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イラスト・富永商太

織田家 週刊武春

織田信長49年の生涯をスッキリ解説!【年表付き】おだのぶながは意外に優しい!?

更新日:

方面軍の結成

1577年9月、加賀(石川県)の手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍が上杉謙信に大敗を喫した。

秀吉が、独断で戦場から離れるというハプニングはあったものの(信長は激怒)、信玄と互角に渡り合った軍神の凄まじさをまじまじと見せつけられた織田方。

この直後、自爆大名でお馴染みの松永久秀を信貴山城(しぎさんじょう・奈良県)の戦いで滅ぼしたり、播磨に渡った秀吉が毛利方の宇喜多直家などを相手にしつつ上月城の攻略にも成功しており、織田軍の戦力・戦術に不安があるのではなく、軍神の力が大いに上回っていただけであろう(秀吉の上月城攻略で信長の怒りは解ける。非常に<現金>である)。
ともかく信長にとって立ちはだかる越後の壁はあまりに高いように思われた。

しかし、事態は劇的に好転する。
1578年3月、上杉謙信が亡くなったのである。

信玄に続いて、またもや土壇場で巨星の死。
しかもである。
その死因については酒肴のとりすぎによる脳出血との見方が有力であり、天寿を全うするというより突然死に近かったため、後継者を指名できないまま跡取り問題という遺恨を残してしまい、上杉家では、いずれも義理の息子である上杉景勝と上杉景虎による内乱が始まった(御館の乱)。

言うまでもなく、これほどの千載一遇の好機はなく、信長は斎藤利治を派兵し、上杉軍相手に勝利(月岡野の戦い)を得て、更には柴田勝家にも進軍を促し、加賀から越中へと進ませた。

かくして自然と出来上がっていったのが、家臣たちによる「方面軍」である。

畿内中央から全国地方へ。
部下たちに効率よく地域支配を進めさせるため、織田家では「方面軍」を設置したのである。※この「方面軍」という呼び方は現代に生みだされた歴史用語である。

考え方そのものは単純だ。
各軍団長に作戦の裁量を与え、自由に攻略させたのである。

細かな指示をその都度送ってヤリトリしていたらコトが進まない――という極めて合理的な考えからであろう。
先の柴田勝家などはその代表であり、北陸方面から越後を担当していたことはよく知られた話である。

他の武将たちは以下のように任ぜられた。

織田家の方面軍結成
・北陸→柴田勝家
・山陽&山陰→羽柴秀吉
本願寺佐久間信盛
・伊勢&伊賀→織田信雄&織田信包
・近畿→明智光秀
・四国→織田信孝&丹羽長秀
・対武田→織田信忠&滝川一益
(後に関東→滝川一益)
・東海道→徳川家康

後の豊臣政権を考えると前田利家の名前がないのが、いささかシックリしないだろうか。

利家はこのとき柴田勝家に従い、北陸の攻略に携わっている。つまり加賀百万石の礎はこのとき出来ている。
近畿担当が明智光秀というのも、本能寺の変へと続く道筋となっていて興味深い。

ただ、漠然とこんな印象をお持ちになられないだろうか。
信長は、部下に大軍を預けて、「裏切られる」という懸念はなかったのか?と。

実はそういう鷹揚なところも信長の一つのキャラクターと思えて仕方がない。
むろん、日頃は安土城で政務を取っており、いざというときの守りも万全であっただろうが、一方で本能寺をはじめとする寺に泊まることも珍しくなく、後の明智光秀にしてみればこうした状況が日頃から念頭にあったのだろう。

信長はともすれば、戦国武将で理想の上司ランキングを集計すると必ず「恐怖の対象」となるが、実績だけ見ればむしろ逆。
働く者には自由を与え、結果を出せばよいという考えのようだ。しかも戦場では自ら前にでる。
まさに理想の上司ではなかろうか?

