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イラスト・富永商太

織田家 週刊武春

織田信長49年の生涯をスッキリ解説・年表付き!意外に優しい素顔とは?

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第二次信長包囲網と武田信玄の上洛

一部では「魔王」(第六天魔王)とも称せられ、恐怖の対象で見られがちな織田信長。
その一つの要因となっているのが「比叡山延暦寺焼き討ち事件」であろう。

1571年2月、佐和山城の磯野員昌を調略した信長は、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻めこんだ。

前年に和睦をしたばかりの延暦寺としては憤懣やるかたない状況であろうが、一方で、同山では僧兵が跋扈し、遊女も行き交うなど、そこは宗教施設というよりもはや戦場(そして歓楽街)である。

信長としても京への途上に敵対する「軍事施設」が構えているのだから戦略的にはとても捨て置けない状況だ。宗教施設ではなく軍の拠点であれば、攻め込むのは自然なことであった。

しかも、この事件、最近の研究から、今まで広く知られてきた残虐非道なものでもなかったという見方もある。

従来は、僧兵・僧侶のみならず女子供まで含め数千人が殺されたことになっていたが、発掘調査で、焼失した木材や大規模な白骨が出ることもなく「数字は操作されたものでは?」という見立ても強い。
ただ、武と権威を合わせ持つ有力寺院としての延暦寺が「消えた」ことは間違いない。

目の上のたんこぶ的存在だった比叡山を攻略した信長の、次の目標は浅井・朝倉であった。

岐阜から南近江を通り、琵琶湖水運も同時に活用して京へ進むルートは確保している。しかし、背後には浅井の小谷城があり、周辺は常に緊張状態。いつまた寝首を掻かれそうになるかわからない。

徹底的に潰すべし――。

されど、絶体絶命の状況へ陥ったのは、またもや織田信長であった。
戦国最強と称される武田信玄がついに軍を進めてきたのである。

©富永商太武田信玄

このとき武田信玄は、巷で言われるように京への上洛を望んでいたのか?

確かに足利義昭や畿内の諸勢力たちは信玄を頼りとして、信長討伐を催促するなど、いわゆる第二次包囲網を敷いていた。そして実際に信玄が立ち上がり、まずは徳川領内へ侵攻してきたことも事実である。

が、上洛までの道筋はさほどに簡単ではない。

桶狭間の戦いでも触れたように、あのときの今川軍は織田家との国境争いのために大軍を動員したと考えられている。

武田軍としても、徳川と織田を撃破すれば、その先、今川のように大きな敵はいないが、合戦には兵だけでなく武器も必要だし、さらには兵糧の調整も極めて重要となる(当時の兵は、実際に配られたかはさておき一日に7~10合の米が必要だったと言われている)。

戦国最強の武田家とて、その事情に変わりはない。

では何が狙いだったのか。
やはり織田徳川、特に徳川家康に対する圧力だったのであろう。

今川義元の息子・氏真から駿河国(静岡県中央部)を強奪した武田家にとって次に目標とすべき土地は、西側で領地を接する徳川の遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)。
そこへタイミング良く、信長と仲違いをした足利義昭からの求めがあり、信玄は、大義名分を得た上で西上作戦を展開するのであった。

むろん武田家とて、織田徳川だけを相手にすればよい状況でもなかったのは皆さんご存知かもしれない。

特に越後の上杉。
積年のライバルである上杉謙信が脅威となっていれば主力を西へ向けられはしない。

そして東には、甲相駿三国同盟が破綻し、信玄に対して怒りを抱いている相模の獅子こと北条氏康もいた……のであるが、北条家が三増峠の戦いで武田に手痛い敗戦を喰らい、それから間もなく氏康が死去して事情は一変、このとき武田と北条は再び手を組んでいた。

北条が武田に付けば、今度は上杉にとっては関東に目を向けなければならない状況でもある。
つまり上杉としても武田にばかり関わってる余力もなく……。

三増峠の戦い石碑

 

そして、信玄、動く――。

精強な武田騎馬軍団の中でも最強と称される赤備え・山県昌景が先陣を切って三河へ向かい、信玄本隊は、昌景と並び称されるツワモノ・馬場信春等と共に遠江へ。

対する織田信長は、これまで表面上は友好的関係を保っていた武田信玄に対して激怒し、上杉へ挙兵を求めつつ、徳川に援軍を送る。

その数、佐久間信盛と平手汎秀(ひろひで・平手政秀の息子)の約3,000。
武田3~4万に対して、1~2万とされる徳川にとって、あまりにも心もとない兵力であった。
畿内で包囲網を敷かれていた信長も、それ以上の兵は送れなかったのである。

