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長宗我部元親像

週刊武春 長宗我部

長宗我部元親61年の生涯をスッキリ解説! 四国に築いた一代王国が夢と散るらん

投稿日:

四国の戦国大名って、全体的に地味だよね。
他のエリアと比べてみればその差は歴然。

関東の北条氏康・上杉謙信・武田信玄
東海の織田信長・今川義元・斎藤道三
九州の島津軍団・大友宗麟・立花宗茂
東北の伊達政宗最上義光
中国の毛利元就
そして、
四国の……誰?

と、さすがにそれは言い過ぎで、このエリアにも偉大な武将がいたことを皆さんご存知だろう。

そう、長宗我部元親である。

家督を継ぐや一代で土佐→四国を制するばかりか、明智光秀が「本能寺の変」を実行する遠因になっていたのではないか?と囁かれるほどの存在。
中央で生まれていたならば、ヘタすりゃ天下も狙えたかもしれない。

そんな風にIFを期待してしまうほど不思議な魅力に富んだ人物である。

いったい長宗我部元親とはどんな人物だったのか?
その生涯を追ってみよう。

長宗我部元親/wikipediaより引用

 

渡来系秦氏の子孫で始皇帝に辿り着く!?

長宗我部元親の生年は意外と古く感じるかもしれない。

織田信長に遅れること5年。
天文八年(1539年)、土佐の地に誕生した。

父は、岡豊(おこう)城主で長宗我部家20代目の国親。
母は、美濃の守護代を務めていた斎藤利良の娘。
元親は、7人兄弟(男子4人、女子3人または4人の説もある)の長兄であった。
岡豊城は、現在の高知県南国市に位置している。

本題の元親に入る前に、まずは長宗我部家の歴史を辿ってみたい。

もともと長宗我部家は土佐国人の1つだった。
ルーツは大陸から日本に渡ってきた渡来人であり、姓を「秦(はた)」とするのが通説である。

秦氏の遠祖は秦の始皇帝と言われ、元親も公文書において「長宗我部宮内少輔秦元親」と記しており、元親以外も長宗我部一族は代々「秦」を名乗っていた。

秦氏系図の次に現れる「長宗我部氏系図」の初代は秦能俊(はた よしとし)である。
大正時代に編纂された『更級郡記』には、保元の乱(1156年)で崇徳上皇側についた秦能俊が敗戦の後、拠点であった信濃を去り、土佐の「長岡郡曾我部」に隠れ、これが長曾我部(長宗我部)氏の祖となったと記述されている。

江戸前期に長宗我部の元家臣が書いた『元親記』には「秦能俊が土佐の国司となり、土佐に三千貫を拝領する綸旨を受けて盃を賜った」とある。

秦能俊が天皇より頂いた盃には「酢漿草(かたばみ)」の葉が一つ浮かんでおり、秦能俊はそれを飲み干して、以降その酢漿草を長宗我部家の紋としたとの伝承があり、「七酢漿草(ななつかたばみ)」が代表的な家紋となった。
七酢漿草は軍旗としても用いられている。

 

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土佐に広がる7つの勢力で最弱だった

時は過ぎ、元親の曾祖父にあたる18代雄親(かつちか)の時代。
このころ土佐には7つの勢力がひしめいていた。

・長宗我部(長岡郡)
・本山氏(長岡郡)
・津野氏(高岡郡)
・大平氏(高岡郡)
・安芸氏(安芸郡)
・吉良氏(吾川郡)
・一条氏(幡多郡)

彼らを「土佐七雄」と呼び国内の勢力を分かち合っていたが、家格・勢力には大きなバラつきがあった。

圧倒的なのは、京都から下向した元五摂家(藤原氏)の一条氏で、国力は一万六千貫(一貫は約2石)。
その他の勢力が4~5千貫の領地であるのに対し、長宗我部は最弱の3千貫であった。

元親の祖父にあたる19代兼序(かねつぐ)は、一条氏や中央政権の細川氏と懇意にしていたが、これが土佐の他豪族から反感を買う。
永正五年(1508年)には、本山氏をはじめとした諸豪族の連合軍に岡豊城(おこうじょう)を落とされ、すべての領地を奪われてしまった。

このとき連合軍3000人に対し長宗我部軍は5~600人ゆえにやむを得ない敗戦。
兼序は自害し、長宗我部家はいったん滅亡するが(生き延びた説もあり)、嫡男の千雄丸(後の国親)は一条氏を頼って幡多郡中村へと逃れ、10年後に同氏の仲介で城と旧領を回復した。

城と領地は戻ったものの、10年の歳月は長く、長宗我部家の旧臣の中には他家に仕えている者もあった。
せっかく家を復活させることができても、少ない家臣で諸豪族と戦う事はできない。
そこで国親は、経済基盤作りと兵力の増強に着手し、農民の中から見所のあるものを武士として登用し家臣団を再編していくことにした。

これが、土佐独自の軍事システム「一両具足」の基礎となった。

一両具足とは、平時は農民として生活しているが、領主から招集がかかると素早く馳せ参じられるよう、一領(ひとそろい)の具足(鎧・刀)を田畑に置いて農作業をしていたことから呼称されたと伝わる。

 

内気でひきこもりの「姫若子」と呼ばれ

大永二年(1522年)。国親は19歳で正室を娶ると、2年後に長女が生まれた。
その後なかなか子が出来ず、天文八年(1539年)になってようやく誕生したのが嫡男の元親である。

