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週刊武春 フランス

ポーリーヌの美貌と奔放 ナポレオン皇帝陛下の妹がこんなにエロいはずが……!?

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歴史の中には「淫乱」と呼ばれる女性が登場します。

もちろんそのほとんどが誹謗中傷めいた噂の類で、中には、政略結婚のため泣く泣く再婚した女性が「二夫にまみえた」ということで、そんな呼び方をされてしまうこともあるわけで。
大半はゴシップ的に取り扱われた結果なんですね。

しかし!
中には本当におります。
「この女性、エロすぎないか?」という人物が。
しかもそれが、あのナポレオンの妹というのですから日本人にとっては目が点なお話(*_*)

本日は、ヨーロッパ中を震撼させた美貌とエロスの持ち主ポーリーヌの歴史を振り返ってみましょう。

 

ナポレオンの11才下 絶世の美女・ポーリーヌ

今更説明するまでもないほど偉大なナポレオン。
彼には三人の妹がいました。

その個性的なキャラクターをかいつまんで紹介しますと、以下の通り。

長女エリザ:勉強が好きで生真面目。フィクションでは大抵出てこない
二女ポーリーヌ:本稿主役。美人でエロくてスタイル抜群でお兄ちゃん大好き
三女カロリーヌ:女の体にマキャベリの頭脳を載せた、と評価されるほどの策謀家

……なんなんでしょうね、これ。
フィクションでこんな設定を出して来たら「ベタか!」とやり直しになるようなラインナップ。
しかし史実なんだからしゃあない。

ポーリーヌは兄ナポレオンより11才下の妹として誕生しました。
ボナパルト一家は政治闘争のあおりを受け、故郷コルシカ島からマルセイユに引っ越します。

二兄のナポレオンが軍人としてのキャリアをスタートし、革命後混迷を極めるパリに赴任していた1796年。
僅か15才のポーリーヌは、男たちの心を引きつける早熟な美少女でした。

彼女は兄ナポレオンの部下・ジュノーと交際していたものの、
「あんな貧乏な男は駄目だ」
ということで、あえなくダメ出しされてしまいます。

ナポレオン/wikipediaより引用

次に彼女と熱烈な恋に落ちたのは41才の政治家・フレロンでした。
ナポレオンはこの結婚に当初は乗り気だったものの、母のレティツィアは断固反対します。いくら有力政治家とはいえ、15才と41才ではねえ……。ナポレオンもイタリア遠征に忙しく、妹の結婚どころではなくなったようです。

ポーリーヌはフレロンに永遠の愛を誓いながらも、母には逆らえず、泣く泣く別れを告げます。
「永遠にあなたを愛し続けるから!」

しかし、その別れから一年も経たないうちに、ナポレオンの部下で金髪のイケメン・ルクレール将軍と結婚するのでした。

24才の花婿と、16才の花嫁、美男美女のカップルです。
2人はナポレオンの遠征先であるイタリアで結婚式をあげました。

上り調子の上官の妹、しかも美人で評判の女性と結婚するなんて、とルクレールは大喜び。ポーリーヌもイケメンの夫にうっとりとこれまた大喜び。
フレロンのことはまあ、忘れたんでしょうね。

革命後の激動の時代、野心を燃やし、才知を発揮したいと願う女性もいた中で、16才のポーリーヌは美しい見た目はともかく、中身は割と普通の女の子でした。
「えー、やだー、マジー!?」
こんな調子で、しょ~もない話題で笑い転げるポーリーヌ。この夫妻は1798年には男児デルミィドを授かります。

順風満帆に見える若い夫婦。しかしポーリーヌを生涯悩ませた病もこの頃から発症しています。
出産時に生殖器が感染症を起こしてしまい、後々までこの病に悩まされることになるのです。

 

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第一執政の妹としてパリ社交界でもノリノリ

兄ナポレオンはこのあとエジプト遠征に向かい、夫ルクレールは病気のためパリに残ります。
今やルクレール夫人となったポーリーヌはパリ社交界でデビューを飾りました。

美人だとちやほやされてきたコルシカ出身の彼女にとって、そこはなかなか厳しい場所でした。
パリ社交界は魅惑的ではあるけれども、美貌だけではなくファッションセンスやエスプリも要求されるのです。
これをポーリーヌは美貌と持ち前の気の強さで乗り切り、社交界屈指の美女として名声を得ます。