※佐久間信盛は、石山本願寺の攻略戦で結果が出なかっただけでなく、努力を惜しんで連絡すらよこさなかったことを信長に指摘され、更には「死ぬ気でドコかの領土を切り取るか、それとも高野山に引っ込むか?」というチョイスを用意され、自ら出ていった。
その一方で、石山本願寺の攻略は破格に難しく、佐久間でなくても無理だったという見方もある。

 

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鉄甲船と中国地方への進出

1578年4月、織田軍は本願寺(大阪)へ出陣した。

嫡男の織田信忠が大将となり、従う者は明智光秀や滝川一益、丹羽長秀などの重臣たち。同年3月に上杉謙信が亡くなっていたことは、同軍の出陣後に知らされたことになっていることからして、すでに兵力には相当の余裕があったのだろうか。

いざ織田方に謙信の死が報告されると、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀の3名は丹波(京都府北部)へ進軍することとなった。

かように織田軍の勢力が安定して、方面軍が組まれたまではよい。
問題は羽柴秀吉であろう。

山陽山陰方面の攻略は、毛利元就の作り上げた毛利大国が控えており、武田家や上杉家を相手にするのと同等の厳しさがある。

秀吉は『軍師官兵衛』でお馴染みの黒田家を利用して、まずは播磨の制圧に取り掛かった。そして、当初は地元の国衆から人質を提出させたり、現代では天空の城でお馴染みの竹田城を攻略して弟の羽柴秀長を城代として入れるなど好調であった。

前述の通り、前年(1577年)には上月城の攻略にも成功しており、「我に七難八苦を与えたまえ」の台詞で知られる山中鹿介(山中幸盛)を、主君の尼子勝久と共に入城させている。
尼子にとっては悲願の同家再興の機となった。

秀吉にしてみれば、先の手取川の戦いの際、独断で戦場を離れて信長の怒りを買い、必死に播磨攻略に打ち込んだのは、これも前述の通り。
一方、信長も上機嫌になって茶器(乙御前の釜)を褒美として渡している。

ちなみに、1578年の年初には、五畿内ならびに周辺諸国の武将たちが安土城に招集されて新年の挨拶と同時に茶会が開かれている(織田信忠ほか、細川藤孝や明智光秀、荒木村重、羽柴秀吉などが参加)。

また、信長の出費で、宮中の節会(せちえ)なども久方ぶりに開かれ、信長が天皇を崇敬している様が「信長公記」にも記されている。鷹狩で捕らえた鶴を天皇と近衛前久にも進上していた。

しかしこうした平和は、中国進出においては長く続かなかったのである。

播磨(兵庫県)は、石山本願寺(大阪)から見て西方に位置しており、下手をすれば退路を断たれかねない立地。西と東から挟撃されるリスクを伴っている。

当初は織田方だった播磨三木城の別所長治も、毛利方についており、にわかにその危険性は高まっていた。
別所長治は信長に数回の拝謁をするなど、播磨平定での大きな足がかりとなっていただけに事態は決して軽んじられず、そしてその約1ヶ月後、実際に毛利の本隊も動く。

毛利輝元・吉川元春小早川隆景宇喜多直家という名だたる将たちが上月城を囲んだのだ。秀吉が攻略し、尼子一族が入っていた城である。

三木城の攻略に取り掛かっていた秀吉は、すぐに上月城へ向かったが、谷と川に遮られて手出しが出来ず。
結局、信長の指示により上月城は事実上見捨てられ、尼子勝久は自害して果て、山中鹿介も後に殺されるのであった。

苦境はまだ終わらない。
同じく1578年10月、石山本願寺を囲んでいた荒木村重が突如として織田を裏切り、摂津の有岡城(伊丹城、兵庫県伊丹市)に籠城したのである。

まだ野望を捨てていない足利義昭の働きかけもあり、毛利と同時に村重も動いたのであった。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)

その説得に向かった黒田官兵衛が約1年に渡って村重に幽閉され、織田信長に「裏切り者!」と勘違いされたのは有名な話であろう。

このとき人質に取られていた官兵衛の息子(後の黒田長政)に殺害命令が下され、竹中半兵衛が独断で匿っていたというのもよく知られた話だが、実際のところ半兵衛の独断ではなく、秀吉も把握していた可能性が高いと思われる。

このとき織田信忠の軍勢により、石山本願寺の攻略はかなり進んでいたが、有岡城が反目に回れば途端に息を吹き返しかねない。ましてや秀吉の中国侵攻も覚束なくなる。

むろん毛利方にしても正念場であり、瀬戸内海の毛利水軍―有岡城―石山本願寺ラインで織田を食い止めることは、自国の防衛にも適っていた。

そして両軍は衝突する。
いわゆる第二次木津川口の戦いだ(1578年11月)。

同合戦で最も有名なのが、信長が考案したという鉄甲船であろう。
毛利水軍の焙烙玉に対抗するために作られた――とされる鉄製の巨船であり、九鬼嘉隆の九鬼水軍に託されていた。

