ナポレオン戦争時代の軍人は、フランスにおいて大変人気があります。
日本における戦国時代や幕末維新の人気武将(侍)のようなものでしょう。
その中でも、とりわけ人気を博しているのがミシェル・ネイ(1769-1815年)です。
燃えるような赤毛。
「勇者の中の勇者」と呼ばれた人物像。
彼の銅像はパリでもっとも素晴らしいと評価されているとか。

ミシェル・ネイ元帥の銅像 photo by wikipediaより引用
/こんなにも人気と実力を備えていたのに、彼は銃殺という最期を遂げてしまいます。
あるいは、悲劇的な最期だからこその人気かもしれません。
一体、彼はどんな罪を犯したのでしょう。
樽職人の息子から元帥へ
1769年、樽職人のネイ家に、ミシェルという男の子が生まれました。
場所はロレーヌ地方のザールルイ。
現在はドイツにある町ですが当時はフランス領であり、国境地帯だけに軍人も多く、ミシェルの父も従軍経験がありました。
父から従軍経験を聞いて育ったネイは、次第に戦争に憧れるようになります。
彼は血の気が多く、燃えるような赤毛と澄んだ青い瞳を持つ、大柄な青年に育ちました。
このままでは、息子は軍人になってしまう。
父は焦りました。
革命前のフランスでは、平民出身の軍人に出世ルートはありません。
かつて自分が味わった苦労と悔しさを息子に味会わせないためにも、父は息子に堅気の道を歩ませようとします。
父は息子を学校に通わせ、公証人事務所で働かせました。
しかしデスクワークを嫌うネイはすぐにやめてしまい、肉体労働を始めてしまいます。
そして19才の年には、とうとう軍隊に入ってしまうのです。
体格がよく、血気にはやるネイは、まさに軍人向きでした。
それから数年後、フランス革命が起こります。
平民の息子であろうと、実力さえあれば将軍となれる時代の到来でした。
メキメキと力を発揮したネイは、あっという間に出世していきます。
どちらかというと猛将タイプの彼は、副官のジョミニを重用。後に『戦争概論』を記すジェミニは、ネイの戦略をよく助けました。
こうして順調に出世を遂げたネイは、1804年にナポレオンが皇帝に即位すると、元帥に任命されるのです。
樽職人の息子が元帥に——ネイはまさにフランス第一帝政の輝く星でした。
ルイ18世が戻って来た!?
勇猛果敢、部下を大切にするネイ。
そんな彼の勇気が最も輝くのは、撤退戦でした。
敵の追撃を受ける撤退戦は危険なものです。
そんな局面でも、最後まで部下を見捨てずに戦い抜くネイは、まさに「勇者の中の勇者」でした。
1814年。
無敵の帝王であったナポレオンが、敗北に敗北を重ね、ついに帝位を追われました。
フォンテーヌブロー城でナポレオンに退位勧告をつきつけたのは、他ならぬネイでした。
ナポレオンとともに戦ってきた部下たちも、皆疲弊しきっていました。
ランヌ、ベシェールといった元帥らも、果敢に戦った末に戦死を遂げています。
ネイにとってナポレオンは大恩人ではあるけれども、もはやこうなっては仕方ありません。ナポレオンはそれを受け入れ、エルバ島へと去りました。
革命以来イギリスに亡命していた王族が、やっとフランスに戻りました。
そして、王弟アルトワ伯(のちのシャルル10世)の帰還パレードで、ネイは唖然としてしまいます。
家の窓からは、ブルボン家のシンボルカラーである白い布が掲げられ、熱狂的な歓声を送っていたのです。
かつてフランスの人々は王族を嫌い、王と王妃らを処刑し、その子供たちを幽閉し虐待しました。
王族なんて殺したいほど憎んでいたはずなのに、掌を返して大喜びしているのです。
一体どういうことなのだろう。
革命のおかげで大出世を遂げ、ナポレオンによって栄光を味わってきたネイにとって、市民たちの反応は理解しがたいものでした。
そしてついに、王その人が戻ってきます。
帰ってきたルイ18世は、魅力的な人物であったとはあまり思えません。
59才でこってりと太り、緊張感に欠けた人。
ナポレオンの家臣であったタレーランは、ルイ18世について「嘘つき、エゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず」と、極めて厳しい評価を下しています。
しかし、純朴なネイはそうは思わなかったようです。
熱狂的な王党派に
ナポレオンを倒してフランスに戻ったルイ18世。
家臣や軍隊まで追放するわけにはいかず、ネイら元帥たちも、そのまま彼の軍に編成されました。
しかし、そんなネイたちを待っていたのは冷たい目でした。
20年以上の亡命から戻った貴族たちは、第一帝政下で成り上がった新参貴族たちに敵意を向けていたのです。
そんな針のむしろに座るような状態の中、国王だけは別でした。
国王にしてみれば、今さら自前の軍人を養成するわけにもいかず、自分の「剣」としてネイたちを大切にしなければなりません。
「私はこれからもずっとあなたたちを頼りにします」
こう言われて、ネイは有頂天になってしまったのでしょう。
ナポレオンはカリスマ性はあっても、ぽっと出の成り上がり皇帝。かたやルイ18世は九百年の伝統と血を持つ王なのですから。
『よし! 国王陛下のために全力を尽くすぞ!』
そんなネイを見て人々はあきれました。
「この間までナポレオンに忠誠を誓っておいたのに、なんだあいつは」
ネイはただただ単純で気のいい男でした。
それが彼の悲劇を招くことになるのですが……。
ナポレオンを鉄の檻に入れてやる!
