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イラスト・富永商太

伊達家 週刊武春

伊達政宗70年の生涯をスッキリ解説!【逸話 正誤表付き】史実ベースの政宗を知ろう

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北の関ヶ原 伊達&最上vs上杉が勃発!

慶長3年(1598年)、豊臣政権は上杉景勝を越後から会津へ移封しました。

会津は豊臣政権にとって伊達や最上に睨みをきかせる土地であり、蒲生氏郷が亡くなってからはまだ若い秀行が跡を継いでいました。しかし秀行は家康の娘と婚姻しており、会津に置くわけにはいかないと三成らは考えたわけです。

景勝は謙信の代に織田信長と断交して以来、信長の同盟者である徳川家康とは対立関係にありました。さらに本能寺の変以降は、石田三成経由で豊臣政権に取り入っており、三成と縁が深いわけです。
奥羽に睨みをきかせる120万石の存在、それが上杉家でした。

慶長5年(1600年)、家康は上杉家重臣・直江兼続の書状「直江状」をキッカケとして、会津攻めを決意。ところが石田三成の挙兵を知った家康は、反転し引き返してしまいます。景勝が反転する家康の背後を突くにせよ、その前に伊達・最上を攻略せねばできません。

ここで伊達&最上と上杉の激突構造ができあがるのです。

伊達家の石高は58万石。
最上家の石高は24万石。
対する上杉家は120万石。

かなり難しい戦力差です。
伊達と最上が力を合わせたところで上杉に勝利をおさめるには難しいところ。かといって、これだけ大きな大名同士の戦いとなれば、強国・上杉家とて一気に潰すことはできません。

彼らにとって当面の目標は最上家。
まず最上を従え、そのあとに伊達。この二家を吸収し、関東へと攻め込む――。
それが上杉家のプランでした。

関が原の結果を知っている後世の者からすると「そんな大規模なことをする時間的余裕があるのか?」と思うかもしれません。
しかし、当時の人はむしろ短時間で決着がつくとは考えていませんでした。
なんせ日本全国の大名が争うのです。数ヶ月、いや場合によっては数年間にも及ぶ乱世の再到来。豊臣政権による統一前まで時計が巻き戻せるのではないか、そうなって欲しい、そんな風に思う大名も大勢いました。

上杉vs伊達&最上も、すぐに戦闘へと突入したわけではありません。当初、上杉側は、両家が支配下に入って関東に進軍することを条件として和睦交渉に取り掛かっております。
しかし、最上側が時間稼ぎをしながら戦闘準備を進めていると知った上杉は、2万を率いる直江兼続をすぐさま山形へ。

東北の関が原と称される「長谷堂合戦」の幕が切って落とされたのです。

愛はLOVEの愛じゃない、兼続です/絵・富永商太

北の関ヶ原のハイライトはこの長谷堂合戦です。フィクションでは政宗が参戦することもありますが、実際には留守政景を援軍として送ったに留まります。

このとき片倉景綱が「山形を見捨てるべきだ」なんて献策したとも言われています。
「最上と直江を戦わせ、双方が疲弊したところでまず直江を討ち、さらに最上を討つ。そうすれば一石二鳥です」
それに対して政宗は、
「母上が山形城にいるのにとんでもない!」
と断るという……『母から殺されかけても救出に向かう政宗って偉いね、チャンチャン♪』というエピソードがありますが、これも荒唐無稽な話です。

この時期、ほぼ戦力が一カ所に集中しているのは三者のうち最上だけで、伊達も上杉も多方面に展開しています。
互いに牽制して動きの取りにくい状況。そんな最中に一人だけ漁夫の利を得る策がうまく行くとは到底思えません。

更には「母親がいる山形城を見捨てるわけにはいかない」という点についても、疑問が残ります。
政宗は政景を援軍として派遣する際に、「あまり本気を出さなくていいぞ」と念押ししていました。
動きの鈍い政景に対して義光も何か察知するところはあるのでしょうが、あまりせっつくのも格好悪いと思ったのか、なかなか強くは言えません。

