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週刊武春 徳川家

オカルトを信じた維新の志士、信じなかった徳川家康 妖刀村正伝説は真か偽か?

更新日:

「村正」と言えば、今や押しも押されぬ日本一の妖刀として、映画や小説、ゲームなどにも登場する有名な刀の一つです。
でも、実際はどんな刀だったんでしょう?所持すると人を斬りたくなっちゃうの?持ち主に祟りがあるの?実は筆者も良く知りませんでした。
そこで今回は戦国から近代までの妖刀村正にまつわる伝説や逸話を集め、その真偽を調査・考証したいと思います。

妖刀村正伝説は真か偽か?あなたはどちらだと思いますか?

村正(徳川美術館HPより)

村正とは個人の名前でなくユニット名

「村正」とは、室町時代から江戸初期にかけて伊勢国(三重県)桑名に存在した刀工集団の名称で、彼らによって製作された日本刀もまた「村正」と呼ばれます。
ほぼ戦国期の刀工ですから、片手打ち(歩行戦に特化した片手で振れる位の長さの刀)や脇差、槍などが主な作品のようですね。

博物館に展示されるような美しい刀と言うよりは、実用品として戦の役に立つ刀を作る事を目的とした刀工集団で、目利きにも「全体的に垢抜けない」「やっぱ日常使いの品だよね」など、本当に妖刀なの?と聞きたくなるような評価を付けられていたりします。ダサい妖刀、それはそれで斬新です。

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徳川家康の祖父、父、息子、妻の死因

さて、基本的な解説が済んだところで、いよいよ村正はなぜ妖刀か?という所に踏み込んでいきたいと思います。

妖刀村正伝説において最も有名な逸話は、やはり戦国から江戸初期にかけての徳川家に関するものでしょう。

徳川家康の祖父、松平清康は25歳の若さで部下に殺害されます。
その子広忠もまた部下に斬られ死亡、家康が織田信長と同盟関係にあった時には、息子の信康が武田との内通を疑われて自害させられていますし、やはり武田派と疑われた正室の築山殿に至っては家康自身が家臣に命じて殺害させています。

例え血の繋がった家族であっても憎しみ合うのが珍しくないのが戦国時代ですが、そういった要素がそれほど無いにも関わらず、家康の前半生は家庭に恵まれない人生だったと言えるでしょう。

さて、この家族の命を奪ったのがすべて同じ銘の刀だったとしたらどうでしょう。
祖父や父の命を奪い、息子の介錯や妻の殺害に使われた凶器が全て同じ「村正」のものだったら?

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家康本人にも襲いかかる村正 真田幸村も持っていた?

兜は鹿の角だけど刀のことまで覚えてないな(絵・富永商太)

兜は鹿の角だけど刀のことまで覚えてないな(絵・富永商太)

さらに、家康は今川家での人質時代、手を切って怪我をしています。怪我の程度についてはよく分かりませんが、当時の記録に残る程なので、それなりの大きな怪我だったのでしょう。これも村正と…。

関ヶ原の戦いでは、敵将を貫いても無傷だったという槍の検分中に家臣が槍を取り落とし、落下地点にあった家康の指を傷つけています。そこに指を置いとく方もどうかと思いますが、これもまた村正でした。

まだあります。大坂役において真田幸村が徳川本陣を急襲した際、家康に投げつけた短刀も村正ならば、慶安年間に由井正雪のクーデター計画が発覚した際、正雪が所持していたのも村正、幕末、西郷隆盛をはじめ倒幕派の志士の多くが佩刀していたのもまた村正でした。

さて、ここまで書いてしまうと妖刀伝説は本当のような気がしてくるのですが、ここからそれぞれの逸話について改めて検証してみたいと思います。

江戸時代以降に徳川家に祟る刀として怪談ブームでブレーク

まず、最も簡単な所から。由井正雪と倒幕派が所持していた村正についてです。

徳川に祟る妖刀、村正の伝説がいつ頃から噂されるようになったかは不明ですが、江戸後期には歌舞伎などの怪談ブームがあり、妖刀村正の演目は大変な人気を博しました。その結果、幕末の頃には村正の伝説は庶民の間に完全に定着、「村正=徳川に祟る妖刀」という図式が完成していたようです。

