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保科正之/wikipediaより引用

江戸時代 週刊武春

保科正之カンペキ人生唯一の汚点 嫉妬に狂った妻が毒を盛り、死亡したのは彼女の実娘

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保科正之といえば、日本史でも有数の名君とされています。

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経済的手腕を見ても、人格的にも、出自を見ても、揺るぎようのないその評価。

たしかに江戸期No.1候補の名君でありましょうが、しかし、そんな彼にも無念としか言いようのない悲劇が襲いかかっております。
しかも、女難であり、彼の心に深い傷を残しました。

一体何が起こったのでしょう。

 

「婦人女子の言、一切聞くべからず」と言い残すほどの

正之が残したとして知られる「家訓十五ヶ条」。
彼の子孫にあたる松平容保が、会津守護職を泣く泣く引き受ける際に持ち出されるこの家訓に、こんな一条があります。

・婦人女子の言、一切聞くべからず

この一条を書くことに至ったのは、正之がある悲劇に直面したからでして。

実の娘が、その母親に毒殺されることになってしまったという、まさに悲劇。
それは正室と側室同士が争ったために、起こってしまったのでした。

 

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正之の妻子

正之の正室は、菊姫という女性でした。
彼女との間には男児が一人授かったものの、夭折してしまいます。
菊姫自身も早くに亡くなり、継室となったのは、お万の方でした。

お万は、正之にとっては異母姉にあたる東福門院和子に仕えていました。
夫婦仲はよかったのでしょう。
彼女は正之との間に4男5女を授かります。

正之には他に、牛田氏、沖氏、沢井氏からの側室もおりました。
彼女たちにとって関心があるのは、我が子がどんな道を歩むか?
男児ならばもちろん藩主にしたいと願いますし、女児でもできるだけ格式の高い家に嫁いで欲しいと願うものです。

しかも正之は、将軍・家光の異母弟です。
その姫たちとなれば、縁談はいくつも持ち込まれるワケで。
当然、格式のある大名家に嫁ぎますが、これが悲劇の引き金となりました。

 

あの女の娘が格上の大名家に嫁ぐなんて!

お万の産んだ媛姫は、上杉景勝の孫・綱勝に嫁ぐことになりました。

その三年後。
今度は牛田氏の娘・松姫が加賀藩主・前田綱紀に嫁ぐこととなります。

大名家の縁談は将軍の許可なくしては決められないもので、決まったからには仕方の無いことなのですが……。
これに怒り心頭となったのがお万です。

自分の娘が嫁いだ上杉家は、謙信公以前からの超名門とはいえ、関ヶ原を機に120万石の石高を四分の一まで減らされ、30万石に過ぎません。
一方、側室の娘である松姫が、よりにもよって加賀百万石とは!
中宮である東福門院にも仕えていた、プライドの高いお万の怒りはおさまりません。

ただ、そうは言っても、この縁談を持ち込んだ将軍家に、不満をぶつけるわけにもいきません。

怒りの矛先は、松姫に向けられました。

 

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祝宴のはずが一転惨劇に

松姫の婚礼は、万治元年(1658年)、7月26日と決まりました。

お万は、江戸の会津藩邸で祝宴を開くことにしました。
上杉家に嫁いでいた媛姫も里返りをして、異母妹を祝うこの席に出席していました。

姉妹のもとに御膳が運ばれてきます。
松姫の前に御膳が置かれようとした時、胸騒ぎを覚えた松姫付きの老女が止めました。

「松姫様、姉上より先に箸をつけるとはもってのほかです」
「そなたの言う通りじゃ。姉上、先にお召し上がりくだされ」

松姫の前に置かれるはずであった御膳は、媛姫の席に置かれました。
このときお万の顔はひきつったかもしれません。

しかし彼女は何も言えず、媛姫が膳に箸を付けるのを見守るしかありませんでした。

その晩、米沢藩邸に戻った媛姫の身に異変が起こりました。
激しい腹痛におそわれ、二日後には急死してしまったのです。

媛姫はまだ18才。
彼女の身に一体何が起こったのでしょうか。

 

実の娘を毒殺してしまったお万

ことの真相を探るうちに、おそろしい事実が判明しました。

側室の娘が格上の大名家に嫁ぐことに怒ったお万は、祝宴の膳にひそかに毒を盛ったのです。

しかし松姫付きの老女の機転によって、毒入りの膳は先に媛姫へ。
そしてそれを知らぬうちに、媛姫は口をつけてしまったと。

お万の奸計は、なんと実の娘を殺してしまったのでした。

正之の受けた衝撃、そして怒りと喪失感は大きいものでした。
正之はこの毒殺事件に関わったものを厳しく処罰したものの、首謀者のお万だけはそうできませんせした。
二代目藩主の生母を罰したとなれば、影響がのちのちまで及ぶからでしょう。

しかし、その御家訓にはシッカリと
「婦人女子の言、一切聞くべからず」
という一条が加えられたのです。

政治の場から女性を遠ざけ、子孫が女がらみで悲劇にあわないようにという、彼なりの思いがこめられた一条でした。

保科正之は米沢藩が断絶しかけた際に奔走し、存続に力を尽くしました。
正之からしてみれば、上杉家に申し訳なかったという気持ちがあったのかもしれません。

この毒殺事件の顛末は後世の創作ではないかと思われる部分もある、と言われております。
しかし、広く信じられた話ではあります。

完全無欠ともいえる、保科正之の人生における唯一の汚点。
まるでドラマのような展開でもあります。

いくら本人が公明正大にふるまったところで、こうした悲劇が起こりえるのかと思うと、虚しくなる話でもありますし、過ぎた嫉妬心の危険を感じる逸話でもあります。

文:小檜山青




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【参考文献】

 

-江戸時代, 週刊武春

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