ただ、この「鉄製」というのは真偽の程がかなり怪しい。
鉄で覆われていたという表記は「多聞院日記」に記載されているのみで、「信長公記」にはない。重要な部分だけ鉄で覆ったなどが考えられるが、かなり大きな船であったことは間違いなく、しかも「大砲」を備えていたというから、小型船ならば相手にならなかったであろう。

実際、この大型船が建造され、和歌山沖に繰り出したところ(2ヶ月前の9月)、毛利水軍との激突前に雑賀衆の船に鉄砲や弓矢などで攻められたことがあった。

和歌山を本拠とする雑賀衆は、もともと水運にも長けていたという見方があり(その流通経路が発達して鉄砲を多く入手するようになったとも)、決して弱い相手ではない。
九鬼水軍は瞬く間にこれを撃退するのである。

そして迎えた11月、第二次木津川口の戦いが起き、九鬼嘉隆は600艘もの毛利水軍を一方的に退けるのであった。

戦いは「辰の刻(7-9時)から午の刻(11-13時)」というから数時間で終わったのであろう。数では圧倒された九鬼水軍だが、大砲を駆使して敵船体を大破させ、戦意喪失したところを撃破しまくった。

同海戦を見物していた庶民たちは感嘆としたそうである(信長公記より)。
戦争を見物する人々というとなんだか急に牧歌的な風景がアタマに浮かんでくるが、実際、合戦があると庶民はエンターテインメントとして見物していた(戦いが終わると落ち武者狩りをはじめる怖い観客でもあった)。

信長はこの巨船が完成した時点、つまり開戦前に、九鬼嘉隆へ「黄金」や「衣類」など大量の褒美を贈り、更には加増もしている。
船をみて勝利を確信して、よほど嬉しかったのだろう。おそらくや戦後も多大な褒美が渡されたハズだ。

 

有岡城の攻略

木津川口の戦いに勝利した信長は、同月(1578年11月)、摂津へ出陣した。
茨木城と高槻城での付城工作(砦の設置)を進めたのである。

両城には、荒木村重の謀反に従い、高山右近(高槻城主)や中川清秀(茨木城)が立て籠もっており、大軍で囲むと同時に両武将の調略を開始。
まず、キリシタンの高山右近については宣教師や羽柴秀吉、佐久間信盛を遣わして、「降伏するなら布教を認めるが、反抗するならこれを禁じる」とし、中川清秀の茨木城には、利休七哲として著名な古田織部(重然)ら4武将を送り込んだ。

織部と中川は親類であり、いずれも籠絡に成功する。瞬く間に荒木村重は孤立するようなカタチになった。

後の村重・妻子らの、あまりに凄惨な最期を思うと、なぜこのときに有岡城の村重も降伏することができなかったのか。

高山右近や中川清秀が、信長から褒美まで貰っていることを考えれば、あるいは命は救われたかもしれない。
と、後世の我々には不思議に思えて仕方ないが、村重は村重で毛利の救援を信じており、その判断が鈍ってしまったようだ。

有岡城は二重三重に掘や柵が設置され、織田軍の厳重な警戒が続く。

こうした包囲網は約1年続き、1579年9月、村重が突如として有岡城から(救援を要請するためか)逃亡すると、あとはもう為す術がなく落ちるのみであった。

兵は次々に討ち取られ、城代だった荒木久左衛門も11月には開城を決意。まだ反織田方であった「尼崎城と花熊城」の両城を開城させるため、久左衛門は尼崎城にいる荒木村重の説得工作に向かう。

と、これが不可思議なことに村重は一向に対決の姿勢を崩さない。
両城を明け渡せば、有岡城で人質となっていた妻子らは助ける――という条件が提示されたのに、それでも村重は応じなかった。

そこで歴史に残る凄惨な見せしめが行われる。

大河ドラマ『軍師官兵衛』では、村重の妻・だし(桐谷美玲さん・信長公記では「たし」)に悲劇がクローズアップされ、ほとんど触れられなかったが、信長は「悪人を懲らしめるため」として、かなり苛烈な処置を配下の者に命令したのだ。