フランス人の多くが王政復古にゲンナリするのに、さほどの時間はかかりませんでした。
いざ王侯貴族が戻ってきたら、彼らは「なぜ革命であれだけ血を流し、苦労して彼らを追い払ったか」を思い出したのです。
ふてぶてしく、傲慢で、税金で肥え太る連中。
そんな連中を、諸手をあげて歓迎したなんて間違っていたのではないだろうか?
人一倍そう痛感しているのは、宮中で貴族と顔を合わせねばならないネイです。
無能で戦場で戦った経験もないくせに、平民生まれの自分を見下す貴族たちには、我慢がなりませんでした。
ネイの妻も、貴族の女性たちからいじめられ、涙を浮かべながら自宅に戻ることがありました。
ネイは宮廷を離れ、領地に引きこもりがちになりました。
そんな中、1815年3月1日、ナポレオンがエルバ島からフランスに上陸します。
ネイはその知らせを受け、動揺しました。
フランスは革命のあと、悲惨な内戦に苦しめられています。
あやまちだけは繰り返してはならない。彼はそう痛感していたのです。
ルイ18世は、王族にナポレオンを生け捕りにさせればよいと楽観的でした。
しかし、これまた平民からの叩き上げであり、ネイにとっては戦友にあたるスルト陸軍大臣が反対しました。
あまりに危険過ぎるからです。
そこでルイ18世は考えを変えました。
ネイとも親しい叩き上げ軍人であるグーヴィオン=サン=シール元帥を派遣しようと考えたのです。
もしここで彼がそのまま使命されたらば、運命は違っていたのでしょう。
グーヴィオン=サン=シールはナポレオンに味方しなかったことが、のちの経歴にプラスの影響を与えています。
一方、ネイは、なんとナポレオンを捕らえると立候補したのです。
「大船に乗ったつもりでいてください。ナポレオンを鉄の檻に入れて帰って来ます!!」
ここまで威勢の良い言葉を述べたのです。「鉄の檻に入れて帰る」という言葉は人々に強く刻まれました。
「ネイ元帥ならきっとなんとかしてくれる……」
ルイ18世も、スルトも、世間もそう期待したことでしょう。
ナポレオンのカリスマに屈する
しかし、ネイはあまりに単純、任務を甘く見積もっていました。
ネイだけではなく、王弟やマクドナル元帥(スコットランド系の叩き上げ系軍人)もナポレオン撃破に向かいますが、彼らは諦めて帰って来ました。
というのも、兵士たちが「皇帝万歳!」と言い出して、ナポレオンと戦う気がなかったからです。これではどうしようもありません。というか、ネイにもそうするだけの機転があれば……。
しかしネイは、自ら言ってしまった「鉄の檻に入れて帰る」という言葉に縛られてしまいました。
すでに王弟とマクドナル元帥が任務放棄するほど、フランス各地ではナポレオンに傾いています。
ネイは混乱しました。
「もしナポレオンが復位したら……フォンテーヌブローで最終通告を突きつけた俺を許さず殺すかもしれない……」
「でも俺は生け捕りにして連れて行くと、国王陛下に誓ったんだ!」
「いや、しかし、そもそも俺が出世できたのはナポレオンのおかげじゃないか?」
「ダメだ。ああも大見得を切っておいて今更逃げるなんてできない!」
「妻も貴族には侮辱されていた……」
3月14日。
ネイの精神は限界を超えました。
彼は兵士の前で剣を抜くと「ブルボン家の大義はない!」と叫びます。
「皇帝万歳! 皇帝万歳!」
兵士たちは大喜びして、ネイに賛同します。
18日、ナポレオンに再会した彼はこう言いました。
「あなたという人間のためではなく、祖国を防衛するために味方したのです」
主君の間では迷うかもしれないけれど、愛する祖国のためなら迷わない。
それがネイという男の本質でした。
しかし、そのことを誰も理解しません。
宮廷から逃げ出した国王一派はネイを裏切り者とみなします。
ナポレオンに味方した者たちも、「ギリギリになって変心した奴」と彼を疑います。
実際、パリに入ったナポレオン自身が、ネイとは距離を置くのでした。
死に場所を求めて
ナポレオンの「百日天下」は、ワーテルローの戦いで粉砕されました。
