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レントゲン車じゃない!胡瓜車だった!レントゲン車の考案はキュリー婦人【第一次世界大戦100年Vol.6】

更新日:

近現代戦史研究家takosaburou氏の第一次世界大戦100年シリーズ第6弾です。今回はあの有名な車と有名人の「すれちがい」。

第一次世界大戦をきっかけに考案された兵器が戦車である事は、皆さんも御存知でしょう。しかし、これとは別の考案が当時なされ、しかも今なお私達の生活に深く影響を与えている事は余り知られていないかと。

これですわ。

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春や秋の定期健康診断で、すっかりおなじみの車ですけど実はこれって、第一次世界大戦の際、フランスで考案されたものだと御存知でしたか?

しかも、発案したのは、あのキュリー夫人だったのです。

ロシアの圧政から逃れたフランスで夫と出会う

キュウリ夫人じゃないのよ(Wikipediaより)

まず、簡単にキュリー夫人の生涯を辿ってみましょう。

1867年(つまり幕末)にロシアの植民地同然だったポーランド立憲王国で下級貴族のブワディスカ・スクロドフスキーの末娘として生まれ、マリアと名付けられた彼女は、幼少の頃から抜群の頭脳でした。
お父さんが科学者、お母さんが女学校の校長さんという家庭環境もあったのでしょう。

とは言え、当時の国情や、女性の社会的な地位が低かった時代でしたので、ギムナジウムを優秀な成績で卒業した後は家庭教師などをしながら、苦しい家計を支える日が続きました。(ギムナジウム=日本の中高に相当するヨーロッパの中等教育機関)

また、ポーランド人に高等教育を受けさせまいとしていたロシアに抵抗する形で密かに設立されていた移動大学で勉強を重ねます。この大学は非合法だったので、捕まる危険性があったそうですから、意志と冒険心の強い人だったのですね。

恋人との結婚生活を夢見たものの、それが叶わぬ事を知った彼女は、パリへの留学を決意します。お姉さんが医師と結婚し、パリに住んでいた事も理由でした。

当時、女性に門戸を開いていた数少ない高等教育機関だったソルボンヌ大学(フランスですら、そういう時代だったのですね)で物理、化学、数学を学び、貧しい生活と戦いながら卒業。フランス工業振興協会の研究を請け負って糊口をしのぐ日々が続きました。

ピエール・キュリーとの運命の出会いがあったのは、1891年。27歳の時でした。ポーランド時代の知人の女性がパリを訪ねた際、「研究施設が手狭で困っているのよ」と悩みを打ち明けたところ、女性の御夫君が「じゃあ、場所を提供出来そうな人を紹介するから掛け合ってみれば?」という運びになり、会ってみたのがピエール。
パリ市立工業物理化学高等専門大学で研究を重ね、功績が有名ではありましたが、一方で「俺の研究心を理解してくれる女なんているものか」と、独身を貫く生活をしていました。
ちなみに、専門は磁気の研究。マリアの方も当時の研究対象が鋼鉄の磁気的性質という代物。そりゃ、くっつく訳だ(笑)。

なお、結婚指輪も披露宴も抜きという地味婚。祝儀で買った自転車でフランスの田園地帯を回るという新婚旅行だったと言いますから、アタマの良い人の考える事は良く分かりませんな(と、僻んでみたりする)。

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放射能を命名 女性初のノーベル賞受賞

なんか気むずかしそうな夫婦(と子供のイレーヌちゃん)

やがて、ウランが自然に発する透過性の高い光線について、夫婦揃って研究に着手。

いわゆる「放射能」や「放射性元素」という概念に行き着き、命名したのは夫人でした。有名なポロニウムの発見は1898年7月。ロシアに屈従する祖国を思いやって名付けたというエピソードは、余りにも有名ですね。ラジウムの発見が同じ年の12月。こちらは激しい放射線を発する新元素でありました。

しかし、論文発表後に「新元素と言うなら、その原子量(一定の基準によって定めた元素の原子の質量)が幾らなのか」「原子量の特定には、新元素の塊が無いと」と言った声が上がります。
ピッチブレンドをオーストリアの鉱山から取り寄せては、元は医学部の解剖室だった施設で擂り潰すという、気の遠くなるような作業を重ねた末に純粋ラジウム塩を抽出したのが1902年。