ついに激突する武田と徳川。一言坂の戦い、二俣城の戦いと続き、三方ヶ原の戦いへ――。

結果は、連敗そして惨敗であった。もちろん負けたのは織田徳川連合軍である。
特に三方ヶ原の戦いで武田軍は、家康のいる浜松城を素通りするかのように見せておきながら、背後から奇襲を仕掛けようとする徳川を万全の体制で待ち構え、完膚無きまでこれを叩きのめした。
まさに格が違う両者であった。

家康は、生涯に二度、合戦で命の危機にさらされたと言われる。
そのうちの一つがこの三方ヶ原の戦いで、もう一つが大坂夏の陣における真田幸村特攻だ。

やっとのことで三方ヶ原から逃げ出し、その際、恐怖のあまり大便を漏らしたと後世に逸話が作られるほどの手痛い打撃を負い、浜松城へは這々の体で逃げ帰るという有り様。

後を追った山県昌景が警戒心を抱くことなく同城へ攻めかかっていれば、後の江戸時代は到来せずに未来は大きく変わっていただろう。

ライトアップされた浜松城。三方ヶ原の戦いの後、徳川方の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城されていたことが逆に山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命は助かったと伝説がある。当時は如何にして松明が焚かれたのであろう……

 

風雲急を告げたのは、三方ヶ原の戦いを経て、武田軍が東三河の野田城を攻略した後のこと。
連戦連勝で徳川を追い詰めていた武田軍は急に進路を変えると、そのまま本拠地・甲斐へ帰国してしまうのである。

そう、信玄の病は、もうどうにもならないところまで悪化していた。

そして元亀4年(1573年)4月、巨星墜つ――武田信玄の死は同家によって秘密が堅持されてはいたが、その不可解な撤退劇には織田信長のみならず、当の徳川家康が最も怪訝に思ったことであろう。

だからと言って甲斐信濃へ即座に攻め込むことは難しい状況だった。武田勝頼は決して無能ではないと信長自身が評価しており、実際に領土を拡大している。

いずれにせよ一息ついた織田信長は同年7月、足利義昭と真正面から対峙することになる。

 

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足利幕府の「滅亡」は「亡命政権」か

遡ること約半年前の元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して『十七条の意見書』なるものを突きつけていた。
詳細は、こちらの記事(足利幕府の滅亡と十七の意見書)に譲らせていただくが、義昭の日頃の悪行を咎める内容であり、その例を挙げると

・朝廷に参内していない
・配下の者にケチな上、気に入らないと処罰する
・寺社に対して不親切
・訴訟の仕事は放ったらかし
・米を勝手に売りさばく

などなど、これが本当であれば「義昭、あんたが悪いでっせ」という内容のもの。
逆恨みのように激怒した足利義昭が武田信玄の上洛を促し、信長包囲網を敷きながら、武田軍の撤退(信玄の死)によって叶わぬものとなったのは前述の通りである。

では高々と振り上げた拳を義昭はどう収めたのか?

これまでの経緯から、何処かへ逃げ延びるかと思われた義昭は、驚くことに信長への対抗姿勢を崩さなかった。ときに「魔王」のように称される織田信長は、実はこのときですら義昭に対して和睦の提案を示していた。それを将軍自身が拒否したのである。

義昭が何を根拠に抵抗していたのかは不明だ。

共に信長包囲網に加わっていた浅井朝倉に期待していたのだろうか。それとも古き熱き源氏の血脈がそうさせたのか。あるいは将軍職に対し一定の配慮を続ける信長を、相変わらず甘く見ていたのだろうか。
今となってはその真意は不明ながら、義昭方は、今堅田・石山の戦い、二条城の戦いで織田方に連敗を喫し、ついに槇島城へと追い込まれる。

そして元亀4年(1573年)7月、おそらく寡兵(兵数は不明)で同城に立て籠もった足利義昭は、やっぱり足利義昭であった。

城を包囲→放火されると、アッサリ降伏してしまうのである。しかも嫡男を人質に差し出して。

このとき信長が下した判断は、当代一の権力を持つ戦国大名には考えられない、甘いものであった。

「将軍を殺さずに京からの追放だけで終わらせたワシをどう思うか? その判断は後世の者たちに委ねよう。(将軍への)怨みには恩で報いるのだ」(意訳)

