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絵・富永商太

豊臣家 週刊武春

豊臣秀吉62年の生涯をスッキリ解説!【年表付き】成り上がり伝説を史実で検証

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豊臣政権の屋台骨を揺るがした朝鮮出兵と秀次自害

天正19年(1591年)、秀吉を支えて来た弟の秀長が亡くなった。

更には後継者に指名していた鶴松も、相次いで病死。その落ち込みは推して知るべし、秀吉は姉の子である秀次を養子に迎え、家督を相続させる予定として関白を譲る。

関白を譲った人のことを「太閤」と呼ぶことから、秀吉は太閤と呼ばれることになった。

秀吉の政治力・外交力からキレが失われていったのもこうした不幸が原因だったのだろうか。
同年、それまで重用していた茶人・千利休を自害させると、8月には「唐入り」を表明、肥前国に出兵拠点となる名護屋城の築城を開始する。
そして翌文禄元年(1592年)、明と朝鮮の征服を目的に16万もの軍勢を朝鮮へ出兵させた(文禄の役)。

朝鮮出兵の序盤は、秀吉軍が朝鮮軍を圧倒した。

しかし、明からの援軍が送られてくると、たちまち戦況は膠着、文禄2年なって明との講和交渉が開始される。
朝鮮出兵は、兵役を課せられた西国の大名を疲弊させ、豊臣政権の基盤を弱める結果となった。

そしてこの年、豊臣政権の今後に響く出来事が同時に起こる。
茶々(淀殿)との間に豊臣秀頼が生まれたのだ。

これで困ったのが甥の豊臣秀次である。

豊臣秀次/wikipediaより引用

鶴松の時と異なり、秀吉は既に後継として秀次を関白としていた。
当初は、全国をエリアに分けて「秀次5、秀頼1」と明言するなど、秀次排斥の予定はなかったのである。

しかし、秀次のメンタルが弱かったのであろうか。
秀頼誕生に焦って情緒不安定になると、両者の溝が深まってゆき、結局は「秀次切腹事件」へと繋がってしまう。

同事件の処理が、またマズかった。
秀次の自害に連座して、妻子の殆どが処刑されたのである。

元々少ない秀吉の血縁を更に減らすことになったばかりか、殺された妻子の中には、秀次に嫁いだばかりでこれから顔を合わせようという駒姫最上義光の娘)もおり、更には伊達政宗なども嫌疑をかけたのだから始末が悪い。
最上も伊達も、秀吉の死後、キッチリと徳川家康になびいている。

そして慶長2年(1597年)、明との和平交渉の決裂を受け、再び14万の兵を朝鮮に出兵(慶長の役)。同時に京都と大坂のキリスト教徒を捕縛し26名を処刑した。

慶長3年(1598年)3月に醍醐の花見を終えた後、5月より病にかかっていた秀吉は日々体調が悪化する中、五大老と一部の五奉行に宛て遺言状を出し、この世を去った。

8月18日、場所は伏見城にて。
死因は明らかではないが、腎不全による尿毒症、脚気、梅毒、明の使者による毒殺と諸説ある。
62歳の波乱に満ちた生涯であった。

辞世の句は、慌ただしく権力の階段をのぼりきった男にしては、どこか儚いロマンの漂うものであった。

「露とおち 露と消えにし 我が身哉 難波のことも 夢のまた夢」

 

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20人はいたと思しき側室と数少ない子供

秀吉の妻としてよく名が上がるのは、貧しい時代から彼を支えた「おね」と、秀吉が50歳を過ぎて側室に迎えた淀殿だろう。

おねと秀吉の間には子はいなかったが、加藤清正福島正則などの親類縁者を実子のように可愛がり育てた。
淀殿は、信長の妹・お市の方と浅井長政の娘である。

「淀」の呼称は、第一子・鶴松を懐妊した際に秀吉が山城・淀城(京都)を産所として与えたことに由来する。
鶴松は2歳で夭折してしまうが、第2子の秀頼は5歳で家督を継ぎ、成人を迎えている。

前述したように秀頼は秀吉の実子でないという説もあるが、真相を知るのは母の淀殿のみであり、秀頼は大阪の陣で自刃、息子の国松は処刑され、娘は仏門に入っている。
いぜれにせよ秀吉の血を直接引いた子孫は居ない。

秀吉は女好きで多くの側室を持った。

生まれと容姿のコンプレックスから身分の高い女性に憧れていたとも思われ、側室の中には、大名の娘も多くいた。信長の娘や、前田利家の娘、淀殿の従姉妹にあたる人物もいる。
ただ、なぜか公家の娘には興味を持っていなかったようだ。

はっきりと記録が残る側室は13人であるが20人程度の妻がいたと考えられる。
長浜城主時代には、妾にあたる南殿との間に一男一女をもうけたともされる話もあるが、両人とも幼いうちになくなっている。

 

大事にしきれなかった(?)血縁関係

秀吉には父の同じ姉が1人、父の違う弟1人と妹が1人いる。

父の同じ姉の智(日秀尼)は、農民であった弥彦(後に秀吉の家臣となり三好吉房と名乗る)に嫁ぎ、三男を産んだ。

それぞれ以下のような足跡を辿っている。

・長男の秀次は秀吉の養子となり関白の位を譲られるが粛正される(あるいは自らの自害説も)。
・次男の秀勝も秀吉の養子となり、浅井長政の三女・江と結婚し、娘の完子を授かるが、文禄の役にて朝鮮に渡って病死する。完子は江の再婚に際して、淀殿の養女となり九条家に嫁いだ。
秀吉の親類で現在まで血脈を残しているのは完子の子孫のみであり、実は今上天皇にも完子のDNAが受け継がれている。
・三男の秀保は叔父・秀長の娘と結婚し養子となるが、子を作る前に17歳で急死している。