以下、信長公記より要点をまとめて表記する。

・荒木村重の身内は京都で成敗するため30人余り牢へ収容→後に、京都市中を引き回して斬首
・村重配下の妻子を磔
・122人の人質を鉄砲で撃ち殺したり、槍や薙刀で刺し殺す(幼児がいれば母が抱いたまま殺す)
・中級以下の武士の妻子と侍女388人・男124人を家4軒に押し込め、枯れ草を積んで焼き殺す(「魚が反り返り飛び跳ねるように」亡くなったと記述されている)

もはやかける言葉も見当たらないほどの場面であるが、信長公記でも「これほど多数の成敗は、歴史始まって以来初めて」というから、現場は我々の想像も超えているのだろう。
以前より美人として知られた荒木村重の妻・たしは最期のときも凛として見事だったという。事前に辞世となる歌が多く詠まれており、腹を決めていたのだろうか。

なお、この有岡城包囲戦の合間に、安土城が完成し、豪華絢爛な天主(のちの天守)が披露された。

信長は狩野永徳に「梅の絵」も描かせたりしている。戦国の世のならいとはいえ、あまりに峻烈な戦場と、その一方で優雅な芸術が同居。

このころ信長は石清水八幡宮の社殿も修築したり、北条氏政との交流を深めたり(鷹が献上されたりしていた)、刻一刻と天下人への道筋を固めており、荒木の反乱はあまりに時勢の見えてない判断であった。

ちなみに安土城の大工棟梁は岡部又右衛門と言い、映画『火天の城』で西田敏行さんが演じている。
同映画では、安土城の支柱調達のため西田さん自ら木曽へ出向き、笹野高史さん扮する木曽義昌に殺されそうになっているのが興味深い。

このころ木曽はまだ、確かに武田領であった。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ

 

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三木城の陥落と石山本願寺の和睦

1580年1月、羽柴秀吉が三木城の攻略に成功した。

荒木村重の妻子や侍女たちの悲劇は三木城城主・別所長治の耳にも届いており、「そうなりたくはない」と願った長治は、秀吉からの降伏勧告に素直に従ったのである。

「3名(別所長治・吉親・友之)は切腹するので城内の将兵たちは命を助けて欲しい」

長治は「御憐憫をもってご助命ください」と願っており、これに感銘を受けた秀吉が酒樽を城内へ送り届けると、長治は三歳の幼児を膝に置いて刺殺し、妻も同様に処すると自ら腹を切った。
介錯をした三宅肥前入道という家臣は、主君の首を切り落とした後、自らは腹を十文字に切り、腸を引きずり出して死す。

と、簡単に申し上げたものの、実際、このように十字に切って死ぬ(十文字腹という)のは相当難しく、現代医学で考察してみると、その途中で失神してしまうこともあるという(切腹の参照記事)。
最後まで敢行するには相当の気力が必要で、後に、秀吉のことを恨みに恨んで同じ切腹をしたのが、信長の息子・織田信孝であるというのは皮肉だろうか。

蛇足だが、信孝は切腹する際、次のような辞世の句を詠んでいる。
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
秀頼の死を考えれば、まさにその報いはくだされたワケだが、話を本題へ戻そう。

三木城が降伏すると、もはやこれまでと思ったのであろうか、石山本願寺が正親町天皇の意向を受けて、信長との和睦に応じた。
門跡(リーダー)の本願寺顕如が大坂から退去するのであり、実質的には織田方の勝利である。

それが1580年4月のことだが、実際は一悶着あった。
顕如が雑賀(和歌山県)へ退いても、新門跡で息子の本願寺教如が引き続いての抗戦を主張したのである。

結局、彼らが去るのは8月になってからのこと。実に49年もの間、彼ら一向宗は石山本願寺で暮らしており、長く親しんだ土地から離れるのは辛かったのであろう、と信長公記ではその心中を察している。

最後まで残った本願寺教如一派が、いざ退去するときには、同寺を隅々まで補修・掃除をして、おまけに槍や鉄砲などの武器をすべて掛けて置いたという。そして雑賀や淡路島からやってきた数百艘の船に乗り、門徒たちは散り散りに別れていった。
※ただし、明け渡しの直後に松明の火がお堂に燃え移り、本願寺は三昼夜に渡って燃え続け、完全に灰と化した

一方、三木城の攻略に成功した秀吉は、その勢いを駆って播磨、但馬両国を制した。

更には1581年になると「城兵・民衆を大量に餓死させた」ことで知られる鳥取城も陥落(鳥取城の渇え殺し)。なお、三木城は「干し殺し」として知られ、いよいよ西国・毛利との一大決戦前夜を迎えつつあった。