なんとカッコイイ台詞なのだろう。
映像作品やマンガで同シーンをあまり見かけないが、まるで信長公記の太田牛一によって後世に伝えられることを見越していたかのような言葉ではないか。
口元に微笑を浮かべながら、現代人の我々に質問を投げかける、そんな余興だったのかもしれない。

織田信長には、やはり血が通っている――。

いずれにせよ槇島城の戦いをもって、約240年続いた室町幕府は滅びた。
と、教科書等にはそう書かかれているが、足利将軍が地方へ逃亡するのはこれまでも頻繁にあったこと。
京都を去ったことで室町幕府が滅びたというのは結果論であり、この時点で生きていた戦国人たちはみな「元亀4年に室町幕府は滅亡した」と思った人が皆無だったことは、我々も知っておきたい。(なお、この室町幕府は滅亡していない、説を唱えたのは藤田達生・三重大教授である)

実際、義昭は亡命先の鞆(とも・広島県)で、毛利氏の庇護のもと、各地の大名に反信長の工作をしかけ続けるのであった。

 

天下第一の名香と長島一向一揆

信玄の死により孤立した足利義昭。これを容易に蹴散らした織田信長は、次に岐阜から京都にかけての近江、さらに越前地域を一気呵成に制する。

1573年8月、小谷城の後詰め(救援)に来ていた越前の朝倉義景が引き返すタイミングで背後から襲い、義景を自刃に追い込み、返す刀で軍を小谷城へ向け、浅井久政と長政の討伐にも成功させた。

このとき秀吉が救ったとされるのが信長の妹・お市と、更には彼女と長政との間にできた3姉妹であったことはよく知られた話であろう。
※3姉妹のうち、長女の「茶々」は秀吉の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで関ヶ原~大坂の陣でも交渉役等で活躍、三女の「江」は徳川秀忠の妻となって三代将軍・家光を送り出す

浅井朝倉の脅威から完全に解放された織田軍は休むことを知らず、続いて三好氏を下し、自爆大名のエピソードでお馴染みの松永久秀も降伏させた。

しかし戦いに明け暮れるばかりではない。

ちょうどこのころ信長は、正親町天皇から「蘭奢待(らんじゃたい)」の切り取りを許可されている。
「蘭奢待」とは、「天下第一の名香」と称される香木のことで、東大寺の正倉院に保管されていた。

いわば古来から国宝級のお宝であり、過去にその匂いを嗅げたのは権力の頂点に立った実力者ばかり。信長が認められたということは、すなわち天皇からのお墨付きを得た……とは言わないまでも、対外的に権威のアピールに繋がったことは確かであろう。

もう、畿内ならびに周辺に邪魔な者はいない。
このまま一気に制圧して、その後は更に西へ軍を向けるのか――。

と考えるのは、やはり早計であった。
真に恐ろしいのは戦国武将や大名ではなく、宗教勢力。
このとき信長を長く苦しめていた長島一向一揆によって、兄の織田信広(母は別)や弟・織田秀成(母は別)が討ち取られてしまった。

近しき者たちを殺害されて怒りを抑えることができなくなったのだろうか。
信長は10万の大兵力でもって長島へ出陣し、実に門徒たち2万人を焼き討ちで全滅させた。

一揆勢は3ヶ月以上の籠城で耐えきれなくなり、降参して長島から退去するところであったが、舟で脱出しているところを鉄砲で狙い撃ち。そして城(中江・奥長島)にいた2万人は焼き殺されたのだった。

この大虐殺が、仮に兄弟を喪ったことに対する復讐であるとすれば、血の通った人間らしい一面もありながら、同時にこの上ない残虐性も併せ持った人物像が浮かんでくる。
一揆勢を軍事勢力と見るべきならば、仕方ないと判断すべきなのか。

ちなみに同合戦は天正2年(1574年)に行われ、この年が明けた翌年3月、信長は義元の息子で既に大名としては滅んだ今川氏真に「蹴鞠」を披露させている。

場所は京都の相国寺。三条西実枝父子や飛鳥井雅教父子、高倉永相父子など公家も参加して、信長は見物を行い、翌月には公家たちに対して徳政令を発令している。

徳政令とはご存知、借金をチャラにすることである。信長は、戦乱で荒廃していた京の復興を行い、貴族層たちが奪われていた旧領の復活も認めていたのであった。
あくまで推察だが、もしかしたら蘭奢待の切り取りと無関係ではなかったかもしれない。