この社交界で同じく名花と讃えられていたのが、ナポレオンの妻でポーリーヌの義姉にあたるジョゼフィーヌでした。

しかし彼女はボナパルト家の面々からは嫌われていました。
お兄ちゃん大好きのポーリーヌは露骨に彼女を嫌い、ねちねちと悪口を言います。
正面切ってファッションに駄目出しもしました。

「ちょっとぉ~~。義姉様ったらぁ~~。いい歳こいたババアのくせに、ドレスに花をつけるとかマジありえないんですけどぉ~~」

こんな調子で、ジョゼフィーヌ以外にも、敵対関係のあるライバルに容赦なく喧嘩を売るポーリーヌ。誰も正面切って文句は言えません。
なんせナポレオン様の妹君なのであります。

1799年、エジプト遠征から電撃帰国したナポレオンはクーデターを敢行し、第一執政としてフランスのトップに立っておりました。

ポーリーヌ・ボナパルト/wikipediaより引用

しかし2年後の1801年、ルクレール夫妻に転機が訪れます。
夫は、サン=ドマング(現在のハイチ)遠征軍に任命されたのです。革命後高まった自由の機運はフランスの植民地にまで及び、のちにハイチ建国の父と称されるトゥーサン・ルーヴェルチュールが独立を求め反乱を起こしていました。反乱軍の鎮圧がルクレールに課せられた使命です。

夫の栄転にうかれたポーリーヌですが、出発前にだんだんと不安をつのらせ、親友に愚痴をこぼします。

「三歳児連れて地球の裏側に行くなんてありえないし。兄さまの意地悪」
「そう? でも、クレオール風(植民地)のドレスを着たあなたって、絶対イケてると思うけどな」
「やっぱりそうよね、私もそう思う! 南の島でパーティしまくろうっと!」

おだてられたポーリーヌは、南国行きを楽しみにするようになったのでした。
その先で起こることを知っていたら、そんな気持ちには決してならなかったのでしょうが。

 

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「悪疫の地」サン=ドマングで夫を失う

熱帯の地に着いたルクレールは、厳しい態度で反乱軍に挑みます。

一方でルスを守るポーリーヌは、淫らな行為にふけっていたという噂が流れます。
同性愛、夫の部下との情事、比べるために白人と黒人の愛人両方を試す、乱交パーティ等など。
ナポレオンも心配して「夫にやきもちを焼かせるようなことをしてはいけないよ」と手紙で諫めています。

ただしこうした噂は誇張されていると思われます。
イギリスの反フランス・ナポレオン一族キャンペーンの一環とも考えられるからです。
当時、熱帯の気候は人を淫らにするとも考えられていましたので、それもあるでしょう。

ただしポーリーヌが熱帯での暮らしを楽しんでいたのは確かなようです。
現地住民と開いたダンスパーティは大好評でした。

程なくして、ルクレールは反乱軍を鎮圧します。しかし、待っていたのは反乱軍の将・トゥーサンよりも恐ろしい脅威でした。

黄熱病です。

日本人にとっては野口英世の命を奪ったものとして知られる、この恐ろしい病が、フランス軍とその家族を襲撃。ポーリーヌとディミルドまでも一時罹患するも、無事回復しました。
しかし大半の人々は病に倒れると命まで奪われてしまうのです。
結果、この疫病の大流行でフランス軍は壊滅的な打撃を受けました。

そして最愛の夫ルクレールもこの病に斃れ、僅か30という若さで帰らぬ人となったのです。

ポーリーヌは栗色の豊かな髪を切り、黒い喪服に身を包みました。
「永遠にあなたを愛し続けます……」
彼女はそう亡き夫に誓いました。そして残された我が子と防腐処理を施された夫の遺体とともに、母国仏フランスに戻ることになるのでした。

 