信長もそんな状況を意識していたのであろう。
1581年1月には、明智光秀に命令して「京都御馬揃え」という一大イベントを開催。織田家ゆかりの諸大名や国衆を従えて行う軍事パレードで、「本能寺を出発した一行は、室町通を北へ上り、一条を折れて馬場に入った」とある。
※少し細かくなるが、そのメンツを記事末に記しておく。

ちなみにこのとき信長は「大黒(おおぐろ)」とい名馬に跨っており、身にまとった衣装は細川忠興が京都を探し回って見つけたものだった。

ちなみに前年の1580年、信長は村井貞勝に命じて、本願寺に滞在するための工事をさせていた。
相変わらず鷹狩りにも精を出しており(信長公記には何度もその記述が登場する)、3月には北条氏政から献上された鷹13羽等を本能寺で受け取っている。

その取次役が滝川一益だったのは、後に甲州(武田)征伐から関東方面軍へ進めるための顔合わせだったのかもしれない。

関八州は、北条家の領国であると、信長は認めた。
※関八州……相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸(or伊豆)

また、同じく1580年の6月には、明智光秀を介して長宗我部元親からも鷹16羽と砂糖が献上されている。

長宗我部元親と明智光秀の関係は後に複雑なものとなり、間もなく訪れる「本能寺の変」の原因ともされているが、2014年に再発見された岡山県岡山市の林原美術館が所蔵する史料「石谷家文書」から「やはり本能寺の変の原因の一つだったのでは」という見方が強まっている。
※史料の内容は、浅利尚民・内池英樹編『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』(吉川弘文館、2015年)。

 

高野山包囲と甲州征伐

信長に敵対した仏教勢力と言えば?

比叡山延暦寺――と戦国ファンなら誰もが即答されるだろうが、実際は彼らだけではない。
最澄がたてた延暦寺と並んで敬われる空海の高野山・金剛峰寺。実は同山も織田信長相手にトラブルを抱えていた。
1581年9月、織田軍が高野聖(高野山の僧たち)を数百人捕らえて、ことごとく成敗したのである。

この前年(1580年)、佐久間信盛親子が高野山へ追放されていたが、同山では他に荒木村重たちの残党や、信長に追われた者たちを匿っていたとされ、更には信長が派遣した使者10数名を高野山の者が殺したという。
なお、佐久間親子は間もなく熊野へ向かい、その後、信盛が死ぬと、息子の信栄は赦されて旧領を回復する。

一方で、武装していない寺社や皇室に相変わらず手厚く、このころ久しく途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮を復興させている。

伊勢の大神宮・上部貞永が、名人久太郎こと堀秀政を通じて信長の援助を求めており、相手の希望額が「千貫(推定1億~1億5千万円)です」と伝えたところ、意外な答えが返ってきた。

「2年前に手がけた石清水八幡宮の修築では当初の見積もりは三百貫で、実際は1千貫かかったのだから、今回も多めに用意して三千貫を渡しておこう」
こんなオシャレな気遣いを見せている。仏敵や朝敵でないことはご理解いただけるだろう。

かくしていささか平穏な日々が過ぎゆくように見える最中、織田家にとっては大きな吉報がもたらされた。
1582年2月、信州木曽の木曽義昌が武田を見限り、織田方に転じるというのだ。

木曽義昌は武田信玄の娘婿であり、対織田の重要拠点であり、また最前線の防波堤でもあった。
寝返りを報告してきたのは苗木城(岐阜県中津川市)の遠山友忠であり、織田信忠を通じて信長に報告されると、木曽から織田へ人質が送られ、すぐさま武田も動く。
勝頼・信勝親子を中心とした1万5千の軍勢が出発したのだ。むろん木曽に対する出撃である。

しかしこれが同家滅亡への端緒になってしまう。

信長もすぐに対応し、駿河からは徳川家康、関東では北条氏政、飛騨から金森長近、美濃から伊那へは織田信忠と自らが進むように差配する。

武田方では長篠の合戦の敗戦後、新府城への移転などをはじめ家臣・民衆たちに対する重い負担が勝頼への不満となっていたのであろう。木曽義昌に続く裏切り者が早くも出て、しかも徳川、北条の大国から同時に攻められ、絶体絶命の状況となった。