そこで立ち上がったのが義姫でした。義姫は何度も何度も書状を書き「義光は言いにくいようですが、敢えて言います。早く来てください!!」と何度も念押ししています。
色々と関係がこじれていた最上に伊達が援軍を出したのは確かですので、意地悪く突っ込むのはこのあたりにしておきましょう。なお政宗自身は「南部方面が気になるので自らは向かわない」と義光に連絡しています。

なお、このとき政宗も山形の動向に注目していました。義光にもアドバイスしています。この内容がなかなかでして……。
「最上勢が川を越えたって聞いたけど、マジ? 今回の戦い、言いにくいけど戦術がお粗末でもう見てらんない。これじゃ勝てるものも勝てないよ」
みたいな感じでして。
最上家としては伊達家の援軍はありがたいものではあるのですが、ちょっと引っかかるところもあったことでしょう。

政宗がこの時、最上に援軍を出す以外何もしていなかったかというと、もちろんそうではありません。
先ほど義光に対して「南部が気になる」としていたように、伊達は南部利直とも争っておりました。政宗は和賀忠親に対して南部領で一揆を起こす様に仕掛け、伊達家臣の白石宗直にも南部領攻撃を命じています。

ここで突っ込みたい人がいると思います。
「ちょっと待って! どっちも東軍じゃないの?」

そうです、その通りです。しかし、前述の通り、関ヶ原において政宗だけではなく多くの大名が、この決戦は長引いて争乱の世に逆戻りすると考えていたふしがあります。
そうなった時に備えて、政宗も南部利直も自領拡大に動いていたわけで、カオス状態で戦っていたのですね。後に和賀忠親は自殺、あるいは殺害され、政宗は本件の責任を問われることはありませんでした。

そうこうしているうちに9月30日、伊達・最上・直江兼続の元に、関ヶ原で東軍勝利との結果が飛び込んできました。
翌10月1日、兼続は撤退を開始。兼続が自領に撤退してしまったため、政宗は悔しがります。

「最上衆が弱いせいで敵を逃した。最上衆が弱いせいで討ち果たせなくて無念。おかげで利益を得られなかった」
二度も最上衆が弱いと愚痴をこぼす政宗。よほど悔しかったのでしょう。

 

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百万石の切り取りOK! ただし自分の力でね♪

長谷堂合戦終結後、政宗は上杉領獲得に乗り出します。
10月6日には桑折で敵を圧倒するものの、松川で大敗し撤退。ただし松川合戦の経過は同時代史料では確認できず、6日には政宗自身が帰陣してしまいました。

政宗が家康に軍事行動について確認すると、家康は軽挙妄動を慎むようにと連絡してきます。なぜなら家康は、水面下で上杉景勝との和睦交渉に取り組んでいたのです。

しかし、堪えきれなかったのか、翌慶長6年(1601年)正月、政宗は福島周辺で軍事行動を起こします。と、これは上杉勢によって撃退されてしまいました。
それでも諦めきれなかったのでしょう。政宗は家康に会津出兵を依頼するものの、結局、家康と景勝の間で交渉が進み、6月には景勝が上洛して成立してしまいます。

政宗による北の関ヶ原領土拡大パーティは、いよいよお開きになりました。

ちなみに政宗に対して直江兼続がネチネチと嫌味を言う逸話は、この伊達VS上杉の合戦を元ネタにしたものが多くなっています。
ここであの話が気になる人も多いことでしょう。
「百万石のお墨付きはどうなったの?」

この件も誤解されています。お墨付きは「百万石にしてあげる」という意味ではなく「家康に味方して戦ったら、その戦いで切り取った領土をそのまま加増します」という内容です。
つまり百万石加増は参加賞ではない、ということ。
お墨付きが反故にされたのは「南部で一揆を煽動したから」との説明もありますが、前述の通り政宗はこの件では責任を問われていません。

