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美濃のマムシこと斎藤道三。戦国三大梟雄の一人です/wikipediaより引用

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週刊武春 諸家

マムシ斎藤道三の「国盗り物語」 1代でなく2代で成し遂げた下克上だった

更新日:

下克上の戦国時代には、豊臣秀吉を筆頭に、数々の無名のものたちが成り上がった時代だった。
その代表格とされているのが、「戦国の梟雄(きょうゆう)」「美濃のまむし」こと斎藤道三(利政、1494か1504~1556)だ。有名になったのは戦後の国民的歴史作家、司馬遼太郎の長編『国盗り物語』がきっかけである。
これは江戸時代の軍記物をベースにしているのだが、わずか13数年で油売りの商人から美濃の国主になりあがったとされている。
ところが、これは「ウソ」。
実際のところは
・支配したのは美濃1国ではなく半国
・油売りの商人ではなく、武士の息子
・父親が元僧侶で美濃に流れて武士となって成り上がった
・父のあとをついだ道三が一気に守護をけちらして半国を支配した
となる。

 

司馬遼太郎『国盗り物語』では油売りの商人だったが

この新事実を証明したのは、道三に美濃を追いやられた元美濃守護の土岐頼芸(ときよりなり、1501~82)が亡命した近江の大名六角氏の書状だ。
道三が死んだ4年後に書かれたもので、ほぼ同時代といっていい。

六角氏が斎藤氏の娘(道三の孫)と政略結婚を検討した際に、斎藤氏の家柄を調べたところとんでもない「国盗り」がされていたということがわかったために、政略結婚は進めないと判断した理由がかかれていたのだ。
亡命した土岐氏からのインタビューをもとにしていると思われ、多少の悪意はあるにしろ、戦国時代の生の情報で、信ぴょう性が高い。

もともと、美濃(岐阜県の南半分)は、トップの守護が土岐氏、ナンバー2の守護代が斎藤氏であった。
この2家は名門。このことを覚えておいて欲しい。

あるとき、道三の父親が美濃にやってきて、守護土岐氏の家臣の長井氏のもとに雇われた。名前は西村といった。彼は、京都の妙覚寺(日蓮宗)の僧侶が還俗した者だった。
西村は戦功を次々にたてて、「長井新左衛門尉」と名乗るようになった。これは長井氏を奪ったのではなく、本家の長井氏から、名前を名乗ることを許され、一門衆に加えたことを意味する。
のちに、豊臣秀吉や徳川家康が、羽柴姓や松平姓を大名たちにばらまいて名乗らせたようなものだ。
つまり、道三の父が成り上がりに成功して、美濃のナンバー3くらいだった長井氏の重臣になったのだ。

ここで整理しておこう。
美濃国の序列(順位はイメージである)
1位 土岐氏
2位 斎藤氏
3位 長井氏




9位 西村某(道三の父。長井氏を名乗らせてもらう)

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応仁の乱後の内紛の間隙を縫いナンバー3の長井氏がクーデター

美濃国は、応仁の乱(1467~77年)の余波で、守護土岐氏の内紛が続き、荒れに荒れていた。
土岐氏と斎藤氏の力が衰える中で、台頭してきたのが道三の父が仕えた長井氏だった。
1525年、このナンバー3である長井長弘がクーデターをおこした。側近として長井新左衛門尉がいた。
このクーデターは成功し、土岐氏と斎藤氏を一時追放し、長井氏が美濃の実権を握った。長井新左衛門尉つまり道三の父は「長井政権」の官房長官的な役割となったのだろう。

先の美濃国の順位はこうなった
美濃国の序列(順位はイメージである)
1位 土岐氏
2位 斎藤氏
3位 長井長弘
4位 長井新左衛門尉(道三の父)

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長井からとうとう斎藤へ

ここまでが国盗り物語の第一幕である。
この頃、おそらく若武者だった道三の名前は、「長井規秀(のりひで)」である。

長井政権は1533年(天文2年)まで「2長井体制」でうまく続いたようだ。
この年の春、この2人がほぼ同じ頃に病死したのだ。偶然なのか、はやり病なのか、陰謀があったのかはわからない。
ともかく、この2人のそれぞれの息子があとをつぐ「2長井体制」が継続されたことが、この年に二人の息子が連署した文書から想定される。
30代くらいで油ののった道三(長井規秀)が、このチャンスを逃すことはなかった。
同時代の史料でなにが起きたかを知ることはできないが、ともかく、1533年11月から翌34年9月までに、道三が本家の長井氏の息子を打倒したことが文書の署名からわかる。

まむしの道三は天変地異もチャンスにした。
1535年、長良川が大氾濫を起こし、現在の岐阜市街地で川に流された人2万人余り、家1万軒という大被害が起きた。これに乗じて、道三は名目上は主君である守護の土岐氏を追放し、かわりに最後の土岐守護となる土岐頼芸を守護にまつりあげた。
土岐頼芸はこの記事の前半にでてきたように、後年、道三に追放されるのだが、この時は両者はWin-Winの関係であった。
35~36年にかけての軍事クーデターで、土岐氏の首のすげ替えに成功した道三は、翌37年(天文6年)3月には、斎藤利政(としまさ)を名乗った。
このクーデターのどさくさで、<美濃守護代>斎藤氏のいずれかの家をついで、名門斎藤氏を名乗るようになったのだ。

