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週刊武春 明治・大正・昭和時代

宮沢賢治は生前に著作2冊だけ! 雨ニモマケズな宮澤賢治の最期はハッピーエンド?

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宮沢賢治(1896~1933年、正式には宮澤賢治)。 誰もが一度は読んだことがある童話や詩。ところが賢治はその37年の短い生涯で2冊しか本を出していない。
1924年に出した詩集『春と修羅』と童話短編集『注文の多い料理店』の2冊だ。ところがこれらには「雨ニモマケズ」も「銀河鉄道の夜」も「風の又三郎」も収録されていないのだ。

宮沢賢治/Wikipediaより引用

お坊ちゃまとして過ごした青春

1896年(明治29年)8月27日に岩手県花巻市で生まれた。父政次郎22歳、母イチ19歳の若い夫婦の初めての子どもで長男だった。
宮沢賢治といえば東北の貧しさが漂っている作風で有名だが、生まれた年にも岩手沿岸を大津波が襲っていた。2万2千人の命を奪った「明治三陸地震津波」(6月15日)だ。
だが、幼い頃の賢治はそうした岩手に漂う暗さとは無縁ともいえる裕福な家に育った。家業が質屋(兼古着商)、つまるところ金貸しだったからだ。賢治に続いて、長女トシ、次女のシゲ、弟の清六、三女クニとにぎやかな家族だった。
多感な頃に賢治には、作家性を目覚めさせることになることがいくつか起きた。ひとつは花城尋常小学校3,4年時の担任八木英三との出会いだ。八木は子どもたちに様々な童話を授業で語り、のちに賢治は「私の童話は先生のおかげです」と言ったとされる。
4年生からは鉱物に興味を持ち、その熱中ぶりは家族からは「石こ賢さん」と呼ばれたほどだった。一方で、北上川で子どもの溺死事故があり、その記憶が名作「銀河鉄道の夜」を生んだとも言われている。

尋常小学校はすべてA(全甲)の成績で卒業し、1909年(明治42年)4月に、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高校)に入学する。
寄宿舎で過ごした中学生活では鉱物採取にあけくれ、初めて岩出山にのぼり登山にも夢中になった。
だが、決定的に運命を変えたのは、中学2年の12月に、中学の10先輩である石川啄木がデビュー短歌集『一握の砂』を出版し、それを読んだことだった。賢治も翌年1月から歌を読み始める。
若者らしく体制や大人への反発は強く、中学4年のときには寄宿舎で監督者(舎監)を排除する運動にかかわり退寮となった。ともあれ1914年(大正3年)に賢治は中学を卒業する。

宮沢賢治の生家跡/Wikipediaより引用

賢治はすでに身体が蝕まれていた。卒業後すぐに岩手病院で鼻炎のため入院し手術をする。回復がおもわしくなく長期にわたった入院生活で、賢治は看護婦に初恋をするが、片思いに終わった。
家に戻ったものの鬱々とした日々を過ごす賢治に、父は高校(現在の大学)への進学を許す。
状況を変えるチャンスに賢治は張り切り、受験勉強に励む。
宮澤家は浄土真宗(南無阿弥陀仏を唱える)信者の地域のリーダーでもあった。しかし、この頃から賢治は別の宗派の「法華経」にだんだんと惹かれていく。法華経は「南無妙法蓮華経」である。
1915年(大正4年)、猛勉強の末、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に入学。12年前にできた比較的新しい自然学系の「大学」での学びは賢治を夢中にさせた。文芸同人誌『アザリア』を出版するなど、いまでいう「リア充実」な青春を送った。
1918年(大正7年)、卒業後も大学院にあたる研究生として学校に残ることになった。この年の4月、徴兵検査を受けるが、体格不良(第二乙種)で兵役は免除となった(大学に残っていても免除)。
ところが6月、結核の初期症状と診断され、花巻に戻ることになる。以降、15年にわたり結核が賢治を苦しめる。

 

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教師時代に音楽三昧のリア充と最愛の妹の死

ある意味で研究者のキャリアを病に絶たれた賢治は、家業の手伝いをしながら花巻で過ごす。鬱屈とした日々だった。さらに東京の大学(日本女子大学校)に進学していた最愛の妹トシも発病し、賢治は看病のために一時上京する。妹とともに花巻に戻った賢治は自分と妹の病のこともあったのだろう、法華経にさらにはまっていく。町を法華経を大声で読みながら練り歩くなど、浄土真宗の家のものとしては目に余る行為で、父との対立は深まった。家族のなかで賢治に従って法華経に改宗したのは病となった妹のトシだけだった。
その後、いずらくなったのだろう。上京して法華経在家信者の会である「国柱会」で活動し、「法華文学」を目指し童話作りに取り組む。間もなくトシが吐血した連絡を受けて、花巻へ急ぎ戻る。
1921年(大正10年)、賢治はもう25歳になっていた。この年の12月、ようやく正職につく。父や家業に反発しながらも、なんだかんだ脛をかじってきたというのが賢治の半生のほとんどであった。
地元の稗貫郡立稗貫農学校(花巻農学校)の教師となった賢治は、メモを持って山野の自然観察を日課としながら熱心に農業などを生徒に教える一方で、隣接する花巻女学校の教師・藤原嘉藤治と意気投合する。藤原はクラシックファンで、賢治はすぐに影響を受け、今度はクラシックに夢中になる。
賢治は給料(月給80円)のほとんどをつぎ込み、高価な蓄音機や大量のレコードを購入した。もうその頃には法華経の熱心な布教はしなくなっていた。一言でいうと、「感化されやすい」人だったのだ。
この頃、雑誌『愛国婦人』に童話を投稿し、掲載された。それが「雪渡り」(リンク先の青空文庫で読めます、以下同じ)で、このときもらった原稿料5円は賢治にとって最初で最期の原稿料となった。

