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週刊武春 諸家

戦国武将も愛した連歌が実はメッチャ面白い! 信繁も義光も官兵衛もハマってた

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弓と馬、槍と刀の戦国武将。その生涯は、戦に明け暮れるワイルドな日常かのようにも思えますが、実際はそれだけでもありません。

大名家に生まれたとなれば、教養も大切です。
彼らは美術品や漢籍を集め、読書に励み、感性や教養を磨いていました。
戦の合間には政務だけではなく、そういった趣味を楽しむことも当然あったわけです。

そんな彼らの文化的な集いとして、映像化されやすいのが茶の湯でしょう。
中でも政治力が強い千利休は、大河ドラマにもしばしば登場します。

その一方で、茶の湯と勝るとも劣らないほどの人気があったにも関わらず、ほとんど取り上げられないものもあります。

連歌」です。

連歌が注目される場面といえば、明智光秀が「本能寺の変」直前に意味深な句を詠む「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」くらいでしょうか。
今回はそんな連歌について、少し深掘りしてみたいと思います。

 

五七五七七を上・下に分け、複数人で詠んでみよう♪

連歌とは、五七五七七の短歌を上の句・下の句で分けて複数人で詠んでみよう、というところから始まっています。

もとは「短連歌」という、上の句と下の句を二人で分けて詠むスタイルでした。

それが時代が降るにつれ、複数人が集まり、規定数の句を集めるゲーム「長連歌」へと変化。
「長連歌」で最も一般的なのが、百句を集める「百韻」です。

もちろんルールもありまして、前の句にあわせたものを詠まねばなりません。

昔「マジカルバナナ」という連想言葉ゲームがあったのをご存知でしょうか?
「バナナといったら滑る♪ 滑るといったらスキー♪」
というように、前の人が言った単語を受けて、そこから連想する単語をつなげていく遊びです。

連歌も「マジカルバナナ」のように、
「梅といったら春 春といったら霞」
という感じで、連想するテーマの句を続けていかねばなりません。

このとき全然関係ない句をつけるとへたくそだと思われ、かといって同じパターンで句をつなぐと「もうちょっとひねりが欲しいかな」と思われてしまうという、なかなか面白くも難しいものです。

 

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源氏物語』のような古典知識を織り込めばさらによし

連歌作りのポイントとしましては、
テーマにあった句、
次の人に繋ぎやすい句、
そして情景をまざまざと思い起こさせ詠むことでしょうか。
TBSの人気番組プレバトで、俳句の夏井先生が「映像を切り取る」というようなことを仰られてますように、連歌も、聞き手が想像しやすい場面が有効となるようです。

これに加えて『源氏物語』のような古典文学知識を織り込めばさらによし。
特定の語句の使用回数上限が設けられる場合もありました。

単体で優れたものを詠むだけではなく、場の空気をも詠まねばならない、それが連歌のルール。
うーん、なかなか大変そうですね。

このような句を即興で思いつくのはそう簡単なことではありません。
連歌は句を思いついた人から発表しますので、詠む句の数にも偏りが出てきます。

参加人数はだいたい十人程度が一般的であったようです。

当意即妙に句を詠む頭の回転の速さ。
コミュニケーション能力。
古典文学の教養。情
景や心情を切り取る文才。

そうした複合的な要素が試されるのです。

 

歌でストレスを発散する武士たち

鎌倉時代のエッセー『徒然草』第89段で、
「猫股にという妖怪に怯える法師が、じゃれついてきた飼い犬に驚いて小川に転落する様子」
が、ユーモラスに描いています。

この法師が何故、犬と猫股を勘違いしたのか?
と申しますと、夜更けまで連歌をしていたからなのでした。

連歌というのは百句も詠むわけですから、そりゃあ時間もかかります。
途中で休憩を挟み、食事も出ます。
オールナイト連歌を行う場合もあり、楽しさのあまり寝る間も惜しんでしまう盛り上がりが伝わって来ます。
昭和のサラリーマンが徹夜麻雀に勤しんだのと似てますかね。

前述の『徒然草』で、小川に落ちた法師は連歌の景品を懐に入れていたのに、水に落として台無しにしてしまいました。
このように、連歌会では優劣に応じて景品が出ることもありました。
これまた現在に例えればゴルフコンペのようですね。

庶民は花見をしながらワイワイと気軽に連歌を楽しむ一方、高貴な人が集う連歌会はもっと格式が高いものでした。

豊かなインスピレーションがわいてきそうな立派な会場で、かぐわしい香を焚きしめて行うのが定番。
まさに一大イベントです。
政務や合戦に明け暮れる武将たちにとって、リラックスでき、楽しめるものでした。

なんせ『古今和歌集』の昔から、
猛き武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり
と言われて来たぐらいですから。
弓馬の道を生きる武士ならば、ストレスを発散するために歌を詠む。そういう効能があったのです。

もっともこれも人それぞれで、文芸そのものは親しんではいるものの、自分から詠むのはあまり好きではない、教養としてこなすものの、積極的に行うわけではない、徳川家康のような武将もいたようですね。
あるいは織田信長も、若かりし頃は文化芸術の教養をほったらかしにして武芸を重視したあまり、それが原因で「うつけ者」と称されたなんて話もあります。
今川氏真にいたっては歌や蹴鞠にハマる一方、同家を滅亡させてしまった、なんて後世につっこまれたり。

こうしたエピソードからも、武士の世界と教養の関係性が垣間見えて面白いですね。

信長さんはこんなコトを言ってましたが……(絵・富永商太)

 