そのため、倒幕を志す者にとって村正は「徳川に仇なす刀」=「倒幕を達成するための縁起物」と解釈され大人気商品となりました。無銘の刀を「村正」と騙って販売する詐欺が横行し、巷には村正の偽物が大量に出回ったのだとか。

よって、由井正雪や倒幕派の志士が佩いていた村正については逸話→伝説ではなく、むしろ伝説→逸話、特に倒幕派に至っては伝説→詐欺商法という現象であったと言えるでしょう。

幸村と村正の記述は幕末の名言集

次、真田幸村が所持していた村正についてです。
これは「名将言行録」という書物に収録されている話で、「幸村は家康を滅ぼすため、徳川に仇なす村正を持っていた」との記載があります。
でもこの「名将言行録」、幕末の書物なんですよね。その名が示すとおり、戦国期の武将や大名の言行についての記録を集めたものではあるのですが、中には講談や歌舞伎が元ネタになっていたり、民間伝承を収録しただけのものもあったりします。

大坂の陣における豊臣方のスーパーヒーロー、真田幸村と徳川に祟る妖刀村正、この取り合わせに江戸期の歌舞伎脚本家がくいつかない訳がなく……ええ、幸村が村正を所持していたという実際の記録はありません。残念です。

三重で作られた村正は東海地方の武士のデフォの装備だった?

三つ目、村正が徳川に祟ると評判になった始まりの事件である、家康公の家族の事件に使われた村正について。
これは一見するとすごい偶然の一致のように思えます。祖父と父、息子と妻が殺害され、その凶器の全てが村正。現代日本でこんな事があったら、ものすごい偶然の一致、もしくは呪いだと言っても良いかも知れません。

しかし、この記事の冒頭、村正の基本解説を思い出して頂きたいのですが、村正は伊勢国、つまり三重県桑名の刀工です。対して徳川の本拠地であった三河は愛知県の東部。……あれ?近くないですか?

そう、家康の家族の事件に使用された凶器が全て村正であったのも、当時村正が三河武士の間で普通に装備されていたためであって、みんなが村正を持っていれば、凶器も村正になりますよね、という話なのです。

当時の物流事情から言っても、大名や大商人でもない限り、正宗などの名物を遠国から取り寄せるなんてことはできませんし、下っ端の刀は無銘である事がほとんどです。そうしたら、中流階級の武士が求める刀と言ったら大体近場の刀工のものになりますよね。

手や指の怪我についても同じ事が言えそうです。家康公の手を切った刀については、上述の理由から村正であっても不自然ではありませんし、槍の検分を家康公に所望された武将の名は織田長孝、織田信長の甥で、伊勢のすぐ北側である美濃(岐阜県)に所領を持っていました。これも同様の理由で片付けられそうです。

そんな訳でこの問題は「なぜ村正が凶器だったのか?」=「身の回りの刃物が村正ばっかりだったから」という結末に落ち着きそうです。

家康は村正のことを気にしなかった

「ツタンカーメンの呪いって知ってる?発掘した本人は長生きしたんだよね、ワシも長生きだよ」

「ツタンカーメンの呪いって知ってる?発掘した本人は長生きしたんだよね、ワシも長生きだよ」

ちなみに、家康自身はこの噂を気にしておらず、村正も普通に使っていたようです。さすが稀代の名政治家で戦国武将ですね。彼の形見として尾張徳川家に伝えられた村正が、今も名古屋市にある徳川美術館で展示されています。

村正(徳川美術館HPより)

村正(徳川美術館HPより)

村正に関する様々な噂が眉唾らしいというのは、当時の流通に詳しい戦国や江戸初期の人の方が現代人よりも良く分かっていたようですが、時代が下るにつれ村正はだんだんと徳川家からも忌避されるようになっていきます。
まあ、「村正って徳川家に祟るんだってね」と江戸中の噂になったら、徳川家の人だって何となく村正を持っていたくなくなりますよね。当時は徳川家を憚って村正を投棄したり、銘を潰したりした人も多くいたようです。