藤原と一緒にレコードコンサートを女学校で開き、そこには若者男女が訪れ、当然のように恋も芽生えた。
花城小学校で代用教員をしていた大畠ヤスだ。彼女との恋愛に並行して初の詩集『春と修羅』に載る詩が作られていく。
この頃に、有名な「イギリス海岸」も”誕生”している。
夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上きたかみ川の西岸でした。東の仙人せんにん峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截よこぎって来る冷たい猿さるヶ石いし川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。(『イギリス海岸』より)

イギリス海岸

農学校の「校歌」をバイオリンをひく友人と作るなど、リア充の限りを尽くした賢治だが、最悪のことが起きる。結核を患っていた最愛の妹トシがとうとう1922年(大正11年)になくなったのだ。24歳の若さだった。
賢治はこの時の思いを「永訣の朝」としてよんでいる。
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

今で言うシスコンだった賢治の落ち込みは激しく、恋人の大畠ヤスとも別れてしまう。
恋人との出会いと別れを童話化したのが『シグナルとシグナレス』だ。

初めての出版 注文少なかった『注文の多い料理店』

1924年(大正13年)4月20日、初めての著作『心象スケッチ 春と修羅』が出版される。事実上の自費出版だった。

この年の12月1日には、童話集『注文の多い料理店』が刊行。この出版のスポンサーは大学(高等農林)の後輩の及川四郎であった。及川は出版社「光源社」を設立して、この童話集を世に出した。
実はこの童話集はシリーズ「イーハトブ」の第一作目であった。しかし、1円60銭(現代なら絵本なのに5000円くらいする感覚)と高価だったので売れずに、シリーズは1巻で完結となってしまったのだ。
これもまた賢治とその周辺がお坊ちゃまたちの「殿様商売」であることがわかる。賢治はだんだんとそのことに気づいてきた。農学校に通う生徒たちの家は貧しく、リア充の自分自身にも苦しくなったのだろう。本当の百姓になるとして、1926年(大正15年)29歳で花巻農学校を退職する。

宮沢賢治童話村

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百姓として生きようとするも隠遁できず

賢治は妹トシが結核のために離れとして使っていた宮澤家の別宅で、独居自炊の生活をはじめた。
農業をしながら文学をするという「理想」を追求していった賢治。

農民芸術概論綱要」は、

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

というフレーズから始まる。
ようやく苦しい庶民と同じ場所にたったことの「喜び」がにじみ出ている。

しかし、一度味わった文化的なリア充な生活を賢治は捨てることができなかった。30歳の誕生日の4日前の8月23日に「羅須地人(らすちじん)協会」を設立。農業技術の普及のほか、コンサートやオーケストラなどの文化活動を積極的に行う。
しかも、その年末にはセロを習いに上京して、セロ、オルガン、エスペラント語を習っている。大正時代に東北の人が遊びに東京へ行ける人なんてほとんどいなかった。これで「百姓」を自称していたのだから、本物のまわりの百姓たちはどう思っていたことか。実際に治安当局に目をつけられ、オーケストラは間もなく解散させられている。
とはいえ、文学をなすにはやはり教養が必要である。こうした関心が『セロ弾きのゴーシュ』などの名作を産んだことは間違いない。

賢治は耕すよりもやはり「先生」であった。持ち前の農業とくに肥料の技術を周辺の百姓に教えていった。

比叡山にある歌碑/Wikipediaより引用

最後の恋と雨ニモマケズ

1928年(昭和3年)6月、賢治は伊豆大島へ渡る。岩手出身の伊藤七雄が伊豆大島で農学校を設立したいとして郷土の賢治を招いたのだ。そこで、賢治は七雄の妹のチエと出会う。七雄が「見合い」をしようとしたこともあって、賢治は「百姓」の妹として働くチエを気に入り、親友の藤原に「結婚するなら、あの女性だな」と告白した。

ところが、8月、またも結核を発症。その後は実家に戻り病床から、詩をつくり、肥料の相談にのった。

1931年(昭和6年)2月、病気が回復して、東北砕石工場のぎしとなり、石灰粉末の営業マンとなる。だが、9月に出張先の東京でまたも病気が再発。花巻へ戻った賢治は死を覚悟した。

旧東北砕石工場

さらに、この年、賢治が「イーハトーブ」と呼んだ楽園・岩手は冷害と多雨で凶作となっていた。この絶望的な状況下、11月3日に、黒革の手帳に書かれたのが

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
(中略)
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
(後略)

いわゆる「雨ニモマケズ」だ。
これは詩なのか、メモなのか、本人がどう思っていたかは不明だが、日本を代表する心をうつ「文学」の最高峰であることは疑いがない。

最期は東北の豊穣な光に包まれて

その後も闘病は続き、1933年(昭和8年)9月20日に肺炎を再発、翌21日午後1時30分に亡くなった。37歳だった。

死の間際に呼んだのが絶歌2首である。

方十里稗貫のみかも稲熟れて
み祭三日そらはれわたる

病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり
みのりのに棄てばうれしからまし

東北の自然を愛し、農民を愛し、一方で自分の才能を愛しながらもそれを育てた「リア充」な境遇を憎んだ賢治。

東北の民を容赦なく責め立てる自然に打ちのめされた「凶作の秋」に記した「雨ニモマケズ」は賢治の背負い込んだ東北のすべてではない。
賢治が亡くなった年は一転して豊作だった。豊穣の東北の地を讃える絶歌を残した賢治が最後に見た故郷イーハトーブの姿は黄金に光り輝いていたのだ。

恵美嘉樹・文

参考文献・サイト
青空文庫

宮澤賢治生誕120年記念サイト

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