黒いヴェールに包まれたフランス一の美女

黒いヴェールに包まれたフランス一の美女――。
まだ22才にして未亡人となったポーリーヌを人々はそう噂しました。

そんなポーリーヌの周囲には、夫を支えた勇敢な女性という声もあれば、南の国で乱交に耽った淫らな美女という声も。ナポレオンはそんな妹を、ゴシップと誘惑から守らねばならない、と考えます。

が、まだ22才で、しかも遊び好き。
美貌を賞賛されていなければ気が済まない、そんな彼女がいつまでも喪に服しているわけもありません。
ルクレールへの永遠の愛とは何だったのか……。まぁ、仕方のないことでしょう。

ナポレオンはイタリア貴族からポーリーヌの再婚相手を物色しました。
とりあえず問題がなさそうだと白羽の矢が立ったのが、28才のカミッロ・ボルゲーゼ大公でした。

地中海風の美貌を誇り、壮麗な馬車を駆るカミッロは女性にとって憧れの的でした。
当時の馬車は維持費が高く、金持ちのステータスシンボルです。
現在で言うところのフェラーリやランボルギーニのような、いやそれ以上の価値がありました。フェラーリに乗るイケメンセレブですね。

ボナパルト家の面々が見守る中、ポーリーヌとカミッロの出会いは演出されました。
しかしナポレオンはカミッロの欠点に気づいていました。
彼の父は教養ある人物であり、弟も賢かったのですが、彼本人は頭の出来がよろしくない、と言われていたのです。

「ボルゲーゼ公はイケメンだけど、操れるのは馬車くらいだろ。まともな会話すら操れないさ」
そう噂される残念なイケメンだったのです。

しかしポーリーヌは、ナポレオンが「もうちょっとちゃんと服喪しろよ」と苦い顔をするほど前向きに再婚へ向けて突っ走ります。
「あんなアホが相手じゃあ、お前すぐに飽きるんじゃないか」
ナポレオンはそうあきれながらも、再婚を認めざるを得ない……。
ナポレオンの予感はこのあと、的中することになります。

 

美しさを永遠に残したい! まるで裸のヴィーナス

1804年、ナポレオンはフランス皇帝となります。
あわせてポーリーヌも皇帝の妹という称号を得るのでした。

「皇帝即位を祝うために、何か記念品を作りましょ!」
ポーリーヌは名高い彫刻家カノーヴァに依頼し、勝利のヴィーナス像を造らせることにしました。
モデルはポーリーヌ自身です。

依頼を受けたカノーヴァははじめ断ろうとしています。イタリア遠征の際、ナポレオン率いるフランス軍はイタリア各地から美術品を強奪したことを彼は不快に思っていたのです。
しかし、しぶしぶポーリーヌに出会ったカノーヴァは、その美しさにすっかり魅了されてしまいます。
ミルクのように白い肌、均整の取れたプロポーション、形のよいバストにヒップ。

「この美貌を前にして、モデルにしたがらない芸術家はいるだろうか!」
大興奮です。

しかしカノーヴァは、異議を唱えます。
ヴィーナスはいかがなものか?
純潔の女神ディアナの方がよろしいのでは?
「私が純潔の女神って、説得力なさすぎるしぃ!」
ポーリーヌは即断で拒否。確かに美と愛欲の女神の方が彼女にはふさわしいでしょう。

こうしてできあがったヴィーナス像を見て人々は仰天しました。

ポーリーヌ像/wikipediaより引用

誘うような表情、腰まではだけた服……ほとんどヌードですよね、これ。

「フランス皇帝の妹ってこんなにエロいのか!?」
周囲の人々は彼女にこんな格好でモデルをしたのかと尋ねます。

「立派な暖炉があるから寒くないし、カノーヴァなんて本物の男じゃないし平気」
そんな人をくったような答えをして楽しむポーリーヌでした。

彼女の抜群のプロポーションですが、ポーリーヌ自身は「私は運がいいだけ」と冷静にとらえていました。
ほっそりとした美貌で有名なオーストリア皇后エリーザベトのような、血のにじむような過激な美容法やダイエットはしておりません。
ポーリーヌの生きた頃は、コルセットに支配されたヨーロッパの服飾史においてもぽっかり空いた穴のような時代です。
彼女は腰をぎゅうぎゅうと締め付けず、ゆるやかなシルエットの薄いドレスを身にまとっていたのです。