この決戦においてナポレオン側は、精彩を欠いた戦いを繰り広げました。
ネイもその中に含まれています。彼は「フランス元帥の死に様を見よ!」と叫び剣をかざしながら、無謀な突撃を行いました。
まるでここで死にたいと思っているような態度です。
彼の馬は死んだものの、彼自身は弾丸がかすめただけでした。ネイは軍人として名誉ある死を遂げるチャンスも失い、生き延びてしまうのです。
ナポレオンが陸の孤島セントヘレナ島に送られ、再びルイ18世が王位に戻ると、裏切り者の粛清が始まりました。
ルイ18世が最も憎しみを抱いたのは、ネイその人です。
「鉄の檻に入れるとまで豪語したのに、なんだあのザマは!」
スルトやマッセナ、オージュローなど、ナポレオンの誘いに応じて裏切った第一帝政の元帥は、他にもいます。
そのうちスルトは国外追放になっただけで、帰国後はフランス史上6人しかいない大元帥にまで出世しています。マッセナとオージュローも罰は受けたものの、パリに住み続けました。
しかしネイには、反逆罪で逮捕令が出ました。
彼は、田舎町に移るだけで国外亡命をしませんでした。時間的には十分できたはずです。妻も泣きながら懇願しました。
しかしネイは悠然とした態度をとり続けるのです。
ネイは逮捕収監され、軍法会議にかけられることになりました。
ところがネイは「自分は貴族院議員である」とこれを拒否し、貴族院で裁判を受けます。軍法会議であれば、彼を裁いたのはその武勇と人柄を知る戦友であったことでしょう。
彼らならばネイのために温情を見せたかもしれません。
しかし、貴族院の人々はそうではありません。
ネイの追い詰められた状況も、過去の輝かしい軍歴も、罪を軽くすることはありませんでした。
投票結果は、161票対139票で、死刑。
死を目前にして、彼は妻と4人の子に別れを告げます。
妻は泣きながらこう言いました。
「あなたの息子たちが、きっとあなたの仇を討つわ!」
しかし、ネイは我が子に、復讐よりも許す心を学ぶように伝えたのです。
内戦を嫌った彼らしい考えでした。
12月7日朝、ネイは刑場に引き出されました。
妻は恩赦を求めて王宮を目指していましたが、国王への面会はかないません。
そして処刑の時を迎えます。
ネイは目隠しを拒否しました。
「この25年間、私が銃弾と砲弾を、正面から見ていたことを知らないのか?」
彼は心臓の上に右手を置き、こう言います。
「兵士諸君! 私は撃てと命じる時、必ず標的の心臓をまっすぐ狙えと言ってきた! 命令を待て。これは私の最後の命令である。私は、私への判決に抗議する。私は何百回とフランスのために戦ってきた。だが一度たりとも祖国に背いてはいない……兵士たちよ、撃て!」
銃声が轟き、勇者の体を貫きました。46才で、彼は銃弾に倒れたのでした。
後世の審判
愛すべき赤毛の勇者を殺したことに、フランス人は罪悪感を覚えるようになりました。
もっと悪い奴はいた。
殺されても仕方ない奴はいた。
ネイは生前、死刑判決を人と法ではなく、神と後世に委ねると言いました。
その結果、後世の人々は悔やむようになり、
「ネイ元帥は生きているんだよ!」
なんて生存説まで流れ始めます。
源義経のように、豊臣秀頼のように、彼の死を受け止められない人々はそんな噂と伝説で、心を慰めたのです。
1930年、七月革命でブルボン王家がフランスを追われると、人々はもはやネイへの思慕を隠すことはありませんでした。
彼は勇者として、再び人々の記憶の中から蘇ったのです。
今日も彼は、フランスの人々から愛すべき勇者として尊敬されています。
なんとも切ないネイの一生。
特に王政復古からのストレスは想像を絶するものだったハズです。
「鉄の檻に入れて帰る」なんて言ってしまったばかりに自分の動きを縛り、ルイ18世には必要以上に憎まれ。
挙句の果てには殺されてしまう。
真っ直ぐな性格ゆえに迎えた悲痛な死に様は、いつの時代も人々の胸に迫り続けるでしょう。
文:小檜山青
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【参考文献】