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あわや世界大戦でドイツ大勝利?! フランス将軍「飛行機?おもちゃでしょ、兵器には使えん」 【第一次世界大戦100周年Vol.8】

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 第一次世界大戦でドイツが敗北したのはご存じでしょう。しかし、勝者となったフランスの将軍さまが最新の道具である飛行機を「使えない」と評価し、そのままの路線で突っ走っていたら歴史は変わったかもしれません。近代戦史研究者takosaburouさんの第一次世界大戦100周年シリーズ第8弾です。

 

画期的なイノベーションほど、世に受け入れられないもの。そうした判断を誤って左前になってしまう組織とか業界とか、良く見かけますよね(インターネット事業に背を向けている日本の新聞業界なぞ、その典型でしょう)。
これって今に始まった話ではありません。100年以上前の第一次世界大戦前夜にもありました。

飛行機がそれです。「オモチャとしては面白いが、兵器としては無価値だ」と、受け入れを渋ったのが、フランス陸軍の重鎮だったフェルディナン・フォッシュ将軍だったのです。

 

「iPhoneなんて売れんよ」(フォッシュ将軍、Wikipediaより)

展開次第では、フランスが軍用機の開発や運用に後れを取り、負けてしまっていたかもしれない訳です。危ない危ない。

 

勇猛で名言の多い将軍だったけど

フォッシュは1851年、スペインとの国境に近いミディ=ピレネーという地方にあるタルブという街で生まれます。イエズス会系の大学で学んでいた1870年に普仏戦争が勃発すると、陸軍に志願入隊。戦後も除隊する事無く、ゆっくりとではあったものの、昇進を重ねていきます。

 

砲兵士官としてフランスの軍事史に興味を持つ一方、当時余り知られていなかったクラウゼヴィッツの軍事理論を研究・発展させていくなど、先見の明のあった人でもありました。

 

また、世間の関心を引く発言をする雄弁家でもありました。
例えば、「我が軍の右翼は押されている。中央は崩れかけている。撤退は不可能。状況は最高、これより反撃する」は大戦勃発後の第9軍司令官時、ドイツ軍に対する防戦を指揮していた際に発した言葉。

「我等はパリを前にしても、パリの真っ只中でも、パリを後にしても戦うだろう」と並んで、かの戦争で引用される事の多い発言です。また、ベルサイユ講和会議については 「これは平和などではない。たかだか20年の停戦だ」と喝破。チャーチルが著書「第二次世界大戦」で引用しているほどです。

 

そんな人でも、見誤る事があったのですね。

名言なんだって、名言!(Wikipediaより)

 

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フランスではアメリカ以上に飛行機ブームだったが

 

くだんの発言は1911年に出たものでした。では、当時のフランスの航空機を巡る環境が、フォッシュをしてそのような発言をさせるほど劣悪だったかというと、そうではありませんでした。それどころか、世界一と言っても良いぐらいのブームだったのです。

 

ライト兄弟以前に、アメリカでは陸軍が巨額の予算を投じて飛行機の研究開発をしていたと言うのは、知る人ぞ知る話。ところが、フランスでも同じように飛行機が開発できないかを模索していたのです。爆撃機や着弾の観測に使えないかと言うのが動機でした。でもこれは失敗に終わり、ライト兄弟に栄冠を奪われてしまう有様となりました。

 

しかし、その後は発祥国のアメリカで飛行機の開発がもたつく一方で、フランスは猛チャージをかけていきます。

アンリ・ファルマンが、それまでのブレードに代わり、離発着用に車輪を付けた飛行機を開発したのが1908年。そしてルイ・ブレリオがドーバー海峡を渡ったのが、先の記事(戦火で幻となった人類初の世界1周飛行レースとは【第一次世界大戦100年Vol.5】)にもあったように、1909年。1910年、日本の空を初めて飛行機が舞った際、採用されたのがアンリ・ファルマン複葉機でした。

アンリファルマン複葉機(Wikipediaより)