兄の皇帝戴冠式を前にしてまさに得意の絶頂にあったポーリーヌ。
しかしそんな彼女をまたもや不幸が襲います。
もうすぐ6才になる息子デルミィドが急病死したのです。

愛する夫ルクレールに続けて息子を失い、彼女は絶望のどん底に突き落とされました。
ポーリーヌにとって夫カミッロは救いになるどころか、その馬鹿さ加減がストレスの源。そもそも兄がサン=ドマングに私たちを派遣しなければ……。

そう不満を抱えつつも、彼女は兄の戴冠式に出席するため、パリへと向かうのでした。

 

「あんなに美人でエロい妹なら、兄だって、ねぇ……」

晴れの舞台の戴冠式もポーリーヌにとっては不満の種でした。
兄の跡継ぎすら産んでいない、大嫌いな義姉ジョゼフィーヌが着ているドレスの裾を、三姉妹で捧げ持たねばならなかったからです。

ナポレオン戴冠式/wikipediaより引用

やってらんないし! とでも思っていたのでしょうか。

23メートルもある裾を持つ三姉妹は、進行方向とは逆に引っ張るのです。
進むこともできず焦るジョゼフィーヌ。ナポレオンがギロリと妹たちを睨み付けたため、やっとジョゼフィーヌは進むことができました。

この戴冠式の頃から、何もかも吹っ切れたポーリーヌの「ご乱行」が激しくなります。
妹カロリーヌの夫ミュラは軍人として成功をおさめ、夫妻は出世していきます。
ポーリーヌは妹に嫉妬しましたが、ナポレオンはこう言います。

「ミュラは使える男だけども、お前の夫のカミッロは馬鹿で使い物にならんからな。地位を高くするわけにはいかん」

軍人として勇猛果敢だった元夫ルクレール。
猪突猛進型の軍人である義弟のミュラ。
それに比べて夫は馬鹿で役立たず……。ポーリーヌの後悔と怒りと不満が噴き出します。美貌を賞賛されるだけでは、贅沢三昧では、心の隙間は埋まらないのです。

「私は、兄やルクレールのような男に抱かれないとダメな女なの……」
かくしてポーリーヌは、ナポレオンの部下だろうと、政敵だろうと、構わず誘惑することになります。

その中にはナポレオンに嫌われたアレクサンドル・デュマ将軍もいました。
のちに作家となった将軍と同名の息子アレクサンドル・デュマは、女神のような女性が突然家に現れた記憶を書き残しています。
デュマとの関係はどこまで深入りしたかはわかりませんし、息子デュマの記述も曖昧にぼかされています。

しかしポーリーヌが愛人をたくさん作り、ゴシップ好きの社交界に切れ目なく噂の種を供給し続けていたのは事実です。
夫に隠すことなく、むしろ堂々と、
「アンタみたいな役立たずじゃ、私、満足できないの!」
と示すように、多くの愛人たちと情事を重ねるのです。

ポーリーヌは出産時に感染した婦人科系の病を治療すると称して各地の温泉を旅します。
温泉だけではなく、ミルクのような美肌を保つためと称して、牛乳風呂とシャワーを欠かさず行うのでした。
そうした温泉リゾート先で、デートを重ねるわけです。
しまいには主治医から「あまりにも激しい生活(下半身的な意味で)はおやめください」と言われるほどでした。

情事を重ねたのは「兄の部下」だけだったのか?
そんな噂は、当時でも恰好の話題となりました。

「あんなに美人でエロい妹なら兄だって、ねえ」
ナポレオンの妻ジョゼフィーヌまでもが、ナポレオンとポーリーヌの仲を訝しむ有様です。
ジョゼフィーヌはナポレオンが妹と「親密に抱き合う」場面を見て泣き崩れてしまったとかなんとか。

ポーリーヌはジョゼフィーヌが大嫌いで、ことあるごとに嫌がらせをしました。
そんな嫌がらせには、美女を愛人としてみつくろって兄に紹介することまで入っていました。そうした行動が周囲を誤解させたとしてもおかしくはありません。