江戸・明治の放射脳?徳川にあだなす刀から血をもとめる妖怪ウォッチ刀へ

更に江戸後期から明治辺りになると、妖刀村正の伝説は更に破天荒な方向に暴走していきます。

例えば歌舞伎「籠釣瓶」。資産家の男が花魁に大金を注ぎ込んだ挙げ句に手酷く振られ、最後には「籠釣瓶」と名付けられた村正で花魁やその取り巻きを殺してしまうと言う、徳川が全く関係無い仕上がりになっています。

そして現代、「一度鞘から抜けば血を見ずにはおかない」「勝手に鞘から抜け出て持ち主の腕を切り落とす」「刀身が血を求めて鳴く」etc.ここまでくると最早村正は日本刀というよりは刀に擬態した金属生命体としか思えません。

それにしても、徳川に祟る刀だと忌避されたり、逆に倒幕派にはチヤホヤされて大量のニセ物が出回ったり、歌舞伎や講談などで面白おかしく扱われたり……なんという風評被害。

歴史の偶然がいくつも重なって、我が国でも類を見ない大規模な、そして長期に渉る風評被害に遭ってきた村正。もし村正の本拠地が伊勢でなかったなら、天下を獲ったのが家康ではなかったなら、など歴史のifを語り出したらきりがありませんが、これらの偶然があったからこそ、村正は現代人でも知っている有名な刀の一つになったのでしょうね。

妖刀なんてないんだね…と思ったら現代の理系の研究所での怪

さて、謎解きも終わってすっきりして帰りたい所ですが、ここで近代に入ってからの逸話を一つ。

「鉄の神様」本多光太郎先生をご存じでしょうか。世界に先駆けてKS鋼、新KS鋼といった当時世界最強の永久磁石を続けざまに開発した冶金学の世界的な権威です。

先生はとても実験好きな方で、ある時刃物の切れ味を測定することができる「切れ味測定機」という物を造られたそうです。
これは面白いということで、先生の研究室には次々と大量の刃物が持ち込まれました。戦前の話ですので、その中には古今の名刀も多くあり、刀談義で研究室は大いに盛り上がったのですが……そうです、その中に村正が一本、混じっていたのです。

他の名刀が素直に切れ味を測定させてくれる中、なぜか村正だけは測定する度に数値が変動し一定しませんでした。まるで、刃に魂でも宿っているかのように……

これは科学雑誌「ニュートン」に掲載された話で、結局村正の数値は一定しないまま、この話はおしまいになっています。
うーん、学生のイタズラでしょうか?しかし、現代よりもずっと身分の上下に厳しかった時代に、当時の世界の天才の一人であり、東北帝国大学の総長や東京理科大学の初代学長などを歴任する先生の実験に学生がイタズラをしてそのまま逃走という事はないような気がします。

もう一つの可能性としては自己暗示でしょうか。「村正は人に祟る妖刀である」という意識が人の手元を狂わせた可能性です。これなら比較的ありそうですね。
しかし……人間にそんな影響を及ぼす事ができる刀があるとするならば、それはもはや妖物で無ければなんなのでしょう。「持てば人を斬りたくなる」「必ず持ち主に祟りをなす」、それは呪いという名の自己暗示ではなかったのでしょうか。

古今に類を見ない風評被害により妖刀とされてきた村正。そういったスタンスでここまでやってきた訳ですが、もしかしたら、村正を妖刀だと思う人々の思いが村正を真の妖刀にしたのかも知れない、呪い、祟りという物は、それを心のどこかで信じる人々の中にあるものなのかも知れない……などと、それらしくお茶を濁してこの記事をおしまいにしたいと思います。

妖刀村正伝説は真か偽か。あなたはどちらだと思いますか?

*ちなみに本多光太郎は愛知県岡崎出身。きゃーーー!!

鈴木晶・記

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参考文献
藤巻一保・花輪和一「江戸怪奇標本箱」(柏書房)





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