さて、最新の美濃国の序列を見てみよう。(依然、順位はイメージである)
1位 守護・土岐頼芸
2位 守護代・斎藤利茂
3位 斎藤利政(道三)

もっとも、追放された土岐氏(土岐二郎)や、本家を奪われた斎藤一族は黙っていない。
土岐二郎は越前(福井)の朝倉氏のもとへ亡命した。岐阜県と福井県は実は隣である。
大垣など西美濃(西濃地区)を地盤とする斎藤一族の多くは抵抗を続け、尾張国の織田信秀(信長の父)へと救援要請をした。

織田信秀と朝倉氏に挟撃されて大ピンチも大逆転

1544年(天文13年)、道三は最大のピンチを迎える。
北から朝倉氏、南からは織田信秀が同時に攻めてきたのだ。
織田・朝倉連合軍の数は2万5000と伝わる。道三は稲葉城(井口城、のちの岐阜城)で迎え撃った。
この城下の戦いで道三は連合軍を撃退、さらに敗退する織田信秀を背後から遅い、織田軍2000人が木曽川にたたき落とされて溺死などし、信秀はわずか1騎でようやく帰ることができたという大勝利を果たした。
この頃に出家して「道三」を名乗っている。絶対絶命の危機を乗り越え仏に感謝した故だろうか。
戦いから4年後、依然として朝倉や織田の支援を受けた国内のレジスタンスに悩んだ道三は、1548年、織田信秀の息子つまり信長に、娘(濃姫)を嫁がせた。織田信秀にとっても、美濃よりもくみやすい東の三河を狙う戦略の変更が背景にあった。ともかく、これでひとまず美濃国内は安定した。

若き日の信長(富永商太・絵)

この時点では美濃国の序列は変わらない
1位 守護・土岐頼芸
2位 守護代・斎藤利茂
3位 斎藤道三(武力ではナンバー1)

一方、尾張国の序列をみると同じようであることがわかる。
1位 守護・斯波氏
2位 守護代・織田氏
3位 織田信秀(守護代織田氏の家臣。武力ではナンバー1)

ようやく、あと2つの階段を上るまでに迫った2代にわたる「国盗り」。
名門斎藤氏を名乗るここまでが国盗り物語の第二幕といえよう。

下克上の完成とともに訪れた転落

斎藤道三はとうとう下克上の完結に動き出す。
はっきりした資料はないが、1552年(天文21年)のことと考えられている。
まむしがことを起こすのは、これまでも決まっている。天変地異の利用だ。この年、木曽川と長良川が大洪水を起こしたのだ。
どういった大義で守護の土岐頼芸を追い出したのかはわからないが、この大災害の責任を押しつける形だったのかもしれない。
守護を再び追放した道三は当然、名目にしかない守護代の斎藤氏も処分したことだろう。

そして、前回のクーデターのときのように守護土岐氏の首を差し替えることはなく、みずからが「美濃国主」となった。

最新の美濃国のランキングを見てみよう。

1位 美濃国主・斎藤道三

とうとうやった!二代にわたる下克上が達成された瞬間である。

ところが、頂点にたった時間は短かった。
わずか2年後の1554年(天文23年)3月、道三は突然、隠居して、家督を息子の義龍(よしたつ)へと譲るのだ。
複数のクーデターでのし上がってきた道三には皮肉なことだが、これは斎藤の家臣団が道三は器量なしとして、強制的に代替わりさせられたのだろう。
岐阜市史は「道三時代、当時他の戦国大名がつぎつぎにうちだしている民政の新しい施策に匹敵するものは、現在のところ、その片鱗すらうかがえないのである」と手厳しく論評する。
戦いにはめっぽう強い道三が、国のトップとなったときに、まわりが期待していたほど、政治や経済などへのリーダーシップや政策力が発揮されなかったのだろう。名将といわれ、軍人としては才気あふれたマッカーサーが、大統領にはなれなかったようなものかもしれない。

道三は地位の回復を狙っていたが、1556年(弘治2年)、とうとう息子に対して兵をあげる。
武田信玄が父の信虎を駿河の今川氏のもとへ追放したように、道三は娘婿の信長のもとへ亡命する手段もあった。しかし、武人たる道三は戦いの中で運命を決定することを選んだ。
だが、道三の挙兵に応じたのは、義龍軍2万に対して、10分の1の2000に過ぎなかった。
道三は戦いの前日に、遺書を書き、父親がかつて僧侶だった妙覚寺に届けさせた。(なお、現在、伝わる遺書は後世の創作の可能性が高いと岐阜市史は言う)

4月、長良川の河原で、道三は討ち死にした。討った武士の一人の名前は「長井忠左衛門」。みずからが下克上の踏み台にした長井氏によって討ち取られる。これも、もののふにふさわしい最期といえよう。

岐阜城(斎藤道三時代は「稲葉山城」と呼んでいた)

恵美嘉樹・文

参考文献『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(岐阜市、1980年)

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トップ画像は斎藤道三画像(Wikipediaより)





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