1810年、ジョゼフィーヌが離婚された際には、ポーリーヌは大喜び。その一方で、兄が再婚すると再婚相手に夢中にならないかとやきもきしています。
この兄の結婚相手を異常なまでに気にして憎む性格も、「あの兄妹はあやしい」という噂の一因なんでしょうね。

また、ポーリーヌとナポレオンは、マウストゥーマウスのキスをすることもありました。
ナポレオンは「これはコルシカの習慣だ」と弁明しましたが、周囲からは
「そりゃないでしょ!」
と思われてしまいます。そりゃそうっすな。

悪意を持つ人々はこっそりと、彼女を「メッサリナ(娼館に入り浸ったとまで言われたローマ帝国クラディウス帝妃)」と呼んだほどでした。

 

帝国の衰退、そして兄ナポレオンの退位

そんなポーリーヌの愛人の一人に、若い軽騎兵カヌーヴィルという男がいました。
彼は軽率だったらしく、あるあやまちを犯します。

ナポレオンはロシア皇帝のアレクサンドル一世から、黒貂の毛皮を使ったコートを贈られていました。
そのうち一着がポーリーヌに譲られます。ポーリーヌはこれをダイヤモンドのボタンをつけた騎兵の上着に作り直し、カヌーヴィルに与えました。
カヌーヴィルはこの上着を身につけ、よりによって皇帝の閲兵に参加したのです。

さすがにこの行為にはナポレオンも激怒!
カヌーヴィルはイベリア半島からロシアまで、ヨーロッパ各地に飛ばされ続け、1812年のロシア遠征で命を散らします。ポーリーヌはその死を嘆きましたが……そうは言っても、彼が戦地にいる間には数々の美男と浮き名を流していたのでした。

カヌーヴィルの命を奪ったロシア遠征は、彼だけではなくフランス帝国そのものにも打撃を与えていました。
もしかすると兄の天下も、そう長くはないかもしれない。そう考えたポーリーヌは、宝石類をため込みいざという時のために使おうと決めていたのでした。

そして彼女の予感は当たります。
1814年、ナポレオンは退位に追い込まれたのです。

栄光を共にするのはたやすくとも、苦難を分け合うのは難しいもの。きょうだいも含めて、ナポレオンの周囲に群がっていた人たちは、あるいは顔を背け、あるいは裏切りました。
彼らの胸中にあるのはナポレオンと距離を置き、生活レベルと安寧を保つことばかりです。

もっとも彼らにも言い分はあるでしょう。
ナポレオンがイタリア遠征で頭角を現してからおよそ20年。勇者が疲れ果て、剣を置きたいと願うまでには十分過ぎる歳月でした。
血気盛んだった将兵たちも傷つき疲れ果て、栄光より休息を求めていたのです。

ナポレオンはエルバ島に流されました。
ポーリーヌもパリにある宮殿を去らねばなりません。
その壮麗な宮殿には、ナポレオンの宿敵・イギリスが誇る「鉄の公爵(アイアンデューク)」ことウェリントン公アーサー・ウェルズリーが住むことになりました。ポーリーヌが甘い夢を見た豪華なベッドに、公爵が眠ることになったのです。

ポーリーヌは自身の没落より、兄の心配をしていました。
彼女はエルバ島に流された兄のために、細々とした生活用品を用意し送ると、自ら島に向かい点検しました。

かつては兄に反抗したポーリーヌですが、エルバ島では兄の言うことを忠実に守り、「慰めの天使」の役割を果たしたのです。

ナポレオンの前妻ジョゼフィーヌはこの少し前に世を去り、後妻のマリア・ルイーゼは島を訪れようとしません。ポーリーヌと愛人のマリア・ヴァレフスカだけが、数少ない天使たちでした。
ポーリーヌは踊り、時にはナポレオンの部下の将軍に色目を使いながらも、兄の生活に潤いをもたらそうとしました。