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連歌が必要とされた4つの理由

こう書くと連歌は楽しいだけの娯楽のようにも思えますが、戦国武将にとっては必須のスキル、欠かせないイベントでもありました。
その理由をまとめてみます。

① 武士にとっての理想は文武両道である

当代きっての教養人・細川幽斎は、こんなどストレートな歌を残しております。

歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ

意味としては「和歌や連歌、乱舞、茶の湯を嫌う人って、育ちのほどがわかっちゃいますよねえ、オホホホ」という感じでして。
もはや武士だからと弓馬だけが得意では、「お里が知れますね」と笑われる時代であったのです。
辛いなぁ。

細川幽斎/Wikipediaより引用

②家中恒例行事として

連歌会は雰囲気を大事にします。
なので新年や祝い事の晴れやかな場で行われることがよくありました。

例えば伊達家では毎年1月7日に「七草連歌」、または「若菜連歌」と称する連歌会を開催。
天正18年(1589年)、会津征圧の翌年に政宗がこの席で詠んだ句からは、広大な会津を一気に手にした自らの功績を、七草を摘む歌になぞらえています。

七種を一葉によせてつむ根芹

伊達政宗の得意げな様子が伝わってくるようです。

こうした家中恒例行事としての連歌会は、家の格式を高めるとともに、参加者同士の結束を強くする役目もありました。
江戸時代になると、将軍家が「柳営連歌」という公式行事を実施しました。
そういう意味では、現代の社員草野球大会みたいなものですね。

③ 情報収集・外交

大名家主催の連歌会には、プロの連歌師が呼ばれることもありました。

彼らは、特に怪しまれることもなく武家に出入りし、会話をすることもできるために情報収集も可能。
イベントを開くというだけではなく、連歌師から情報を得ることができるのです。

そのため特定の家に仕えず、名家を渡り歩くフリーの連歌師もいれば、大名家お抱えの連歌師もいました。
お抱え連歌師は、大名家と公家との間をつなぐ役目、使者としての役目を果たすことがありました。
ただの芸術家ではなく、外交官の役目もあったのです。

ただし、そうした連歌師の性質上、政治の混乱に巻き込まれることもありました。
多くの戦国大名と信仰のあった高名な連歌師・里村紹巴は、関白・豊臣秀次のいる聚楽第に毎日のように登城。
そのため、秀次失脚時に罪に問われ、家財没収の上流罪処分を受けています。

④戦勝祈願

連歌は人と人を結ぶだけではなく、神に捧げるものであるという考え方もありました。
優れた歌は神をも感動させ奇跡を起こす、そう考えられていたのです。

連歌を興行することで、神を喜ばせる。
縁起のいい歌を詠み、ツキを引き寄せる。

こうした宗教的な要素もあったため、合戦前の戦勝祈願として連歌を興行することもあったのです。

代表的なのが、それこそ明智光秀でしょう。
本能寺の変直前の「愛宕百韻」において詠んだ発句、
ときは今 あめが下しる 五月かな
は、表向きは毛利攻め、しかし実は織田信長への謀叛成功を祈願したものであった——という話は有名です。

ただしこれは解釈次第で、そうこじつけるのは深読みではないか、とも言われています。
信長への叛意を詠んでいたらもちろん面白いんですけどね。
実際のところはわかりません。

いずれにせよ連歌がコミュニケーションだけではなく、様々な用途において活用されていたのは間違いありません。

 

「なかなか上達しない……」とこぼす真田信繁

このように様々な用途があった連歌ですから、名のある武将も嗜んでおりました。

例えば真田信繁は関ヶ原の戦い後、九度山に蟄居してから連歌を学び始めました。
「なかなか上達しない」とこぼしているものの、心から楽しんでいたようで、いずれは興行をしてみたいと兄・信之宛の手紙に書いています。

こうした素朴な楽しみ方をする武将もいれば、プロ連歌師も一目置く武将もいます。
前述の細川幽斎。
彼は戦国武将の中でも随一の教養人だけに、句数も堂々の一位です。もはや別格でしょう。

出羽の大名・最上義光も連歌を好みました。
朝鮮出兵に備えた名護屋滞在中に、発句を京都まで送ったことも。
連歌の過程で疑問に思ったQ&A、自分なりに考えた参考書『最上義光注連歌新式』が残されています。

この本は里村紹巴が添削し賞賛したそうで。よほど連歌にハマっていたんですね。

最上義光像

更には軍師官兵衛でお馴染みの黒田孝高官兵衛・如水)も連歌を好みました。

17~18の頃は歌を好み、この道を究めて生きていこうとすら考えていたとか。
武士ならば弓馬を嗜むようにと周囲からさとされて、皆様ご存じの通り立派な武将になるわけです。

しかし、我慢していたんでしょうね。
働き盛りを過ぎて時間ができてからはよく連歌を楽しんでいました。

残念ながら、連歌そのものの流行は、江戸期以降、廃れてしまいます。
将軍家や大名家では恒例行事として続けられたものの、明治以降はそれすら行われなくなるのです。

茶の湯は現在まで残る一方で、時代の波間に消えてしまった連歌。
そうした事情のためか、映像化作品やフィクションでもほとんど出てこない、出てきたとしても断片的にしか触れられません。
残念ですね。

連歌には当時の人々の置かれた状況や心情が反映されているものです。
武将の残した連歌を読み楽しむのも、歴史を学ぶ楽しさと言えるでしょう。

文:小檜山青




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【参考文献】
綿坂豊昭『連歌とは何か』(講談社選書メチエ)

 



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