家康「今度の戦いで私に味方したら、切り取り分加増するよ」
政宗「マジっすか!? なら例えば百万石切り取ったらそのぶん全部加増ですよね。多すぎるからナシ!とかは、やめてくださいよ」
家康「いいよ、いいよ。百万石切り取れたらね」

こういう内容の話がいつの間にか「参加しただけで百万石」になっていたわけです。
そしてこのオファーは、政宗一人ではなく他の大名にもされたものと思われます。こんなニンジンをぶら下げられたら、様々な手を使って争うのも納得できるというものです。南部領の一揆もこうした背景があったのでしょう。

そしてその結果が、義光の33万石加増に対して、政宗2万石ぽっちというのも。政宗が後年この話を蒸し返したとき「下手なことを言うと、かえってあなたが恥をかきますぞ」とたしなめられたそうですが、理由はわかる気がします。そもそも、関ヶ原前後は両陣営ともに大盤振る舞いを約束していたとはいえ、伊達家に対して参加賞として百万石は気前が良すぎます。

イラスト・富永商太

 

大坂の陣では味方を一斉射撃で全滅に追い込む

正直、このときばかりは政宗も運がありませんでした。

切り取り次第で二万石の加増。こう書くと関ヶ原での政宗が弱かったように思えますが、そう単純な話でもないのです。
上杉勢が主力を伊達勢のいる東方へと展開したため、結果的に伊達勢は上杉勢えり抜きの主力とぶつかりあうことになったわけです。

一方で最上が進軍した西方の庄内方面は、やや手薄でした。最上勢は自領に残り降伏した上杉の将を侵攻の戦闘に立たせていました。彼らは降伏したばかりですので、武功を立てようと必死で働きます。
伊達側は悪条件、最上側には好条件が揃っていたのです。
しかも政宗の場合、家康本人から「景勝と和睦するから攻めるな」と停戦要請をされているわけです。そりゃ政宗からすれば、食べ放題ビュッフェのはずが、メニュー制限があったと判明、みたいな納得のいかない気持ちですよ。

「思う存分切り取っていいって言ったのに、止めましたよね? それって約束が違うじゃん!」
となっても仕方がないかもしれません。納得が行かないからこそ、後でお墨付きを持ち出した。政宗が北の関ヶ原において、大きな不満があったことは確かでしょう。
なんせ彼はまさに脂のノリきった時期。ここで俺の進撃が終わるなんてつまらないよなぁ、と思ったとしても不思議ではないハズです。

政宗最後の戦いは、他の多くの大名と同じく慶長19~20年(1614~15年)の「大坂の陣」でした。

伊達勢は真田信繁勢を相手にして大苦戦。味方の神保相茂隊を一斉射撃して全滅に追い込み、諸大名を呆れさせております。
このとき伊達家の騎馬鉄砲隊が活躍したとも言われていますが、騎馬鉄砲隊についての記述が江戸後期からしかありませんので、後世の創作でしょう。

大坂の陣で、政宗は真田信繁の子女を保護したとも、乱取りしたとも伝わっています。信繁が政宗の器量を見込んで預けたとも言われていますが、真偽不明です。
政宗に保護された信繁の子は、仙台真田氏として存続することになります。

真田幸村の12歳の娘(超絶美少女)が伊達政宗の仙台藩にかくまわれていた!

 

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人生楽しまないでどうしろっていうんだ!

泰平の世が訪れ、政宗の人生もまた落ち着きます。
乱世が終わって退屈するどころか、実のところ政宗は江戸初期という時代をエンジョイしているんですね。

政宗というのは天性のエンターティナーであり、目立つのが大好きなパーリーピーポーであり、セルフプロデュース力が備わっています。

晩年になると当時を知らない徳川家光相手に「いやあ、実は俺も、天下を狙ってたんですよね」なんて吹聴して「政宗さんマジパネェっす……」とあこがれの目で見られたりするわけですよ。
晩年ノリノリの態度を見ていると、この人は十年遅いどころか「最もよい時代に生まれたきたんでは?」と思わざるを得ません。
戦国を知らないひよっこ相手に武勇伝を語って得意顔できたのも、政宗があの時代に生まれたからこそだと思います。