かように兄を慰めていたポーリーヌですが、不安もありました。
兄は何か妄想しているらしい、上の空だと感じていたのです。

そしてついにその日が訪れます。
「私はエルバ島を脱出し、パリに戻る」
ナポレオンの決意を聞いたポーリーヌは動揺します。

そうなったらきっともう、二度と兄には会えないだろう……。
それでもポーリーヌは兄を止めることなく、いざという時のために取って置いたダイヤモンドのネックレスを兄の軍資金として捧げたのでした。
いざという時には心根の優しい一面も持ち合わせていたのですね。

ポーリーヌの予測通り、ナポレオンはワーテルローの戦いで敗北しました。
百日天下の終焉です。
ナポレオンにとどめを刺したのは、ポーリーヌの宮殿で寝起きしていたあのウェリントン公でした。

今度はエルバ島のような近場ではなく、絶海の孤島セント・ヘレナ島に流されてしまうナポレオン。
ポーリーヌすらそこに行くことはできません。
兄妹永遠の別れでした。

ポーリーヌ・ボナパルト/wikipediaより引用

 

「着る服だのパーティだの、そういうことだけ考えていればいい」

ナポレオンの百日天下で、どれほどの血が流れたか。
ナポレオン本人だけではなく、その軍資金を提供したポーリーヌにも厳しい目が向けられました。
彼女の行動は厳しい監視下に置かれます。

そして夫のカミッロは、ついに妻に離婚をつきつけます。

度重なる不貞、馬鹿に仕切った言動に耐えてきたのは、ポーリーヌが皇帝の妹であったから。誰もがひれ伏したヴィーナスのような美貌にも、少し翳りが見えて来ました。
ほっそりとした肢体には肉がつき始めて来ています。
カミッロには既に愛人がおり、彼はその人と結婚したかったのです。

「あの女は18のギャルみたいなドレスだけど、メイクの下は三十路女だよ」
この当時、ある人はポーリーヌをこう批判しています。

ポーリーヌも無能な夫には嫌悪感しかありませんし、エルバ島からは「私たちは性格があわない。このまま別居しましょう」という手紙をカミッロに送っていました。
しかし皇妹という称号を失った今、ボルゲーゼ大公妃としての地位と財産は絶対につなぎとめねばなりません。

1816年、両者はとりあえず歩みより、離婚は回避。ポーリーヌは莫大な財産と宝石の一部を所持することが認められました。

それまではフランスに暮らしていたポーリーヌも、もはやそこに居場所はありません。
改めてローマ貴族として君臨しなければならない、と張り切ったポーリーヌは、連日連夜派手なパーティを繰り広げます。彼女は自らの美貌、兄の戴冠式でも身につけていた宝石、そしてあのカノーヴァのヴィーナス像を来客に披露することを楽しみにしていました。

その一方で、絶海の孤島セント・ヘレナにいる兄を忘れたわけではありません。

ポーリーヌはその魅力で、兄を捕らえているイギリスの政治家貴族たちを魅了し、悲惨な待遇改善のために運動をしていたのです。
ナポレオンを憎んでいるイギリス人たちも、彼女の前ではその魅力に屈服するほかありません。
かつては宝石を、そして今度は「ヨーロッパの宝石」と讃えられた美貌で、兄を救おうとしました。

しかし、その願いは届きませんでした。
セント・ヘレナから兄が酷い病に苦しんでいるという知らせを聞くのです。
絶望の底に落とされるポーリーヌ。陽気で勝ち気な性格も弱まり、輝くような美貌も衰えてしまいます。

すっかり痩せて頰の肉も落ちたポーリーヌは、あんなに誇りに思っていたヴィーナス像を来客に見せることすらやめました。
全盛期の完璧なスタイルと、今の衰えた肉体を、来客が比べてあざ笑うのではないか。
彼女はそう疑うようになったのです。

その頃、ポーリーヌの努力はようやく実りました。
ナポレオンの母レティツィアと叔父の一人は、迷信にのめり込んでナポレオンがセント・ヘレナから脱出したと信じ込み、彼に適切な医師を送ることを妨害していたのです。
ポーリーヌと弟のルイはやっとこの勘違いを撤回させることに成功しました。

セント・ヘレナを訪れた医師は、ナポレオンに「妹君がいつでもセント・ヘレナに来れる」と伝えました。
が、ナポレオンは、この惨めな姿を妹に見せるわけにはいかないと断ります。

