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週刊武春 中国

なぜ中国王朝では人類史に残るような「大量死」が多発したのか?

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先日、以下のような記事を書かせていただきました。

『三国志』時代はとにかく人が死にすぎ! 実に7割もの人口減で漢民族の滅亡危機だった!?

かいつまんで話をまとめますと、魏呉蜀・三国動乱の時代を経て中国全体の人口は激減。
西暦140年の段階で5,000万人だったのが1,600万人にまで減り、少なくとも3,400万人が亡くなった――というものです。

記事の公開後、読者様からは「驚いた」とか「なんでそんな急激に人口が減るのよ」という反響をいただきましたが、実は中国史において人口が激減したのは三国志時代だけではありません。

上掲の記事でも参照させていただきました英語版Wikipediaの「人為的な要因による死者数ランキング」、特に戦争部門を国別でみてみると、圧倒的に中国が多いことがわかります。

2位 太平天国の乱(19世紀・清)
3位 三国時代の争乱(2-3世紀・後漢から三国)
6位 明末清初の動乱(17世紀・明から清)
7位 回民蜂起(19世紀・清)
8位 安史の乱(8世紀・唐)
11位 国共内戦(20世紀・中華民国)
15位 黄巾の乱(2−3世紀・後漢)

これを見たらどうしたって「中国大陸は怖いなぁ」という印象は否めませんし、時には「中国人は残酷だから人をたくさん死なせるんだ!」という極論に陥ることもあるかもしれません。

が、コトはそう単純ではありません。
歴史とは記録に残ったから歴史になるのであり、各国によってその事情は異なります。人口の多寡もまた同じです。

そこで本稿では、中国史において急激な人口減が多発する理由を挙げてみました。

 

理由①:人口が多い

ひとつめの理由はシンプルです。

「動乱の現場にたくさん人がいたから」

中国大陸というのは人口が増えやすい条件が揃っています。
黄河と長江という水源、そしてたっぷりと栄養分を含む広大で肥沃な大地です。

黄河の上流には黄土高原があります。
黄土は日本にまで飛来する黄砂の発生源でもありますが、ミネラル分が豊富に含まれており、その黄土を含んだ水が黄河流域を潤すため、農作物も豊富に穫れるわけです。
気候も温暖な地域が大半であり、人口の増加条件が整っています。

これがたとえばオーストラリア大陸ですと、土中の栄養分が不足しているため、農耕には適していません。
そのため人口密度は中国大陸と比較すると極めて低くなっています。

先の記事でも取り上げた三国時代の以前、漢王朝の安定した統治下では人口は順調に増え続けておりました。
それが国を揺るがす大騒乱で多くが死亡……と、元の人口が多くなければ大量死も発生しないわけです。

上記ランキングですと「太平天国の乱」と「回民蜂起」はともに清時代の出来事です。

清代はトウモロコシやサツマイモ等の農作物がもたらされ、爆発的に人口が増えました。
それまでの時代より人口も増えていたため、騒乱が起きれば、被害総数もまた飛躍的に伸びてしまうのです。

 

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理由②:人口の記録が残されている

前回の記事で、
【漢代140年の時点で世帯数はおよそ970万、人口はおよそ5,000万人いたとされます。それが280年の調査では、およそ250万世帯から人口1600万人にまで減少しました】
と、記しました。
何故これがわかるのか?
というと、国が記録を残したからです。

文字で記録を残すというのは現代人からすればごく当たり前のことですが、過去を大きく遡るのはそう簡単なことではありません。
この時代において既に記録を残すことが当たり前となっていて、さらに人口を数えることができるだけの行政組織があったからこそ、人口減が把握できるのです。

 

理由③:異民族の侵攻を受けやすい

中国大陸には万里の長城があります。
残念ながらこの壁は敵の侵入を防ぎ切れたわけではありません(そもそも万里の長城は遊牧民の羊侵入を防ぐため――という説はさておき)。

四方を海に囲まれた日本のような国とは違って、中国大陸はしばしば異民族の侵攻を受け、大きな被害を受けました。

安史の乱、明末清初がその典型です。

チンギス・カンやティムールの襲来は、どの地域でも歴史上屈指の悪夢のような侵攻として記憶されています。
中国史の場合、数百年周期でそれと同レベルの侵攻が発生しているのです。前述の通り肥沃で資源が豊富なだけに、何度も標的にされてしまいました。

要するに、国家の大きさと人口に比例して、攻め込まれる回数も、戦乱の犠牲者も多くなるということです。

例えばイギリスの薔薇戦争は、権力をめぐる内乱が続いたにも関わらず、ヨーロッパ大陸を巻き込んだ戦争と比較すると死者数は俄然少なくなります。
だからといってイギリス人はフランス人より優しい、というわけではありません。

三国時代はじめ中国史には激しい人口激減の局面が何度も訪れてはおりますが、だからと言って「中国は残酷な国だ!」という結論に結びつけるのは極論でありましょう。

 

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「桃源郷」とは何だろう?

三国時代が終わったあとの、晋の時代。
詩人の陶淵明は『桃花源記』という作品を残しました。

とある猟師が道に迷い、桃の花が咲き乱れる小さな里にたどりつきました。
そこは秦の時代から戦乱を逃れた人々が隠れ住む理想郷。
「桃源郷」の由来ともなったこの作品を改めて読んでみて、人々の乱世へのおそれを改めて感じました。
酒の流れる川があるとか、美女が音楽を奏でているとか、そんなものはなく、ただ平和である。
それが陶淵明にとっての理想郷でした。

昔読んだ時は特に何も思わなかったのですが、今考えてみると、平穏な暮らしを望む陶淵明の気持ちがわかった気がします。
それだけ生きるのが大変であれば、ともかく平穏であればいいと願うのも納得できます。

平和な世こそ理想郷——戦乱の世を生き抜いた陶淵明ならではの感慨が、そこにはあったのです。

文:小檜山青




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【参考文献】

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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