信長は、勝利を半ば確信していたのであろうか。畿内や四国、中国地方などの軍勢の配置を慎重に指示しつつ、武田家への進軍、通称「甲州征伐」には少数精鋭で兵糧が続くようにとの指令も出した。

いざ甲州征伐が始まると、武田の守りは脆いものであった。

現代でもよく武田信玄と織田信長が対比され、信玄が全盛ならば信長に負けるわけがない――とまことしやかに語られるが、両者にはそもそもの領土経営に大きな違いがあった。

信玄は、他国・他城を制圧することがあっても決して本拠地は変えない。
一方の信長は、前述の通り、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と次々に移転していった。

これは単に城の本拠地を変えたということではなく、自らが進んだ領地を完全に自分のルールに従わせており、武田よりも支配力で大きく上回っていたのである。

武田家は本拠地から遠くなればなるほど支配力が弱まり、早い話、裏切られやすくなるのである。実際、木曽義昌がそうであったように。

しかもである。いざ甲州征伐が始まると、武田領内の農民たちが自宅に自ら火を放ち、織田方に流れてきて同軍を驚かせる場面があった。
農民たち曰く、武田勝頼が課する重税や関所に耐えきれなくなったばかりか、国内では賄賂が横行し、簡単に磔や斬首が行われる政治に嫌気が差していたというのだ。

果たしてドコまで真実かは不明であるが、人心が離れていたのだけは間違いなく、その証拠に武田家の中でも家格が高い信玄の甥・穴山梅雪までもが、徳川家康への帰順を示し、勝頼を裏切る。もはや武田軍は、一時、軍を撤退させて、立て直すほかなかった。

こうした状況の中、唯一、気を吐いたのが勝頼の弟・仁科盛信(にしなもりのぶ)である。
父は武田信玄(5男、勝頼は4男)、母は甲斐の名門・油川家の娘・油川夫人という、同家のエリートにして猛将。高遠城の城主である。

仁科盛信が約3,000の寡兵(一説に500)を従え、高遠城の守備についていたところへ、攻めかかった織田軍は約5万。
この絶望的な兵力の差にも関わらず、城内の将兵たちは討死覚悟で決戦に挑み、死者・負傷者は「ごった返して数え切れない」状況だった。

勇猛だったのは織田信忠も同じく、自ら武器を持って突進し、塀の上から「突入せよ!」と号令をかけたという(信長公記)。まるで昔の織田信長であるが、いささか著者・太田牛一のリップ・サービスのような気がしないでもない。

その後、織田信忠は信州・諏訪方面へ向かい、徳川家康は穴山梅雪と共に甲斐へ侵攻。一方の勝頼は、諏訪方面から信忠がやって来ると知ると、新府城に火を放って退去する。

このとき多くの人質が残され焼死したという話があり、後の勝頼愚将説を強める要因になっているのかもしれない。

ともかく、逃げ場のなくなった勝頼一行は、小山田信茂を頼ってその城へ向かうも、土壇場になって追い返され、もはや完全に逃げ道は塞がれてしまった。
勝頼の夫人や側室、信玄の娘や信虎(信玄の父)が産ませた娘など、かつて栄華を誇った女性たちも200名ほどいたが、大半は馬や輿に乗ることもできず足は血に染まり、哀れというほかない姿であったという。

1582年3月、武田勝頼は女・子供たちを引き寄せ、「花を折るように」刺殺し、そして自らも命を絶った。

彼らが絶命するまでの間、最後まで付き添った家臣たちは、全員、織田軍に襲いかかり、そして全員、討ち死にしている。

とりわけ土屋昌恒は、織田方の屈強な兵たちを何人も倒し、「比類なき働き」として讃えられている。また、勝頼の子・信勝も勇敢に戦い、後世に名を残す働きだったとして「信長公記」にも称賛されている。

1582年3月。武田家は滅びた。

 

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本能寺の変

甲州征伐の後、武田家を見限った木曽義昌、穴山梅雪は信長に拝謁し、褒美を渡された。本領も安堵されている。
また、関東の北条氏政は使者を出して馬や酒、米などを献上している。

同家との取次役を果たし、関東の上野、信州二郡を受領したのが滝川一益である。

また、穴山の所領を除く甲斐ならびに諏訪一郡は河尻秀隆に任され、駿河は徳川家康、信濃の四郡は森長可に託され、更に金山・米田島(岐阜県加茂郡)は織田信長の小姓として有名な森蘭丸(長定)のものとなった。

