑張って会話に努めるやらで、うん、ほんと良い人でした。

この時、重綱をはじめとした片倉隊の面々が、男だらけのムサい戦場に突如現れた天女のような美しい少女にあわあわしていた一方で、阿梅姫は懐に懐剣を忍ばせて重綱と対面したと言います。

年頃の娘が落城のどさくさに紛れて身ぐるみ剥がされ、乱暴された上で人買いに売られるなど珍しくもない時代の話です。例え上手く戦場を脱して片倉の陣に入ることができても、片倉の大将が阿梅姫を徳川に差し出さないとは限らず、幸村が死を覚悟して臨む明日の決戦を前にその娘が徳川に捕らえられるなど、断じてあってはならないことでした。

いざと言う時は真田の名を汚さぬよう、未練なく自害せねばならない。死を覚悟して重綱との対面に臨んだ阿梅姫の緊張はピークに達していました。

しかし、今彼女の前でぎこちなく接待に努めている男は、整った顔にはあちこち擦り傷をこしらえ、さらに足も脇腹も痛めているようで、なるほど今日の戦闘では激しく戦ったのだろうと推察することができる程の惨憺たる有り様だったものの、父幸村から聞かされていた鬼のような武勇を誇る荒武者のイメージとは遠く掛け離れておりました。

若干挙動不審になりつつも、なんとか姫を励まそうとする男から醸し出される純朴で温厚な雰囲気に、姫とその従者達の間にも、ようやくほっとした雰囲気が生まれたのでした。

しかし、これが功名や褒賞欲しさに姫を徳川に売るような人だったらどうなっていたか。この辺り、幸村の人を見る目は確かですね。

 

お父さん安心して突撃しました

愛娘が片倉家に無事保護された事を聞いて、幸村は明けて7日の「天王寺口の戦い」で徳川本陣へ向けて決死の総攻撃を敢行、寡兵でもって松平忠直隊、本陣を守る旗本勢に突撃すること三度、とうとう敵本陣にまでたどり着き、三方ヶ原の戦い以降、一度も倒された事がなかったという徳川の馬印(大将の存在を示すための印)をも倒す獅子奮迅の活躍の後、ついに力尽きて壮絶な最期を遂げます。

yukimura幸村大坂の陣2

運命に翻弄され、それに抗い続けた男の凄絶な人生は、敵である東軍の諸大名の間でも
「真田日本一の兵 いにしへよりの物語にもこれなき由」(島津忠恒)
「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄」(細川忠興)
などと称賛され、徳川の世にあっても講談や軍記物として広く流布します。

5月7日深夜、大坂城の落城と共に大阪夏の陣は終わりを告げました。
戦闘には直接参加しなかったとは言え、戦う父や兄の身の回りの世話に奔走し、徳川の大砲に怯え、侍女や家臣達と共に籠もった大阪城が燃え落ちるのを、阿梅はどんな気持ちで見つめていたのでしょうか。

翌8日、秀頼君、淀の方自害。阿梅の兄である大助幸昌もまた、彼らに従って殉死しています。
真田は豊臣の譜代の家臣ではない、まだ14の子供ではないか、内応を疑われていたというのに、そこまで忠義立てする程の義理があるだろうか……等々、周囲の人は彼の自害を止めようとしましたが、彼は父の遺命であるとして、静かに西に向かって一礼すると、見事に切腹して果てたと、今に残る書物は伝えています。

11日、大坂方の武将であった長宗我部盛親が捕らえられる。二条城門外に縛り付けられ晒された後、15日に6人の子女と共に斬首。
12日、秀頼の妾腹の娘が捕縛される。秀頼の正室で家康の孫娘であった千姫の必死の嘆願により、落飾、助命を許される。
14日、大坂町奉行であった水原石見守が潜伏先で藤堂高虎の家士と交戦、三人を斬り伏せ、自身も斬り死に。
23日、秀頼の遺児である8歳の国松が捕らえられ、六条河原で処刑される。