 

また、1911年に勃発した、北アフリカの支配権を巡るイタリアとトルコの戦争(伊土戦争)では、世界で初めて空襲をしたり、戦場の偵察をイタリア側が飛行機で行っていますが、いずれも使われたのがファルマンやブレリオ。つまり、答えを出していたのですね。

 

でも、フォッシュからしたら「オモチャ」でしか無かったのでしょう。

 

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「オモチャなんかじゃ無い!」と、別の将軍が気づき

 

そうした冷ややかな目をするフランスでの飛行部隊誕生は1909年12月。陸軍の航空隊として生まれました。偵察の道具として使える可能性があると思われたからです。

 

当初は軍内の各方面(特に砲兵科や技術科が多かったそうですが)から将校を抜擢しては、民間の飛行機学校に通わせて操縦を習っていましたが、1910年10月には専門の育成機関を陸軍内に作ります。

なお、1911年には軍用機として使えそうな飛行機を見積もるべく、ランスで各国機を集めたコンテストを行っています。言わば飛行機の見本市。今日では当たり前のように行われていますが、最初に手がけたのはフランスだったのですね。つまり、それなりの位置付けもされているし、先進的な試みもしていた訳です。

 

そんなフランス陸軍が第一次世界大戦時に保有していた軍用機は132機。21の飛行中隊があったそうです。1914年8月3日にドイツ側が宣戦布告すると、いきなり過激な展開が。

 

エドアルト・バレスという将軍が、いきなり飛行中隊を65に増やそうと提案したのです。合わせて、任務も拡張。ファルマン社の飛行機は偵察用に使う一方、モラーヌ・ソルニエ社のは戦闘機に、ヴォワザン社のは爆撃に、コードロン兄弟社のは弾着観測にと言った具合。
ちなみに、フランス陸軍航空隊の飛行機によるドイツ軍機の最初の撃墜は1914年10月5日だったそうですから、早くも戦果を挙げた格好です。「オモチャなんかじゃ無い」と早めに気づいて良かったですね。

 

ベルダンの大激戦にも投入され、運用ノウハウを蓄積

 

ヴェルダンの戦い(Wikipediaより)

 

1916年には独仏合わせて100万人以上の戦死者を出したベルダン攻防戦にも、こうした飛行中隊が投入されていきます。

戦闘の際に編隊を組む重要性に気づくなどのノウハウを積んでいったのも、この頃。偵察機がドイツ軍機にバタバタと撃墜されてしまい、弾着がまともに出来なくなるという一大ピンチを迎えたフランス陸軍のペタン将軍が、部下を呼びつけて「敵の動静が分からなくなってしまった! 直ちに空を掃除しろ」と一喝し、戦闘機が集中運用され、辛くも制空権を奪回。
それがベルダンの死守を可能としたというのですから、大きな役割を占めたと言えましょう。

 

翌年の1917年4月には、戦闘機中隊が60、爆撃機中隊が20、総計2870機を有する大部隊に膨れ上がります。休戦の時点では3222機あったそうです。

 

戦果はどうだったのか。ドイツ軍機を2049機も撃墜し、観測用の飛行船を357隻も血祭りに上げています。
一方、戦死者は3500人。負傷したり行方不明になったのは3000人。訓練などで事故死した人が2000人いたというのが痛ましいですね。やはり、黎明期の飛行機には色々と問題があったようです。

 

なお、こうした大戦果を挙げた事について、フォッシュがどのように評価していたかは不明です。1918年3月に連合国軍総司令官に就任していますし、8月には元帥に昇進しています。ですが、この「オモチャ発言」は未だにオンライン上でネタにされていたりします(苦笑)。

 

なお、どうした訳なのか、こんな発言をしていたのに何故かフランスでは海軍の航空母艦の名前に使っています。おフランス様の考えなさる事は、よう分からんわ。

だからワシはあえて逆の意味で言ったの!とか言っていそう(Wikipediaより)

 takosaburou・記

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