政宗は、どんな時代に生まれてきたって、類まれな個性で輝くことができる、魅力にあふれた存在、スーパースターです。

そんな政宗が築き上げたのが仙台城です。
中世城郭・千代城をもとに築き上げられた仙台城。近代城郭としては最大級の面積を誇り、見事な石垣は織豊期の技術を用いて築かれています。
地元では青葉城という名で人々に親しまれ、政宗が整備した寺社仏閣も現在にまで仙台藩の威容と栄光を伝えています。

仙台城と……

仙台城から見下ろす緑の街並み

仙台市そのもの、宮城県そのものが、政宗の内政への尽力を物語る証拠です。

仙台は、もとは千代という名でした。
それが、唐代の詩人・韓コウ(広羽)の漢詩「同題仙遊観」の中の起句「仙台初見五城楼」から採られ、仙台へと変更。漢詩にも造詣が深い政宗らしい発想です。

さらに同藩は、江戸期を通じて東北の要として機能しました。
特に米の生産量は莫大で、江戸で消費される米の三分の一は仙台藩産であった時期もあったほどです。
ここまで発展できた基礎を築いたのは、言うまでもなく政宗です。

奥羽の中心地として整備されたこの街は、現在も東北地方唯一の百万人都市として発展しています。「杜の都」と称される街並みは美しく、政宗の洗練された美意識が伝わっています。

仙台駅はじめ、市内には政宗の甲冑、前立て、陣羽織をモチーフとした意匠が用いられ、四百年を経ているとは思えないほど斬新さ。飽きの来ないデザインモチーフは、街並みの洗練されたアクセントとなっているのです。そして仙台には政宗が由来とされる食品や風習がいくつも伝わり、彼への敬愛を忘れない人々の思いが感じられます。

寛永13年(1636年)5月24日、政宗は70年の生涯を終えました。

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く
領国経営で手腕を発揮し、将軍や大名たちから敬愛され、泰平の世を楽しんだ政宗。晩年、生涯を振り返ってこう詠みました。

馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世平らかにして白髪多し
残躯天所赦 残躯天の赦す所
不楽是如何 楽しまずして是を如何にせん