かっぽう着は…着てないで研究中の夫婦

ちなみに鉱山からの取り寄せ料は夫妻が負担しており、生活は火の車状態。ピエールはリウマチに、夫人は夫人で夢遊病に罹る始末。それだけに、ラジウムの発する青い光を見た夫妻は、さぞかし感動した事でしょう。

そして、1903年、夫と共に、遂にノーベル賞受賞。女性としては史上初。7万フランが授与され、ようやく貧乏生活から脱する事が出来ました。

なお、ラジウム精製の特許を取ろうと思えば取れたのですが、「世のためにならない」とオープンにした為、本人らには金が入って来ずじまい。皮膚疾患の治療といった医学的効能もある事が分かっており、非常に高値で売買されるようになっていたにもかかわらず、です。「勿体ない」と、ビンボー生活の我が身から溜息が思わず(って、誰も聴いてないって)。

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夫がまさか交通事故で…(相手は荷馬車)

しかし、好事魔多しとは良く言ったものでして、ピエールは1906年4月19日、パリで荷馬車に轢かれ、帰らぬ人となってしまいました。夫を深く愛していた彼女は、日記に後追い自殺を仄めかすなど、精神的に不安定な日を過ごしたものの、やがて立ち直ります。大学側の申し出を受け、ピエールの仕事を継いでソルボンヌ大学で初の女性教授に就任し、悲しみを忘れようとします。

ちなみに、外国人女性という事もあって、フランスには夫人を良く思わない一派もあり、フランス科学アカデミーの会員には落選。その後、不倫の噂を立てられて新聞記者に追いかけ回されたり、波乱の人生。

ちなみに、スキャンダルを書き立てる癖に、外国で彼女が評価されると手のひら返ししては持ち上げる当時のマスコミを、心底嫌悪していたのですって。何時の世も何とやらですなぁ。

第一次世界大戦勃発でひらめく X線でけが人見ればよくね?

さて、1914年7月に、また波乱が。夫の名前を採ったピエール・キュリー通りにラジウム研究所が完成し、「張り切って研究するぞ!」と意気込んでいた矢先の28日に、第一次世界大戦が勃発するのです。

1月ちょいで、ドイツ軍がパリ近くまで進出し、空襲も受けます。研究所内の純粋ラジウムを失いたくなかった彼女はボルドーに疎開しようとしますが、ハタと考えます。

「不幸な祖国の為に何もできないのだから、第二の祖国の為に持てる力を全て注ごう」(フランスの物理学者、ポール・ランジュヴァンに宛てた1915年1月1日付けの手紙から)。

マリー・キュリーと放射線科学というHP(英語)によると、次のような展開だったそうです。

研究所に残っていた僅か1グラムのラジウムを重たい箱に入れ、政府関係者と共にボルドーに向かいます。しかし、他の人と違って「自分のいるべき場所はパリだ」と思い直した夫人は、ラジウムを安全な場所に保管した後、パリに戻ってきたのです。

当時、既にX線が医学に使われていましたが、夫人はこれが負傷した兵士の治療に役立つと気づきました。どこに弾丸がめり込んでいるかなどが、X線を使えば分かるだろうからと言うのです。で、X線設備を乗せた車を作ったら、移動も出来るじゃないの、と。

流石はノーベル賞を貰うだけあって、頭が良いなぁ。

フランス軍に放射線治療部門が無いと知ると、政府を説得して作らせます。
そして赤十字放射線サービスという部署の局長に就任し、自分も金を出す一方、当時の富裕層に働きかけて、レントゲン車を作らせていきます。

本人自身が、自動車メーカーに赴いて「祖国や兵士を救う車となります」と説得したそうですが、相手にしたら仰天した事でしょうね。「えっ、あっ、あのキュリー夫人が、わざわざウチみたいな所に?」てな感じだったかと。

こうした抜群の行動力が実を結び、1914年10月後半には最初のレントゲン車が20台完成したそうです。たった1ヶ月での快挙!