 

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長篠の戦いと鉄砲三段撃ちの真相

信玄亡きあとの武田家は、果たして脆弱だったのか?
あるいは、跡を継いだ勝頼が愚将であったが故に同家は滅亡してしまったのか。

答えは「否」。
前述の通り、織田信長自身が「武田勝頼は強い」と評しており、武田家内でも同様に勝頼を評していたところがある。
実際、武田家が最大の版図となったのは信玄のときではなく勝頼のときであった。

しかし同時に、その「勝頼の強さ」こそが同家にとってアダになった可能性は否定できない。

長篠の戦い(1575年)である。

一般によく知られた長篠の戦いは、
「鉄砲」の織田徳川連合軍(4万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた
このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」である――という説明だろう。

日本人なら誰もが歴史の授業で習う三段撃ちは、いかにも新戦法を発想した天才・織田信長!という人物像に適って収まりがよい。

しかし、これまで伝わっているような「3人がグループになって順番に撃つ」という三段撃ちは、現在の研究では、ほぼ「なかった」とされている。

端的に言えば、横一列に広がった鉄砲隊が合図と共にタイミングよく弾を発射することなど、当時の鉄砲のスペックや、戦場の規模からして不可能と考えられるのだ。

ただし、信長が大量に鉄砲を持ち込んだのは間違いないであろう(数についても1000丁から3000丁まで諸説あり)。

織田・徳川連合軍は、武田軍がやってくる進路に向けて馬防柵を設置し、陣を固め、さながら簡易山城のように準備を施した陣地で敵を待ち構えていた。

戦場となった設楽原(信長公記では「志多羅」と表記)は窪んだ地形で背後の丘陵の後ろに勝頼たちから見えないように軍勢を配することが可能だったのである。

長篠の戦い(設楽原)古戦場に設置された馬防柵。向かって左側には織田・徳川軍、右側の丘陵に武田軍が布陣した

ここで勘違いされやすいのが、武田勝頼を愚将とした見方である。

ともすれば「勝ち目もないのに無謀にも突撃した」なんて語られることもあるが、いくら勝頼が、信玄の代からの重臣たちとの折り合いが悪かったとしても、わざわざ死なせるために突撃するのは不条理すぎる。
実際の戦いが鉄砲だけで決着がついたのなら短時間で終わっているはずだが、長篠の戦いは1日がかりの戦いだった。

問題は、「鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか?」ということだ。

実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは、一つの作戦として認知されていた。
突撃の間にいくらかの騎馬は討ち取られてしまうかもしれないが、鉄砲の命中率自体は決して高くなく、逆に騎馬で一角を崩すことができれば十分に勝ち目だって考えられたであろう。
勝頼は、それを実行しただけのことである。

ただし、同合戦は、普通の野戦と違った。
織田徳川の防御が、武田の騎馬を蹴散らすために十分な準備が整っていたのである。

ならばさっさと退却すればよいではないか?
とも思うところであるが、前述の通り、一見して織田徳川軍はさほどの大軍には見えず、さらに信長は事前に別働隊(酒井忠次をはじめ信長の馬廻り衆や金森長近など)を進軍させて、長篠城の救援に成功。
それはつまり武田軍の背後が取られたことを意味しており、勝頼としても前へ出るしかなくなっていた。

弱将ならば最初から負け戦を受け入れ、早々に撤退できたかもしれない。

しかし、強いがゆえに自らの戦況打破を考えた勝頼。その結果の敗戦だったにすぎない。

武田軍は、赤備えの山県昌景をはじめ、馬場信春や真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが突撃をかけ、そしてこれに失敗して退却すると、次々に討ち取られていった。

「信長公記」では「関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなした」と武田の騎馬隊を警戒するような記述もあり、やはり、その破壊力は内外に認められたものだったのだろう。
状況と結果だけを考えれば、信長の計算がすべて当たり、まるで神がかったかのような展開。

むしろ注目すべき点は、鉄砲の数よりも、十分な兵数の確保とその隠蔽、別働隊で背後をとるなどの信長の巧みな戦術眼ではなかろうか。

ちなみにこのとき、武田勝頼秘蔵の駿馬が置き去りにされ、織田信長に取られている。馬も城も勝者の手に渡るのであった。

馬防柵のある陣地、その背後の茶臼山に織田信長の本陣が設置された。現在は茶臼山稲荷神社が建っている

 