残された人生楽しまないでどうしろっていうんだ!
と詠む感性はまさに爽快で痛快。四百年の時を経ても、人生を楽しんだ政宗の豪放磊落さが伝わって来ます。

さて、長い本稿もそろそろ終わりです。
パーティお開きの前に、彼の行動をおさらいしつつ、フィクションによくある設定をファクトチェックしてみましょう。

政宗さんの、これ、ホント? 回答 解説
①義姫は政宗の醜さを憎み、小次郎を偏愛していた × 書状のやりとりを見ると、母子の仲が悪かったようには思えません
②片倉景綱が眼球を摘出した × 頭蓋骨に眼球摘出を由来とする陥没がない。景綱が政宗の腹部にできた腫瘍を治療したことは史実
③眼帯を着用 × 右目は白濁した状態で眼帯はしていませんでした。※欄外の瑞巌寺木像参照
④伊達政宗は長身のイケメン 身長はおよそ160センチ、当時の平均程度です。隻眼で疱瘡の跡もおそらく残っていたため、当時の基準では美男とは言えない容貌であったようです。ただし復元された顔は面長で気品があります。それに結局のところ人の美醜は、その人に備わる魅力やオーラに左右されます。政宗がイケメンだと思うなら、そう信じればいいんです、それで幸せになれるならそれでいいんです
⑤独眼竜は後世の作家がつけたニックネーム 行動を見てみると、政宗本人も李克用を意識していたため、そうとも言い切れないのでは
⑥伊達輝宗は政宗の器量をみこんで家督を譲った × 当記事の本文をご参照ください
⑦伊達政宗は戦上手 そもそも伊達氏は奥羽一の大大名ですから、その時点で強いのは当然といえます。にも関わらず、大崎合戦は数で勝ちながら、手痛い敗北を喫しているわけです。ここまで見てきてなんとなくわかると思いますが、政宗がスカッと勝利をおさめたのは、まだ若い総大将相手の摺上原の戦いくらいかな、というところ。この蘆名氏との戦闘にせよ、実は激しい抵抗にあい落とせなかった小城が蘆名領には結構あります。政宗が長けていたのは、むしろ外交的交渉です。大内氏・大崎氏・石川氏は最終的に外交的に屈服させ、最上義光も外交力で抑え込んでいます。それに結局のところ戦というものは、時の運に左右されます。政宗が戦上手だと思うなら、そう信じればいいんです、それで幸せになれるならそれでいいんです
⑧片倉景綱は政宗の傅役であり、右腕として常に側にいた × ただし、政宗と景綱は親しく、若い頃政宗はよく景綱の家に遊びに訪れていたようです。景綱や伊達成実と比較するとフィクションでは登場しませんが、仙台藩の基礎作りには茂庭綱元が大きく関わっています
⑨片倉景綱は最上家を嫌っていた × ただし伊達成実は最上が嫌い
⑩義姫は小次郎を偏愛し政宗を疎んじ、最上義光は伊達家のっとりを企んでいた × そもそもこの話、伊達家と最上家の力の差を考慮していないと思います
⑪奥羽(現在の東北地方を統一した) × 当記事の本文をご参照ください
⑫陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)を統一した × 当記事の本文をご参照ください
⑬撫で斬り等厳しい態度をとり、奥羽のぬるい大名をふるえあがらせた × 当記事の本文をご参照ください
⑭一大名に過ぎない伊達家を奥羽一の大大名にした 政宗家督相続前から伊達家は奥羽一。ただし政宗の領土拡張が広大であったことは事実
⑮伊達政宗は奥州筆頭 奥州筆頭という役職はありませんが、奥州探題のこと、あるいは陸奥を代表する大名というニュアンスならあながち間違いとは言えない、かも
⑯伊達政宗は関東侵攻をたくらんでいた × 最上義光に「このまま関東も簡単に攻め落とせる」と書き送り、晩年「関東を越えてこれからというところで秀吉が来ちゃってさ」と回想している政宗。実際に行動を見ていると陸奥を越えて南進することはありません。また出羽へと西進することもありません。彼の行動はあくまで反伊達派への対応中心であって、状況からみると陸奥を出ることを考えていたようには思えないのです
⑰あと十年、二十年早く生まれていたら天下を取れていた × 前項の通り、言葉とは裏腹に陸奥の中にとどまっていた政宗。もっと早く生まれたとして、陸奥の外まで進んだかどうかは疑問が残ります。十年、二十年早い時代には蘆名氏全盛期であり、陸奥を超えたとしても関東以南には錚々たる大名が揃っています。そもそも政宗本拠地の陸奥は寒冷地であり、農業生産力でも劣っています。無理でしょう
⑱派手な服装を秀吉から気に入られたおかげで、朝鮮に渡らずに済んだ × 当記事の本文をご参照ください
⑲一揆煽動の嫌疑を、鶺鴒の花押に穴が空いていないと誤魔化した × 当記事の本文をご参照ください
⑳「伊達者」の語源は伊達政宗 × 当記事の本文をご参照ください
㉑関ヶ原で「百万石のお墨付き」を反故にされた × 当記事の本文をご参照ください
㉒大坂の陣では伊達家の騎馬鉄砲隊が活躍した × 江戸後期から『常山紀談』等に出てくる話ですが、政宗存命中にはこれに関しての記述は全くなく、後世の創作です。当時の軍団編成からみてもありえない形態です。ただし、他の地方と異なり、奥羽の武士は騎馬から降りずにそのまま武器を持って戦っていました。このことは政宗自身が語り残しています
支倉常長の遣欧使節団は、スペインと手を組んで天下を取るための策 × 当時のスペインの状況、現実性等考慮すると、荒唐無稽な話としか思えません
㉔ずんだを発明したのは政宗 × 枝豆を用いた餡は東北南部を中心に他の地域にもあり、名称も異なる場合があります。「ずんだは宮城名物、だって伊達政宗が発明したんだもんね!」と言うと山形や福島の人と揉める可能性があります。ご注意ください