「妹はローマにいさせなくてはならない。あの子は今でも若く、美しいかね?」
「えぇ、ポーリーヌ様はいまだ美しい方です」
「それはいい。あれは相変わらず着る服だのパーティだの、そういうことだけを考えていればいいのだ」

実のところポーリーヌは、今やドレスやパーティよりも、兄の健康が気がかりでなりませんでした。
セント・ヘレナから兄がいよいよ死に瀕しているという手紙を受け取ったポーリーヌは、イギリス政府に兄の待遇改善を求める手紙を書き、ロンドンに乗り込もうとします。

しかしポーリーヌがロンドンに乗り込む前、1821年5月、ナポレオンはその波乱の生涯を終えてしまいます。享年51。

「イギリス人は人殺しよ!」
ポーリーヌはイギリスへの敵意を剥き出しにし、復讐を誓います。
それ以上に彼女の心を占めていたのは、兄に二度と会えないという絶望感でした。
兄のことを思い生きてきた彼女は、目標を失ってしまったのです。

ナポレオンという人物が亡くなると、ポーリーヌらボナパルト一族への監視もなくなりました。
他の一族がアメリカに渡る等、新天地を求める中でポーリーヌはヨーロッパに残りました。彼女は自邸で残された一族の人々や来客を歓迎し続けました。

時代は移り変わります。
ファッションリーダーだったポーリーヌも、いつの間にか流行遅れになっていました。
彼女が若い頃流行した「体のラインがあらわになるドレス」も、今では悪趣味なものでしかありません。

20年間続けてきた人前で入浴する習慣は、かつてはセクシーで挑発的なものとして受け止められましたが、今では変人の行為とみなされました。
彼女はまだ美貌や気品を保ち、人々を魅了していましたが、歳月、病、そして愛する者たちの死は、その輝きを確実に蝕んでいたのです。

1825年、ポーリーヌは夫カミッロとようやく和解し、同居することになります。
しかし肝臓癌が肉体を蝕んでいました。

病に苦しめられた彼女は、己の死を悟ると、自らの遺品をどう分配するか口述筆記させ、防腐処理した遺体が身につける衣装や装身具を出し、鏡で己の姿を確認しました。
最期まで周囲が驚くほど優雅な態度を取り、1825年6月9日、44才の生涯を終えます。

皇帝が心配し、かつ賞賛し続けた「ヨーロッパ一の美女」は、その最期まで美しく演出したのでした。

 

彼女ほど自分の美貌を楽しんだ人はいない

結局、ポーリーヌ・ボナパルトって何なのだ?
そんなツッコミがあると思います。

マリー・アントワネットのような没落後の悲劇にも遭わず、最期までエレガントであった人生。
綺麗なドレスと宝石と、パーティにイケメンの愛人だらけという、まさしくセレブの生き方。
その一方で兄への献身的な愛情は高い人気を得ているそうです。

「彼女ほど自分の美貌を楽しんだ人はいない」という評価がぴったりですね。

そして彼女の人生から見えるナポレオン像。
そこにいるのは偉大な皇帝や冷酷な軍人というよりも、心配性で今風にいえばシスコン気味の兄という姿です。

「ポーリーヌは着る服だのパーティだの、そういうことだけを考えていればいいのだ」

この言葉からは兄の妹への深い愛情がうかがえます。
妙な噂が立ったのも納得してしまいます。

献身はそれなりにあるけれど、貞節や謙虚、そんな淑女としてのふるまいからは遠いポーリーヌ。
それでも彼女は気ままに美しく振る舞い、兄はじめ多くの男性たちの心をつかみました。

カノーヴァのヴィーナス像とともに、そんな彼女の人生は今でも輝きを保っているのです。

文:小檜山青

ポーリーヌ像/wikipediaより引用

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【参考文献】

 





1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 史実の真田幸村とは?


3位 最上義光 名将の証明


4位 ホントは熱い!徳川家康


5位 意外と優しい!? 織田信長さん


6位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


7位 毛利元就の中国制覇物語


8位 伊達政宗さんは史実も最高!


9位 最期は切ない豊臣秀吉


10位 史実の井伊直虎とは?

 

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