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ジョージ三世/Wikipediaより引用

イギリス 週刊武春

英国のジョージ三世が哀れ過ぎ……ゲスの極み王だらけのハノーヴァー朝って?

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生真面目でお堅い英国女王ヴィクトリアとその夫・アルバート。

彼らの「子・孫・ひ孫」がいささかぶっ飛んだ性格で、奔放な暮らしを楽しんだ――と先日の記事で報じたところ、「いやいやハノーヴァー朝に比べたらマシで、むしろヴィクトリア女王たちが例外なのでは?」というご指摘を頂戴いたしました。

ヴィクトリア女王の「子・孫・ひ孫」が奔放過ぎて英国王室ガッタガタ!?

確かに、上記の記事でも軽く触れましたように、ハノーヴァー朝は唯一の例外を除いてロクデモナイ連中ばかりでした。

例外とはジョージ三世(1738-1820年)。
本人がデキた人物であったのに対し、彼の祖父や父、さらには多くの子供たちはどうしようもなく……と、そんな簡単に済ませられる問題ではないかもしれません。

ジョージ三世は、子供たちに悩まされた挙げ句、ついには正気を保つことができなくなり、政務執行すら不可能となってしまうのです。
いったい何が起きていたのでしょうか。

 

誰が言ったか英国紳士 歴史的にはヒドかった

英国紳士という言葉があります。
礼儀正しく控えめで、スーツを着こなしたイメージです。

しかし、こうした紳士像はわりと最近のもの、というか、お堅いヴィウトリア朝時代(1837年-1901年)に作られたものです。
それまでのイギリスの人物像は、あまりお行儀のよろしくないものでした。

例えば17-18世紀。当時、上流階級の青年は、学問の総仕上げとして「グランドツアー」という大陸旅行を行いました。

名目上は文化や歴史を学ぶ旅でしたが、これが現地の人からするとなかなか迷惑なものでして。
行く先々で酔っ払ったり、売春宿に入り浸ったり、エロ本を買いあさったり……羽目を外し過ぎる若者が続出したのです。
まぁ、血気盛んな若者がぱーっと旅に出るわけですからね。

国民の模範たる英国王たちも人格的に問題がありました。

それが1714年から1901年まで続いたハノーヴァー朝の君主たち。前述の通り「一人(ジョージ三世)以外、全員ダメな人」なのです。

愛人を作り遊び惚け、人格はゲス。
政治的には無能。
不愉快極まりない粗野な連中として、国民から嫌われていた――と絵に描いたようなボンクラ王たちばかりで、同時期の江戸幕府を考えると徳川将軍ってかなりマトモかもしれません(子供を55人作った徳川家斉は別として)。

では、ハノーヴァー朝君主たち、ジョージ一世から四世までをザックリ見てみましょう。

ジョージ一世:がりがりに痩せた女性と肥満体の女性二人を愛人にする。赤ら顔で目が突きだし、英語は話せない(ドイツ生まれでドイツ語やフランス語等はOK)。馬、女、食事にしか関心がない。最初の妻を幽閉した
ジョージ二世:粗野で無能。美しく聡明な王妃は人気者で有能。国民に「あの馬鹿王は、王妃様が素晴らしいからやっていけるようなもんだ」と囁かれる
ジョージ三世:唯一まとも
ジョージ四世:離婚騒動で世間に嫌われる。放蕩ばかりの遊び好き。崩御後は新聞に「最低のゲス王だった」と書かれる

いかがでしょう。ゲスの極み王様たちばかりではありませんか?

 

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仲睦まじき夫妻は9男6女に恵まれたが……

唯一の例外がジョージ三世。
彼はジョージ二世の孫にあたります。

放蕩を好み、国民から不人気だった祖父や父のようにはなりたくない――。

そう考えたジョージ三世は、22才で即位すると、若い頃から交際していた恋人と別れます。
彼女は貴族の娘に過ぎず、結婚相手としては身分が低かったのです。

そしてシャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ王女を妃として迎えると、彼女一人を愛し抜き、夫妻は9男6女に恵まれました。

勤勉で夫婦仲にも恵まれた国王夫妻。ジョージ三世は子供たちを誘惑から守ろうとしました。
しかし、期待が大きすぎたのか、あるいは厳しすぎたのか。

全員ゲスな成長を遂げてしまうのです。
これまたリストで確認して参りましょう。

皇太子ジョージ(のちのジョージ四世):ゲス(詳細後述)
フレデリック:愛人が詐欺行為をしていたと発覚し、大スキャンダルに
クラレンス公ウィリアム(のちのウィリアム四世):13才で女官二人を誘惑する。女優ドロテア・ジョーダンと交際し、10人の庶子をもうける。海軍人で、ネルソン提督とも顔見知り
カンバーランド公アーネスト:強姦未遂、従僕殺害を犯したチンピラ王子。実妹ソフィアとの間に隠し子を作ったという噂も
ケント公エドワード(ヴィクトリア女王の父):フランス人の愛人と30年間同棲
サセックス公オーガスタス:旅行先のイタリアで勝手に結婚。比較的マシな性格でヴィクトリア女王に慕われた
ケンブリッジ公アドルファス:ハノーファーで軍人となる。比較的マシ

成長した王子たちはこんな感じです。

完全に子育て失敗ですわ。
やたらとオラついた不良王子ばかりでして、暴力沙汰や下劣な言動でしょっちゅう問題を起こしていました。

では王女たちはどうでしょうか。

 

