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阪鶴鉄道で監査役を務めていた頃の小林一三/Wikipediaより引用

わろてんか 週刊武春

小林一三の生涯84年をスッキリ解説!わろてんか伊能栞(高橋一生)のモデル

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関西産業界を牽引した「今太閤」小林一三

NHKの朝ドラ『わろてんか』で注目の伊能栞(高橋一生さん)

今、最も旬の俳優である高橋一生さんがキャスティングされた時点でざわめきが起き、放送前から「伊能栞(しおり)のモデルは誰なのか?」と話題になっておりました。

結論から申しますと、伊能の事業に関するモデルは小林一三(いちぞう)と目されています。
関西産業界においてレジェンドとも言える経済界の巨人であり、芸能関係にもビジネスを広げたヤリ手。

ヒロインと接点のあまりない人物で、かつ関西にとって恩人とも言える人物を大きく扱うのは『あさが来た』の五代友厚を彷彿とさせますね。
つまり本作では、ヒロインの生き様だけではなく、関西のエンタメ産業そのものも描いていきたい――そんな大きな展望も感じられます。

「今太閤」とも称された、小林一三の人生を振り返ってみましょう。

 

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生まれてスグに母が亡くなり、大叔父に育てられ

1873年(明治6年)1月3日、小林一三は山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)で誕生しました。

母・菊野はいわゆる「家つき娘」で、父・甚八は婿養子。
菊野は一三を生んでから、一年もしないうちに夭折してしまいます。

この時代、婿入り先で妻が亡くなった場合、一般的に婿が家に留まることはできません。甚八もご多分に漏れず、実家へ戻されました。

戻された甚八は、今度は酒造業者の田邊家に婿入りするのですが、このとき幼い一三は姉と共に小林家に残されます。なかなか複雑な家庭環境で、祖父母も他界していたため、彼は大叔父のもとで育てられるのです。

なお、田邊家に入った父は四男三女をもうけ、一三にとっての異母弟たちも錚々たる経歴を持つことになります。

長男:七六 衆議院議員、中央電力、姫川電力、日本軽金属等の重役
二男:宗英 後楽園スタヂアム、新東宝映画社長
三男:加多丸 東宝社長

一三は生涯を通じ、父との交流は少ないものでしたが、異母弟たちとは活発に通じあっておりました。

 

韮崎の「ぼうさん」からキザな慶應生となる

学業優秀、気前もよく、喧嘩も強い――韮崎で少年時代を過ごした一三は、小説の主人公のような存在でした。
地元では畏敬の念を込めつつ「ぼうさん」と呼ばれております。

1888年(明治21年)、一三は上京して慶應義塾に進むことにしました。
このとき僅か15才。彼は東京で、生まれて初めて海を見、そして浅草で「ジンタ」の音楽と出会います。

これが彼の人生に強く影響を与えます。
「ジンタ」とは、明治時代中期の日本に生まれた民間オーケストラ「市中音楽隊」のこと。
彼は浅草に通い詰め、感動の余り涙がにじんでくるほどこの音楽に聴き惚れていました。エンタメの力を実感した原点でしょう。

慶應の一三は、キザで、実家から仕送りをたっぷりもらう裕福な青年でした。
遊んでばかりではなく、多芸多才であり、郷里の山梨日日新聞では「練絲痕(れんしこん)」という連載小説を執筆。
この作品は『花子とアン』でもおなじみの、東洋英和女学校校長の夫が殺害された事件を扱ったものでした。

あまりの出来映えに、警察まで「これは事件を知る者が書いたのではないか?」と疑ったほど。

一三は小説家として歩んでも大成したのではないか。
当時の人はそんな風に思っていたそうです。

 

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ぱっとしない銀行員時代

15才から19才という青年期を慶應で過ごした一三。
1892年(明治25年)になると、慶應生を多数採用している三井銀行に入行します。
ここで14年間勤めるのですが、大して出世はしませんでした。

ただし、経済界の大物と接する機会は、彼にとってもよい刺激となったのでしょう。
一三は銀行員をしながら、小説を書き、遊里にも時には脚を運び、観劇を楽しむような、悠々自適の暮らしを送っていました。

大阪支店、名古屋支店、再度大阪支店、そして東京本店と、何度か転勤も経験しました。この間、1900年(明治33年)、27才の時に、9才下の幸という女性と結婚します。

最後の勤務地となった東京本店での仕事は退屈極まりないものでした。

食うには困らないだけの金は手に入るものの、全く面白くもなく、出世とも縁遠いキャリアに嫌気がさしてしまう状況。
たまたま株で臨時収入がった一三は、そろそろこんな生活はやめよう!と思い始めるのです。

34才になっていた一三に、渡りに船のような話が舞い込みます。
日本初の証券会社を設立しないか、という知人の誘いでした。

 

失業から鉄道業界へ

1907年(明治40年)、一三は妻子を連れて大阪に向かいました。
この頃、日露戦争後の好景気バブルがはじけ、恐慌が始まっておりました。

もはや証券会社設立どころではなく、妻子を抱えて失業者となってしまった一三。
そこに「阪鶴鉄道」監査役を務めてはどうか?という誘いが舞い込みます。
一も二もなく、これに応じた一三。「阪鶴鉄道」は国有化されて解散することとなり、一三は清算から関わりました。

国有化で解散することになった「阪鶴鉄道」の関係者は、「箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)」を設立しようと計画していました。

しかし、恐慌でそれどころではなくなり、早い内に断念したほうがよいという意見が出るほど、経済環境は悪化。
一三はここである計画を思いつきます。

「住宅地も買い占めて、開通後に売れば利益が出るのではないか?」

鉄道の沿線には、理想的な住宅地が広がっており、しかも土地は安い。
一三は「箕面有馬電気軌道」を何としても設立しようと決めます。さらに、周囲の勧めによってこの経営責任者となる決意も固めました。

こうして一三の独創的な鉄道事業が幕を開けたのです。

 

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宝塚をエンタメの聖地に

「あんな田舎に鉄道引いてどないしますのや」

そんな風に陰口も叩かれていた「箕面有馬電気軌道」。
沿線の土地を賑やかなものとし、乗客を増加させることは死活問題でした。
一三は住宅をローンで売り出す等工夫を凝らしていましたが、もっと素早い手段が求められます。

通勤客だけではなく、沿線の目的地に人を運ぶのならば、何か娯楽施設を作ればよいのではないだろうか?

一三はそう考え、まず「箕面動物園」を開業。当時としては日本一の規模を誇る動物園でした。
関西では京都にしか動物園がなかったため、かなり話題となって来場者も上々……。
しかしだんだんと減り始め、わずか六年目に閉園となりました。

箕面で失敗した一三は、開発費を宝塚に絞ることにしました。

彼が考えたのが、温泉型リゾート施設「宝塚新温泉」。
宝塚には昔から温泉がありましたが、そうした伝統的な施設だけではなく、大理石やシャンデリアで飾り立てたリゾート施設を作ることにしたのです。

当時東洋一と呼ばれた歌劇場、ダンスホール、ホテル、スポーツ施設、ゴルフ場。まさに究極のリゾート施設です。

1923年(大正12年)には大火災に見舞われるものの、一三はくじけません。
それどころか、これをリニューアルの好機ととらえました。




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翌年には「宝塚大劇場」がオープン。
日本だけではなく、世界各地から名優が招待され、華々しい上演が連日行われたのでした。

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