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wikipediaより引用

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週刊武春 源平

足利尊氏も新田義貞も源氏の嫡流じゃない!? 『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』

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信長や秀吉と違って、南北朝時代というのはどうしてもマニアックである。

一般的なイメージとして鎌倉幕府滅亡~建武新政~南北朝時代は、だいたい以下のような流れではないか?

・モンゴルの元寇に勝利したものの防衛戦だったため、鎌倉幕府は武士に恩賞を与えることができず求心力をなくした

・後醍醐天皇は武士から朝廷に権力を取り戻すため幕府の打倒を決意した

・鎌倉幕府の実権は源氏でなく北条氏が握っており、源氏の嫡流にもかかわらず不遇だった足利尊氏や新田義貞が蜂起した

・武士を冷遇する建武の新政に尊氏が反発して後醍醐と敵対する

・勢いに乗る尊氏は楠木正成も滅ぼし京都を制圧し、後醍醐は降伏して北朝となる新たな天皇へ三種の神器を渡した

・後醍醐が渡した三種の神器は実は偽物で、後醍醐は京都を脱出して吉野で、本物の三種の神器とともに正当な天皇は自分と称して南北朝時代が始まる

・尊氏は、後醍醐側の新田と決戦し、源氏の嫡流の争いに終止符をうった

・室町幕府三代将軍足利義満によって南朝は北朝と合体して南北朝時代は終わる。南北朝時代はおよそ60年続いた

こうした定説を、16人の若手・中堅の日本中世史の研究者たちが引っくり返すことにチャレンジ。それが『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社歴史新書y)だ。

 

著者は、『信長研究の最前線』や『秀吉研究の最前線』などを手がけた「日本史史料研究会」であるが、彼等のスタンスは【世の中になかなか出てこない文献研究の成果を新書というカタチで一般の歴史ファンに還元する】というもの。※前作の「信長~」「秀吉~」も同様の理由でオススメ

もっとも、南北朝については信長や秀吉ほど「定説」が定まっていないというのも事実だろう。

編者の呉座勇一氏も「織田信長や豊臣秀吉を知らない人はいないだろう。これに対し、『南朝』といわれてもピンとこない方はいるかもしれない」と、はじめに断っている。

しかし、教科書では満足できない歴史好きには「へぇ」と思う発見がちりばめられて、とても楽しめる一冊に仕上がっている。

例えば

・モンゴルの元寇に勝利したものの防衛戦だったため、鎌倉幕府は武士に恩賞を与えることができず求心力をなくした

この通説に対して、本書では「鎌倉幕府は元寇によってはじめて全国に支配を及ぼすことができた」と指摘。

「御家人だけでなく、西国の本所領家一円地の住人にも動員をかけた。本所領家一円地の多くは公家や寺社が支配する荘園で、それまで幕府は公家・寺社の荘園にいっさい介入できなかった。戦時体制を敷くなかで、幕府の影響力が拡大したのである。」(26ページ、中井裕子「朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!」)

本郷和人・東大史料編纂所教授が「一つではない日本」を常々提示していたが、まさか元寇が(長期的には幕府を衰退させる一因だったとしても)幕府の支配の強化につながっていたとは思いがけないことだった。

 

一般的に鎌倉幕府は全国政権と考えられている。

鎌倉時代の初期に、二代目執権・北条義時は後鳥羽上皇の承久の乱を制し、武士による支配を全国へ広げた。具体的には、承久の乱後、京都の朝廷や寺社が持っている西日本の荘園に、地頭を置き介入しようとしたというのがそれだ。

しかし、京都の醍醐寺が持っていた伊勢国の曽祢荘など4か所の荘園に幕府が地頭を送りこんだものの、反発した醍醐寺から地頭の解任を訴えられ、義時はそれを認めざるを得なかったという書状が残っている(三重県博物館蔵「北条義時書状」)。

西日本東端の伊勢国でもこの有様であるからして、さらに西方がどうだったかは推してはかれるだろう。

実態としては、古代の「一つの日本」から中世の鎌倉時代に「一つではない日本(東国の幕府と西国の朝廷)」になり、鎌倉時代後期に入って再び「一つの日本」に戻ろうとする動きが、国際状況(安全保障の面)から出てきたのだ。

この流れから見れば、「個性的な人物の暴走」と称される後醍醐天皇の建武の新政も、本書で各政策が高く評価されているように、新たな見方ができそうだ。

・後醍醐天皇は権力を武士から朝廷に取り戻すために幕府の打倒を決意した

・武士を冷遇する建武の新政に尊氏が反発して後醍醐と敵対する

上記の定説のように、たんなる懐古主義的な政権奪取ではなかったのかもしれない。
実際、建武の新政は、新しい改革策が「武士」に不評ではあったが、それ以上に公家たちからも「狂気の政道」と猛烈に批判されている史実がある。、単に武家から権力を朝廷に取り戻すルネサンスだったなら歓迎するはずではなかろうか(47ページ、亀田俊和「建武の新政は反動的なのか、進歩的なのか」)。

本書は、足利尊氏らの実像もあばいていく。

・鎌倉幕府の実権は源氏でなく北条氏が握っており、源氏の嫡流にもかかわらず不遇だった足利尊氏や新田義貞が蜂起した

・尊氏は、後醍醐側の新田と決戦し、源氏の嫡流の争いに終止符をうった

足利氏も新田氏も「源氏の嫡流ではなかった」というのが、かなり以前から歴史研究者の間では確定してらしい。

足利氏は源氏の一門ではあるが、とても嫡流といえる家ではなかった。しかし、北条氏との婚姻関係が深く、不遇どころか相当に好待遇を受けていたというのだ。(94ページ、細川重男「足利尊氏は建武政権に不満だったのか」)

新田氏にいたっては、物語である「太平記」で「敵のライバルキャラ」設定のために破格の扱いにされていただけという記述も……。(129ページ、谷口雄太「新田義貞は、足利尊氏と並ぶ源家嫡流だったのか」)

南北朝時代は、第二次大戦前の「皇国史観」にもっとも影響された時代だ。

戦前は天皇に弓引いた足利尊氏は悪であり、尊氏と戦った楠木正成は史料的には「悪党」と確実によばれていたのに「正義の忠臣」となった。

一転、戦後は皇国史観の反動から、南朝の業績は意図的に忘れられてきた。現代の日本は、東京一極集中と、それに反する地方創生が同時に進んでいる。

「一つの日本」か「一つでない日本」なのか。新たな歴史の分岐点に立つ我々が、『太平記』という創作された物語ではない南北朝時代を考えることは大切な教養といえるのではなかろうか。

恵美嘉樹・文

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【TOP画像】かつては足利尊氏とされてきた騎馬武者絵。現在では配下の者では?という説もあり/wikipediaより引用

 





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