姫たちの将来もなかなかキッツいことになってます

ジョージ三世は、王女たちの嫁ぎ先を厳選しました。

彼の脳裏には苦い記憶がありました。

妹キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ。
彼女は、嫁ぎ先のデンマークで侍医と密通し、失脚させられるという大スキャンダルを起こしてしまいます。

「妹のような恥さらしになってはならん」
父としてこの目の黒いうちに決めてやろうと考えた、その結果、娘たちは……。

シャーロット:ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世。ハッピーエンド
オーガスタ:嫁ぎ先を厳選し過ぎて適齢期を逃し、生涯独身
エリザベス:イケメンのオーストリア将校に一目惚れ、反対を押し切って勝手に結婚。「ありのままの姿見せるのよ~」とレリゴー♪に成功した
メアリー:恋をした男性と結婚できないまま、相手は戦死してしまう。のちに従兄と結婚
ソフィア:一生独身。兄アーネストと近親相姦関係にあったとの噂あり。家臣と隠し子を作ったという説も
アミーリア:生涯独身。家臣と密通説もある

これまた、なかなか大変なことになっています。

 

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皇太子ジョージは2つの法を犯してしまう

ジョージ三世は質素で庶民的な趣味を愛していました。

素朴な趣味を持つ彼を人々は「農夫王」とからかいをこめて呼びましたが、この名はやがて「質素な趣味を持つ、善良ないいひと」という意味がこめられるようになります。

質素な食事や絵のない額縁など、倹約っぷりを描かれたジョージ三世/Wikipediaより引用

なにせ、皇太子のジョージはアホ丸出しのパリピです。
連日連夜どんちゃん騒ぎで金を湯水のように浪費し、愛人やファッションにつぎこみました。

「あの馬鹿王子の贅沢三昧と比べたら、国王陛下はムチャクチャを善人だ……」
息子とは違い、ジョージ三世はコツコツと倹約に励んでおりました。
なんとまぁよい王様なんだと、世間は思うようになったのです。

とはいえ、女遊びも贅沢も着道楽も、まだ許せる範囲でした。

1785年、皇太子ジョージは最大の愚行を犯します。
離婚歴がある未亡人、マリア・フィッツハーバート夫人と極秘入籍してしまったのです。

彼女は敬虔なカトリック教徒であり、愛人にしたいという皇太子ジョージの願いを頑としてはねのけ続けたため、皇太子ジョージが折れたのでした。

皇太子ジョージはこのとき、二つの法を犯しました。

・1701年制定 カトリック教徒との結婚を禁じた「王位継承法」
・1772年制定 25才未満の王族が君主の許可無く結婚することを禁じた「王室結婚令」

後者の「王室結婚令」は、ジョージ三世が、我が子が勝手に結婚しないように制定したものでした(2013年廃止)。
しかし皇太子もサセックス公オーガスタスもエリザベスもこれを無視して結婚しています。

結婚できないなら愛人を作ればいい、と開き直る者も多数。王子ジョージ三世の努力とは、一体何だったのでしょう……。

こうした我が子たちの度重なる愚行に精神がすり切れてしまったのか。
1788年、ジョージ三世の身に異変が起こります。

 

胃がもたれ、息は苦しく、視力は衰え、聴力も低下

始まりは、顎の痛みでした。
激痛は日に日に悪化し、ジョージ三世は一睡もできなくなります。

胃がもたれ、息は苦しく、視力は衰え、聴力も低下。
病の苦痛に伴って精神も異常をきたしてしまいました。

うつろな目で口から泡を吹き、祖先や木々にぶつぶつと意味不明なことをつぶやき続けるジョージ三世。王妃シャーロットは怯え、侍医たちもさじを投げました。

やがて侍医のウィリスという男が、荒療治を試し始めます。
王を拘束衣で縛り、悪い体液を出すという名目でわざと脚に水疱を作りました。
この治療は大変な苦痛を伴うものでした。

「おいたわしや、国王陛下。心労がたたったのでしょうか」
現在では“ポルフィリン症”とも“ヒ素中毒”との説もあるジョージ三世の病気ですが、当時は心痛のあまり狂気に陥ったのではないか、とささやかれました。
なにせ彼には、心痛の種がいくつもありました。

アメリカ独立戦争での手痛い敗北。
隣国フランスの不穏な状況。
そして、息子たちの放蕩。

国政に危機が迫って皇太子ジョージが摂政となり、ジョージ三世は回復と病状の悪化を繰り返しました。
その間にも、フランス革命、ナポレオン戦争と、イギリスは激動の時代を迎えるのですから、なんという不幸。
まさに、もうやめて彼のライフはゼロよ状態です。

このときイギリスは、小ピットらの名宰相、ネルソン提督やウェリントン公といった名将の働きもあり、難しい局面を乗り切り、勝利をおさめました。
しかし、ジョージ三世と彼の家族は厳しい歳月を送ることになるのです。

王子シャーロットは看病に疲れ切りました。
こんな状況では王女たちの嫁ぎ先を探すどころではなく、何人かの王女らは独身のまま過ごすことになります。
皇太子ジョージはじめ、その他の王子たちはトラブルを引き起こし続けました。

そして1820年。
ジョージ三世は病と親不孝息子に苦しめられた長い人生を終えます。

まっとうで品行方正なイギリス王室――。
その登場は、ジョージ三世の不出来な息子二人の短い治世のあと、1837年にヴィクトリア女王が即位するまで待たねばならないのでした。

文:小檜山青

大英帝国全盛期の象徴ヴィクトリア女王ってどんな人?その人物像に迫る




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【参考文献】

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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