異父弟にあたる秀長は温厚な人物で、内外の政務および軍事面で秀吉を支えた。

諸大名の中にも秀長を信頼している者が多くあり、転職王と呼ばれた藤堂高虎も秀長が52歳で病死するまで配下にいた。
彼が長生きしていれば豊臣政権が存続した可能性があったかもしれない。

秀長の子女は、夭逝した男児の他は男子がおらず、長女は前述の秀保と結婚するも、子はいなかった模様。
次女の菊は毛利秀元に嫁ぐも妊娠中に死去。秀長の家系は子の代で断絶している。

妹の旭は、農民(秀吉の出世で武士となる佐治日向守)に嫁いでいたが、家康と和議を結ぶための政略結婚の道具として44歳で無理やり離婚させられ、徳川家へ正室(継室)として嫁いだ。
高齢であったため子は出来ず、47歳で病死している。

その他、秀吉の親類としては、母・なかの妹の息子(秀吉の従兄弟にあたる)福島正則や、母同士が従兄弟であり、秀吉とは又従兄弟にあたる加藤清正が知られる。
福島正則、加藤清正は幼い頃からおねが可愛がって育てたため、おねを「おかか様」と慕ったとされる。

秀吉は、妻であるおねの親戚も家臣や養子として取り立てており、関ヶ原にて西軍を裏切った小早川秀秋はおねの兄・木下家定の息子であり、五奉行の1人・浅野長政はおねの養父・浅野長勝の甥にあたる。

 

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身分低すぎるがゆえの「姓」の変遷

名字について、木下と羽柴については先に述べたが、身分の低かった秀吉に「本姓」はなかった。

秀吉は、天正11年(1583年)の従四位下参議から天正13年の内大臣まで「平秀吉」を名乗っている。
これは本姓がなかったため、主君であった織田信長の本姓(織田氏は桓武平氏の流れを汲むと言われる)を真似たと考えられる。

関白の就任にあたり、前関白・近衛前久の猶子となった秀吉は、姓を平から「藤原」に改めた。
そしてその後、正親町天皇から豊臣を本姓として賜り、使用するようになる。

近衛前久は信長や謙信とマブダチのスーパー関白!「本能寺の変」後に詠んだ、悲しき南無阿弥陀仏

 

中世から近世へのターニングポイントとなった太閤検地

本編で触れなかったが、試験には頻出する秀吉の政策を一つ補足しよう。

秀吉の検地(土地の再調査=増税)は、太閤検地と呼ばれる。
日本中が、石高を代表とする同じ基準で測量や土地の価値が統一され、日本経済史上、重要な出来事だ。

天正18年(1590年)の奥羽仕置までは、占領地に限定して行われたが、その後は、豊臣政権の重要な政策として全国で実施。
石高がわかると、その田畑で養える人口が計算できる。すなわち、動員可能な兵力がわかる。

特に文禄の役(朝鮮出兵)後に、広範囲に検地が行われていることから、朝鮮での兵糧を確保する目的があったとみられている。

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豊臣秀吉・年表

1537年頃 尾張国中村に生まれる
1551年 頭蛇城城主・松下長則に仕える(15才)
1554年 清須城主であった織田信長に仕えはじめる(18才)
1561年 おねと結婚する(25才)
1566年9月 墨俣城を築く(30才)
1570年4月 金ヶ崎の戦いで殿を務める(34才)
1573年 羽柴秀吉と改名する
1573年8月 小谷城の戦い(37才)
1574年1月 長浜城を築城し居城とする(37才)
1577年10月 信長より中国攻めを命ぜられる(41才)
1578年3月 三木合戦(42才)
1581年10月 鳥取城の戦い(45才)
1582年6月 本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を討つ(46才)
1582年7月 太閤検地をはじめる
1583年4月 賤ヶ岳の戦い(47才)
1583年6月 北ノ庄城の戦い
1583年 大阪城築城開始
1584年 小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦う(48才)
1585年3月 紀州征伐(49才)
1585年7月 関白に任命される。四国平定
1585年9月「豊臣」姓を賜る
1586年12月 太政大臣に任命される(50才)
1587年5月 九州平定(51才)
1587年7月 バテレン追放令を出す
1587年9月 聚楽第を築く
1587年10月 北野大茶会
1588年1月 茶々を側室にする(52才)
1588年7月 刀狩令
1590年3月 小田原合戦(54才)
1590年6月 奥州を平定。秀吉の天下統一が完成する
1591年1月 弟・秀長が病没(55才)
1591年2月 千利休切腹
1591年12月 甥の秀次に関白を譲る
1592年4月 文禄の役(56才)
1593年8月 嫡男・秀頼の誕生(57才)
1595年7月 秀次切腹(59才)
1598年8月 伏見城にて病没(62才)
死後
1600年9月 関ヶ原の戦い

文:武将ジャパン編集部




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【参考資料】
名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集一』(吉川弘文館)
服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(河出書房)
藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)
藤井譲治『日本近世の歴史1 天下人の時代』(吉川弘文館)
戦国武将の死亡診断書 酒井シヅ (株)エクスナレッジ
戦国武将の履歴書 クリエイティブ・スイート 宝島社
堀 新 (編集),‎ 井上 泰至 (編集)『秀吉の虚像と実像』
超ビジュアル!歴史人物伝 豊臣秀吉 西東社
wikipedia/豊臣秀吉他
http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000010622.html

 



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