第三次信長包囲網

長篠の戦いで勝利した織田信長は同1575年11月、清涼殿に参上し、朝廷から権大納言、右近衛大将に任ぜられた。

全国には他の有力大名が数多いたが、朝廷によって信長が「天下人」に公認されたようなもので、決してその仲が険悪ではなかったことが明らかであろう。

いかにも魔王の如き織田信長像を語るとき、よく取り沙汰されるのが「自身が天皇になろうとした」という説である。

が、それは実際の行動を見る限りありえないと言うしかなさそうだ。信長は皇室をないがしろにするどころかむしろ保護する立場であり、1581年には予算不足で途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮のために資金を全額出したりしている(現在の貨幣価値で数億円規模と目される)。
その辺の政治バランスにも長けていたのであろう。

そして翌1576年、琵琶湖のほとりに安土城の建設を進める。

奉行に任ぜられたのは丹羽長秀。米五郎左というアダ名で「織田家にはなくてはならない人物」と称された名将である。

彼の指揮のもと、尾張・美濃近辺の武将をはじめ、畿内の大工や職人も招集された。その建築過程で「蛇石」という巨石がどうしても引き上げられず、秀吉や滝川一益なども手伝い、1万人がかりで山頂へ引っ張りあげたという記録が残っている。

ここまで来ると、もはや天下統一も目前なのか――と思われるかもしないが現実は甘くない。
いわゆる「第三次信長包囲網」が敷かれるのであった。

浅井朝倉に挟撃されて始まった第一次信長包囲網。

武田信玄の進軍で窮地に陥った第二次信長包囲網。

信長の包囲網と言えば、いずれも一歩間違えれば織田家が瓦解するかのごとく周囲から圧力をかけられ、信長も生きた心地がしなかったような状況である。

それに比べて第三次というのはいささか切迫感がないように感じられるかもしれない。
まず当面の目標は、西でまたも蜂起した石山本願寺。ここ数年に渡って戦ってきた相手であり、鉄砲集団・雑賀衆の助力も含めた最大の強敵だ。

実際、このときは敵兵1.5万人のところへ信長は3千ばかりの兵力で立ち向かい、足に銃弾が当たってケガを負っている。それでも怯まない信長の気迫が最終的に勝利を呼び込んだのであろう。

この戦闘を「天王寺砦の戦い」というが、これに勝った織田軍は石山本願寺を取り囲み、交通の要衝に10箇所以上の砦を設置した。

後に、織田軍の行軍スピードは神がかっている、と評価されることが多々ある。

なぜ、そんなに素早い移動ができるのか。

兵農分離に答えを求めることもあるが、なにより琵琶湖畔に安土城を建てられる――その事実が、安土・岐阜から京にかけての機動性を担保していた。

どういうことか。
現代の交通事情からあまり想像しにくいが、琵琶湖は“水上ネットワーク”としての機能が大きく、ここを治めていた織田家にとってはかなり盤石な体制でもあったのだ。

かような状況からして、第三次包囲網はこれまでと若干毛色が変わって、織田家崩壊という切迫した危機には感じられない。
むしろ信長に滅ぼされる(もしくは配下に置かれる)可能性が高まった足利将軍、本願寺、全国の有力大名たちが危機感から大同団結してものであった。

ただし、いかに個別の力では信長が圧倒的でも、他大名たちにガッチリと手を握られたリスクとなると、織田家にとって決して小さなものではない。

石山本願寺の背後には西の大国・毛利がおり、東には弱っていたとはいえまだ武田も健在。さらに北では、信玄のライバルでお馴染み・上杉謙信が立ちはだかるようになったのだ。
信長配下の柴田勝家が、越前&加賀へと軍を進めており、越後の龍を刺激してしまうのも、ある意味必然だったのだろう。

しかも、である。
能島氏や来島氏が率いる毛利水軍とぶつかった第一次木津川口の戦いで織田軍は、700~800艘の敵軍に完膚なきまでの敗戦を喫していた。

このとき織田軍は石山本願寺を包囲して兵糧攻めに追い込んでいたのだが、海上では一歩も二歩も上をいく毛利水軍の焙烙火矢(火薬の入った陶器を投げ込み、爆発によって飛び散った破片で敵兵を殺傷させる武器)にやられたのだ。




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石山本願寺へは武器と兵糧が搬入され、籠城戦の更なる長期化を予感させた。
なお、このとき石山包囲軍の主力を担っていたのは、後に織田家を追い出される佐久間信盛である。

現在の大阪城周辺を舞台にした石山合戦図/wikipediaより引用

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