ちなみに、作られた車は「小さなキュリー」(petites Curies)と名付けられました。

レントゲン車は「小さなキュリー」だったのに…

もっとも、夫人はソルボンヌでX線について講義してはいたものの、こうした実務の運用経験はゼロ。しかも場所は、文字通り実戦の場でした。

実践が実戦って訳ですね(と、オヤジギャグ)。

で、どうも、この人は課題が途轍もなかったり、山積しているほど燃えるタイプだったようです。

まず、最初の課題が「場合によっては、運転しなければならないわよね」。「ま、そういやそうですけど…」と、周りの人が一般論で返したかどうかは知りませんが、自動車の運転をマスターします。当時の女性としては、チョーが付く先進性(ま、ノーベル賞貰う事に比べりゃ何とも無かったんでしょうけど)。

次に「解剖学も分かって無いと駄目よね」と、そっち方面の勉強も。X線設備の使用方法も、ついでにって感じで。

とどめは、自動車の整備までマスターしたと言うのですから、スッゲーとしか言いようが無い。つまり、ツナギの服を着て、車の下に潜ってレンチを使って修理とか出来るようにまでなっていたのです。時代さえ一緒なら、本田宗一郎さんと話が盛り上がったかも?(と言うか、今頃天国で盛り上がってるのかも)

そんな夫人が選んだ放射線学のアシスタントが、実の娘のイレーヌ。

えー、女性の年齢を云々するのはアカンのでしょうけど、1897年9月12日のお生まれ。つまり戦争勃発の時点では17歳。科学方面の教育をしっかり受けてはいたそうです。

先にも挙げたマリー・キュリーと放射線科学というHPによると、軍医の同行の下、1914年秋には母娘連れ添って「最前線までの最初の視察を行った」そうです。

「お母さん、頼むから止めて!」という感じどころではありませんね。正義感が強かったんだろうなぁ。

…と言うか、そろそろ誰かが止めろよって感じすらしますが(苦笑)。流れ弾が当たる可能性だってあるんだし。まして、世界的な頭脳とされる人でしょうに、死んだらどうするんだって。「先生っ! 娘さん! 後は、私達でしますから、どうか安全な場に」ぐらい言えよって。ノーベル賞2回貰っている人なんだぞ!

ノーベル賞2回受賞者が娘と一緒に最前線に

前線では負傷の様子を記録する役を務めました。「戦時中にX線を使って多くの負傷兵の命を救った。また、慢性疾患や長患いからも多くを救った」(キュリー夫人)

とは言え、最前線に赴いた以上、負傷した兵士の様を見ていた筈。娘さんはショックを受けなかったのかが気がかりですね。これについては、夫人本人が記録を取るに当たり動揺しないようにする事で、手本としていたそうです。

そうした奮闘が認められ、イレーヌには戦後軍事勲章が与えられています。

さて、こうした車両が20台の他、200もの移動式の治療ユニットを揃えるまでになると、幾ら2人で頑張っても限界が出てきます。そうなると、次の課題は「もっと沢山の放射線学のアシスタントが必要だ」。

で、これもクリア。ラジウム研究所などを使って、イレーヌも手伝う中で次々に人員要請。なお、このイレーヌは、傍らでソルボンヌに通い、学業を終えた後は1935年にノーベル化学賞を受賞しています。母もスーパー・ウーマンなら、娘もスーパー・ウーマン。頭の良い家系って、あるんですね〜。

さて、1915年を迎えると戦争は膠着状態に。夫人はボルドーに疎開させていたラジウムをパリに戻し、ラドン・ガスの研究に着手します。ざっくり言うと、ラドン・ガスはラジウムを一定量放射するガス。電気ポンプを使って48時間感覚で希薄化したガスを1センチ大のガラス・チューブに封印し、それを各地の野戦病院や前線の医療施設に届けていきました。

受け取った医師は、これをプラチナ製の針に装填して患部に直接注射し、疾患が酷い箇所を直すというのが治療の流れ。

つまり、治療法まで確立させたんですよ。どこまで凄い人なんだろう(汗)。

「ある種の状況下で、純然たる科学の発見を応用する事が、疑いも無く、また途轍も無い結果を生む。戦時中の放射線学の辿った道筋は、正にその見本だ。X線は、戦争前は限られた有用性しか知られていなかった。似たような進化がラジウム治療で起き、放射線の医療用途が放射性元素から発せられたのである」(キュリー夫人)。←てな事を、サラッと書いてしまう当たりも凄い。もうちょっと自慢して良いのに。

「お金は足りているの? ハイ、これ」にフランス政府仰天!