かくして旧・武田領の配分が終わると織田信長は帰国の途につき、その途中、富士山を眺めている。
どうやら山梨県北杜市辺りからまだ雪の多い同山をとらえたようで、戦から一時でも解放されてホッとしたのであろうか、将兵たちは皆、心を踊らせたという。

一方で、武田の残党を匿ったとして甲斐恵林寺の快川紹喜和尚ほか、多くの名僧たちが殺されもしている。その数、約150人。
興味深いのは、農民たちも率先して残党狩りに勤しんでいる様子がうかがえることだろうか。

菅沼満直という長篠の国衆が討たれ、首と引き換えに黄金の褒美を受け取っている。そしてこの話が広がると、同様のケースが相次いだとの報告も寄せられた。当時の農民たちが、ただ単に蹂躙される存在でないことがわかる一面かもしれない。

また、旧武田領では織田の支配に快く思わない者もおり、飯山(長野県飯山市)では一揆が勃発した。
森長可が鎮圧することになり、約2,500人もの一揆勢が討ち取られている。女・子供も千人以上含まれており、「粉骨砕身の活躍」と評されて入るが、同武将の苛烈な性格が垣間見えるエピソードとして戦国ファンには知られているだろう。

信長が安土城へ帰ったのは1582年4月。ご存知、本能寺の変までわずか2ヶ月のことであった。

織田信長の生涯の中で、最も謎とされているもの。それが本能寺の変であることは異論はないであろう。

桶狭間の戦いについてはかなり研究が進んでいることは、前述の通り。あらためて本能寺の変前の状況を考察してみたい。

1 柴田勝家らは北陸遠征中
2 滝川一益は関東へ
3 織田信孝と丹羽長秀は四国への渡海準備
4 羽柴秀吉は高松城を水攻め
5 信長は九州平定まで視野に入れ、毛利攻めの支度を開始
6 毛利攻めの準備として、明智光秀・細川忠興、池田恒興・高山右近・中川清秀らに出陣の準備命令
7 徳川家康が穴山梅雪と共に安土城を訪問

大まかに、かような状況であった。
家康の安土城訪問で接待役に任ぜられた明智光秀が突如として解任され、メンツを潰されたことから恨みに思い、本能寺の変を起こした――という「怨恨説」が有名だが、そもそも解任されたかどうかが怪しく、信憑性はかなり疑わしいとされている。

本能寺の変は、邪馬台国、坂本龍馬の暗殺に並ぶ「3大日本史の謎」とも言われるくらいで、以下のように有力説だけでも多数ある。

幕府再興説 足利幕府に取って代わろうとする信長を止めようとした

四国説 光秀や斎藤利三が進めていた長宗我部氏との外交関係をひっくり返したことに反発

野望説 光秀が天下を狙った

遺恨説 徳川家康の接待を巡り、信長から侮辱的な扱いを受けたり、人質となった母を見殺しにされたりした

突発説 たまたま信長が本能寺で手薄な状態でいることがわかった

黒幕説 光秀に指示をした黒幕としては、朝廷、足利将軍、イエズス会などがある

高年齢説 老い先短いと感じた光秀が明智家の先行きを不安視した

読売新聞「探訪 東海百城」光秀と重臣斎藤利三の背後に四国情勢より引用)

光秀の理由はともかく、稀代の英雄織田信長は京都の本能寺にて1582年6月2日未明、この世を去った。49歳だった。

天下統一の最後のパーツをはめたのは、ご存知のように豊臣(羽柴)秀吉であった。
そして次の天下人は徳川家康。

信長は妹を嫁がせた浅井長政をはじめ、多くの裏切りにあっているが、最後まで裏切らなかった2人が天下人になれたというのは、現代人にとっても多くの学びを与えてくれるのではないだろうか。

日々、信長研究に打ち込んでおられる皆さまからのご考察もコメント欄やお問い合わせにてお待ち申し上げておりますm(_ _)m

※信長誕生日に関する追記

定説は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「信長は誕生日の19日後に本能寺の変で焼死した」との記載から、引き算で計算された5月11日か12日。しかし、尾張などに関する信頼性の高い三つの史料で「5月28日」と記されていることを確認した。「地元の資料を丹念に調べることで、地元でも忘れられていた信長や父・信秀の歴史を掘り出すことができた」と振り返る。(読売新聞より引用)