伊達政宗木造/瑞巌寺HPより引用

【関連記事】伊達政宗の「ずんだ餅」はウソ!? 書籍『伊達政宗と時代劇メディア』からガチかっこいい独眼竜を学ぶ!

 

あとがき~伊達政宗を、楽しもう!

筆者を政宗アンチと思う人もいるかもしれません。ネチネチと重箱の隅をつつきやがって、ロマンを壊しやがって、そう言いたくなる気持ちはわかります。
「昔読んだ政宗の本と違うじゃないか!」
そう仰りたい気持ちもわかります。私も書いている間、「こんなことを書いていいのだろうか?」と何度も迷いました。

私も政宗に興味を持ったきっかけはフィクションでした。
そこから興味を持ち、調べていくうちにフィクションにおける誇張と創作がわかり、信じてきた設定が実は間違っていたと知った時は、騙されたような、自分の中にある政宗像を壊されたような気がして、ものすごく不愉快な気持ちになりました。政宗のことも嫌いになりかけました。

しかし、です。
さらに調べてゆくと、政宗は誇張せずとも十分魅力がある、むしろ『ありのままの政宗って最高だな』と思えるようになりました。

戦が強いことだけが政宗の魅力ではありません。
彼の書状、残した和歌や漢詩、斬新なデザインセンス、やんちゃで茶目っ気あふれる行動、人間味溢れる失敗の数々。
そう思えてくると、今度はフィクションでの設定が気になり出しました。

郷土の偉人や先祖を褒めたい気持ちは理解できるにしても、やり過ぎなのではないか? 画像加工が派手なプリクラのように、かえって変になっている部分がないだろうか?

この記事をまとめるにあたり、幸いにもそうした「盛り過ぎ政宗像」を修正する書物を参照することができました。
この記事は、最新の優れた東北戦国史研究の一端を参照させていただいておりますが、私の狭い知識のバイアスがどうしても入ってしまいますので、気になる方は是非、記事末の参考文献にあたっていただければと思います。

私は、歴史上の人物を崇拝し、見習おうとはあまり思いません。
時代があまりに違いすぎて、ともすれば努力がズレてしまいそうな感覚に陥ります。
しかし政宗だけは例外です。

セルフプロデュース力、コミュニケーション能力、遅刻や失敗をしてもうまくリカバリする機転、人生を楽しむ力。政宗のような図太さこそ、生きていく上で見習いたい点だと感じています。どんなに落ち込んでいても、政宗について考え、調べているだけで気持ちが明るくなり
「まあ何とかなるさ!」
と思えるんですね。

こんな魅力的な人物、そうそうおりません。

本稿はいわば、政宗という巨大で豪壮な宮殿の入り口に敷かれた玄関マット程度のものです。
これをきっかけに政宗を調べてゆけば、きっと楽しいパーティがあなたを待ち受けていることでしょう。

伊達政宗というスーパースターの宴を、どうか楽しんでください!

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イラスト・富永商太

【主な参考文献】
遠藤ゆり子編『東北の中世史4 伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館)
高橋充編『東北の中世史5 東北近世の胎動』(吉川弘文館)
時代考証学会『伊達政宗と時代劇メディア』(今野印刷株式会社)
遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏』(吉川弘文館)
佐藤憲一『伊達政宗の手紙 (新潮選書)』(洋泉社)
小林清治『伊達政宗の研究』(吉川弘文館)
小林清治『戦国大名伊達氏の研究』(高志書院)
小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館)

文:小檜山青




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