名のある人は、捕らえられてから処刑されるまでの記録がありますが、この他にも毎日50から100という数の豊臣に与した人々が捕らえられては処刑され、伏見から京都にかけての街道筋には、およそ2万もの首が晒されたと言います。

 

残党狩りを逃れて所領の白石に無事到着

このように豊臣の残党狩りが苛烈を極める中、徳川への義理を果たし、片倉隊の労あって大功を立てた伊達軍は、徳川秀忠の帰陣に伴って9日朝に難波を発し、夕方には京都の伊達家所有の屋敷に入りました。

伊達の軍勢はこの後しばらく京都に滞在した後、主人に従って仙台領に帰還しています。隊伍の中に阿梅姫を隠し、奥州までの数々の関所を潜り抜け、重綱は片倉家の所領である白石に戻ると、そこに阿梅の弟妹達も呼び寄せ、男子は片倉の姓を名乗らせ伊達家に仕官させ、女子は輿入れ先を探してやりと、かいがいしく世話を焼き続けます。

重綱は、幼い上に身分的にも上(幸村は真田氏の嫡男ではありませんが大名格の家柄であり、片倉氏は大名に仕える陪臣です)である阿梅姫を側女とすることを憚ったのか、彼の正室が阿梅を妹のように可愛がるに任せて放置しており、彼の正室が病を得て他界するに至って初めて阿梅を室に迎えています。

阿梅を可愛がりに可愛がった彼の正室が、死の間際に「私の死後はどうか阿梅殿を室に入れて下さい」と遺言を遺す程だったと言いますから、よほど阿梅を信頼していたのでしょうね。

この後、二人は34年の間を夫婦として仲睦まじく暮らします。
その間、片倉家にちょっとした内紛があったり、彼らの主である政宗とその庶子秀宗の間に一悶着あったりと、世間は決して平穏無事とは行きませんでしたが、二人は力を合わせて様々な難事に立ち向かい、片倉家を支えています。

万治2(1659)年3月、重綱が76歳でこの世を去りました。
夫の菩提を弔っていた阿梅もまた、その二十数年後に眠るように息を引き取ります。
12の年に奥州に匿われてより、戦とは縁遠い生活を送ってきた阿梅でしたが、生まれ育った西国や少女の頃に見た壮麗な大阪城、そしてそれが燃え落ちる光景は忘れがたいものだったのでしょう。「少しでも西国に近いところに埋めて欲しい」という彼女の遺言で、彼女の墓は奥州街道の傍、白石から遠く西国を望むようにして作られています。

 

幸村の死から100年 真田家復興の動きが!

時は流れ、正徳2(1712)年、大坂夏の陣から100年近くの月日が経ったある日のこと。
伊達家中にあった片倉辰信という一人の武士が、片倉家から独立しかつて彼の先祖のものであったという姓への復帰を認められています。
彼が名乗った姓は「真田」。そう、阿梅姫が我が身に替えても守ろうとした、幸村とその正室の血を継ぐ唯一の男子、当時4つであった真田大八の息子です。
彼はこの後も仙台藩に仕えて数々の業績を残し、その血統は明治維新で仙台藩の砲術指南役として活躍、平成の世の今も続いています。

寡兵で徳川の大軍に立ち向かい、壮絶な突貫攻撃の末に果てた幸村。敵兵や無頼の輩がうろつく戦場を決死の覚悟で渡りきり、片倉の陣地に駆け込んだ幼い阿梅姫。
彼らが望みを託した白石の地には、今も真田の名を残す史跡が数多くあり、彼らが生きた激動の時代の気風を現代に伝えています。

鈴木晶・記

富永商太・絵

「仙台真田代々記」宝文堂 小西幸雄 著

「仙台領戦国こぼれ話」宝文堂 紫桃正隆 著

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「戦国闘将伝十文字槍の天才軍師真田幸村」 著者: 戦国歴史研究会

 





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