愛国精神の発露と言いましょうか、「それだけ尽くしたらもうエエやん」と凡俗なら言いそうな所ですが、一人の国民としても献身しようとしました。

戦争が長期化するにつれ、心配なのは「国のお金」。まず行ったのが、戦時国債の購入。2度のノーベル賞で得た金をつぎ込みました。

それだけではありません。「お金は足りているの? ハイ、これ」と、今度は授与されたノーベル賞のメダルそのものをフランス国立銀行に寄付したいと申し出たのです。24金で出来ていますので、「金属として溶かしても価値が高い」と御本人は思ったのでしょう。それを2個も持って来られた銀行の担当者は仰天したそうです(そらそうやろうなぁ)。で、「すっ、すんませんが、さすがにこれはよぅ受け取れませんわ」と、丁重にお返ししたそうな。

さて、戦争は1918年11月11日に終わったものの、残務処理は翌年まで続きました。帰国を待つアメリカ軍将兵に、放射線学の講義をしたり、「戦時の放射線学」という著書を執筆したりしていたからです。翌年の秋、ようやく本来の研究職に復帰します。

そういう経緯があったせいか、アメリカで関心を持たれるようになり、女性誌がインタビューしたりしています。嫌いだったのは、あくまでフランスのマスコミだけだったのでしょうか? ともあれ、この時インタビュアーから「今、何が欲しいですか」と訊ねられた夫人は「1グラムのラジウム金属よ」と返します。当時の米ドルに換算して10万ドルの価値がしましたし、簡単に入手出来なかったのです。で、義侠心を発揮したインタビュアーは「キュリー夫人にラジウムを」と大キャンペーンを展開。遂には、渡米して当時のハーディング大統領から直々にラジウムを受け取っています。

また、1929年に再度の渡米。この時にはフーバー大統領と会見した他、大勢のスポンサーを得て祖国のワルシャワにラジウム研究所を設立します。御本人にしたら、感慨無量だった事でしょう。

奥ゆかしさが命取りに…

こうした功績は、フランス全土に知られていたのは言うまでもありません。特に、医療の世界からは深い感謝が寄せられました。齢を重ねると誰しも病気がちになりますが、夫人も例外ではありません。で、病院に行くと「失礼ですが、キュリー夫人でらっしゃいますね?」となり、「治療費を受け取るなんて、とんでもない事でございます」と、あらゆる医師が無料で治療してくれたそうです。

で、それが逆に「申し訳ないわねぇ」となってしまい、病院嫌いにさせてしまったそうです。どこまでも奥ゆかしい人です。

しかし、それが逆に命取りになってしまいました。1932年に骨折するなどし、さすがに病院のお世話になるように。そして、1934年に死去。再生不良性貧血が原因でした。享年66。

この再生不良性貧血ですが、発症の原因は幾つかあるものの、放射線もその1つです。上記の「マリー・キュリーと放射線科学」によると、レントゲン車やラドン・ガス製造に当たってのX線からの防護が不十分で無かったとしています。こうした被曝と、御本人の奥ゆかしさが命取りになってしまった可能性があるのですね。もっと早くに治療に当たっていれば…。

なお、イレーヌも1956年に58歳で死去しています。死因は白血病。やはりレントゲン車が元凶だった可能性がありそうですね。母娘として「我が身の安全よりもフランス救国」という思いで、そうなってしまったのなら痛ましい。

レントゲン車ではなくキュリー車と言い直そうよ

で、ここから先はいち個人の意見です。

こういう経緯で作られ、また母娘で文字通り貢献していた事などを考えれば、レントゲン車と言う名称が適切なのだろうか?と。

キュリー車と言い直すべきなのでは無いか。

女性として初のノーベル賞を受賞する事で、性差別を打ち破る突破口を作った人でもあります。だったら、やはりキュリー車でしょう? 私は、そう思うのですが。フェミニズム運動に携わっている人達は、どうか御一考頂きたく。

takosaburou・記

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