イラスト:富永商太
著:五十嵐利休(編集人)

 

織田信長・年表

1534年 誕生
1546年 元服(13才)
1549年 斎藤道三と会見(16才)・濃姫と結婚
1551年 家督を継ぐ(18才 父・信秀が死亡)
1557年 弟の信行を謀殺(24才)
1559年 京へ上洛し、足利義輝に謁見(26才)
1560年5月19日 桶狭間の戦い(27才)
1563年 小牧山城へ移動(信長が築いた初の城)
1567年8月15日 岐阜城に移転 「天下布武」の朱印を使用開始(34才)
1568年 足利義昭を奉じて上洛
1570年4月 金ヶ崎の退き口(37才 第一次信長包囲網の開始)
1570年6月 姉川の戦い(浅井・朝倉軍を撃破)
1570年8月 石山本願寺挙兵
1570年12月 朝倉家と和睦(第一次信長包囲網の終了)
1571年1月 足利義昭による第二次信長包囲網スタート(38才)
1571年9月 比叡山焼き討ち
1572年11月 武田信玄の上洛(39才)
1572年12月 三方ヶ原の戦い(織田・徳川連合軍が大敗を喫す)
1573年4月 武田信玄、死亡(第二次信長包囲網の終了)
1573年7月 足利義昭を追放して室町幕府は「滅亡」
1573年8~9月 浅井・朝倉を攻略
1574年3月 蘭奢待(東大寺正倉院の伝説的香木)を切り取る
1574年9月 長島一向一揆を全滅させる
1575年5月 長篠の戦いで武田軍に完勝
1575年8月 一向一揆の国・越前を制圧
1576年1月 安土城の築城開始(→1579年に完成)
1576年1月 第三次信長包囲網・天王寺砦の戦いでは信長負傷も大勝
1576年6月 第一次木津川口の戦い(毛利水軍に敗れる)
1577年9月 手取川の戦いで柴田勝家が上杉謙信に大敗
1577年10月 松永久秀、自爆
1578年3月 上杉謙信、急死→包囲網オワル
1578年10月 荒木村重が離反
1579年9月 第一次天正伊賀の乱(二次は1581年9月)
1580年4月 石山本願寺と和睦(大坂の地を取り、実質的勝利)
1581年2月 京都御馬揃え
1581年1月 高野山攻めを開始(未決着のまま本能寺の変へ)
1582年3月 滝川一益が武田家を滅ぼす(勝頼・信勝親子が自刃)
1582年6月 本能寺の変

織田信忠 父・信長から家督を譲られし有能な二代目は、非業な最期を迎えた

三法師(信長の孫)こと織田秀信は、清須会議の後どう過ごしたか?

織田信雄が信長の血を残す! 典型的ダメ武将の意外な結末とは?

織田信孝はどこで間違えたのか? 天下人まであと一歩だった信長三男の人生

【主な参考文献】
太田牛一『信長公記
池上裕子『織田信長』(人物叢書)
藤本正行『桶狭間の戦い』(歴史新書Y)
藤田達生『証言本能寺の変』(八木書店)
桐野作人『織田信長』(新人物往来社)
谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)
千田嘉博『信長の城』(岩波新書)
有光友学『今川義元』(人物叢書)
平山優『長篠合戦と武田勝頼 敗者の日本史』(吉川弘文館)
愛知県史
吉川弘文館『戦争の日本史』シリーズ




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◆京都馬揃えの陣容
一番部隊……丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島一宣
二番部隊……蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺大ガ塚・佐野衆
三番部隊……明智光秀・大和衆・上山城衆
四番部隊……村井貞成・根来衆・上山城衆
織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・織田信包(のぶかね)・織田信孝・織田信澄・織田長益・織田長利・織田勘七郎・織田信照・織田信氏・織田周防・織田孫十郎
公家衆……近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣・日野輝資
旧幕臣衆……細川昭元・細川藤賢(ふじかた)・伊勢貞景・一色満信・小笠原長時
九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆
十番部隊……柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門尉・不破光治・前田利家・金森長近・原政茂
十一番部隊……お弓衆百人(平井久右衛門と中野一安が先導)

『京都御馬揃え』 織田信長、真の狙いは何だった?

 



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