元親は幼名を弥三郎と称した。
長らく待った待望の跡継ぎではあったが、幼い頃はあまり期待の出来ない人物だと評されていた。

江戸中期に記された軍記物『土佐物語』(長宗我部家の興亡を描く)に、幼いころの記述がある。
それによると「元親は背が高く色白で、器量は良いが、必要なこと以外はほとんど喋らない。人にあっても会釈をせず、いつも屋敷の奥に引きこもっている」ので「姫若子(ひめわこ)」と揶揄され嘲笑の的だった。
父親も「嫡男がこんな有様では当家も終わりだ」と深く嘆いていた。

岡豊に戻った国親は孤立無援であった。
そこで、まずは岡豊から半里の近郊にあった吉田城の吉田周孝(たかちか)と同盟を締結。
周孝は国親の叔母の婿にあたる人物で、国親より年長で、策士であり、相談しやすい人物であった。

国親は周孝の進言に従い、善政を敷き国力を高め時節を待った。
そして天文12年(1543年)、近隣への侵攻を開始する。

翌年には土佐の安定を考えた一条氏の勧めで、仇敵・本山家に長女を嫁がせたものの、領土拡大の意欲は止まらず、天文十六年(1547年)、手始めに天竺氏の大津城(高知県・高知市)を落とすと、その勢いで介良(高知市)、下田、十市(南国市)、池(高知市)の各城を攻略した。

十市・池城攻略の際は、最終的に自分の娘を十市城主・細川宗桃(そうとう)の嫡男であり、池城城主であった細川頼定に嫁がせ傘下に入れている。

土佐中央部を手中に収めた国親は、更に弘治2年(1556年)、本山氏の支城に対して攻撃を開始。
弘治四年(1558年)には、弱体化した香宗我部家に三男・親泰を養子に出し、自陣営への取り込みに成功した。

このあたりは毛利元就が息子を吉川、小早川家に養子に出し家を乗っ取った方法に似ていおり、国親の手腕のほどが窺える。
この後、親泰は兄である元親をよく助け、四国統一に大きく貢献するのであった。

 

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「長浜の戦い」初陣で評価が一変!

天文二十四年(1555年)に本山茂宗が死去。国親は同氏への攻勢を強めた。

これに対し、跡を継いだ本山茂辰(しげとき)は長宗我部の兵糧を配下の住民に略奪させる。

一気に高まる両者の緊張。これを破ったのは国親で、略奪の報復として本山氏配下の長浜城を攻撃、これを陥落させた。
一方、本山茂辰も、長浜城奪還のため2,500の兵を率いて出陣し、長宗我部勢は1,000の兵力でこれを受けることとなった。

両軍は永徳三年(1560年)5月27日、長浜戸の本で激突!

長宗我部と本山の命運をかけたこの戦いは元親の初陣でもあった。
齢22歳。かなり遅い初陣である。

しかも戦いを前にして、家臣に「槍の使い方を聞く有様」で周囲を大いに不安にしたが、いざ合戦がはじまると元親は突如「姫」ではなく「鬼」に変貌するのであった。

覚世の子息弥三郎元親十八歳、今日初陣成りけるが、いかがしてか味方を離れ、戸の本の西の方に、廿騎計にて控へ給ふ。吉良の士是を見て、願ふ所の幸なりと、大窪美作・其子勘十郎・吉良民部・宇賀平兵衛・長越前・河村四郎左右衛門を始めとして、五十騎計に驀直に打つて掛る。元親少しも疑議せず、鑓取て近付き、敵三騎、弓手馬手に突伏せ、大声を挙げて、「昨日までも互いに肩をならべ膝を交せし同僚ぞかし。爰に引退きて、何の面目有りて再び人に面を合わすべき。夫武士は、命より名こそ惜しけれ。一足も引くべからず」と駆出で出で下知し給へば、元よりはやりをの若者共、此詞に励まされ、黒煙を立てゝぞ打合ける。(『土佐物語』)

簡単に訳せば、こんな感じだ。

「元親は何故か味方の部隊から離れて二十騎ほどで控えており、これを見た本山軍はチャンスとばかりに五十騎ほどで討ってかかったが、元親はこれを少しも恐れず、槍を取って敵三騎を突き伏せ、味方を激励した」

人気マンガ『センゴク』でも何か不思議な人物として描かれていたが、いざ合戦となるや鬼神の働き。
姫若子が鬼若子と呼ばれるようになったのも頷ける。

長浜の戦いは数の上で劣勢だった長宗我部が勝利し、本山茂辰は浦戸城へと逃げ込んだ。
『元親記』にも、元親が五十騎ほどを指揮して乱戦の中を突き抜け、劣勢だった長宗我部の軍を形勢逆転させたとある。

突然の息子の活躍を見て、国親は頼もしく思ったことだろう。
ここから親子での土佐統一へ……とはいかなかった。
本山軍を打ち払い、本拠地に引き上げた国親はそのまま病床につき20日ほどで死去してしまったのである。享年57。

死に際して国親は元親にこう伝えた。

「私は父の敵である本山を討つことを本望としてきた。だから本山を討つ以外に私への供養はない。私が死んだら世の習いなので7日は喪にふせ、それが過ぎたのなら喪服を脱ぎ甲冑に替え軍議を行え」

姫から鬼へと変貌を遂げた息子に、全てを託す価値があると安心したことだろう。

 

美濃斉藤氏の縁者から正室を迎え入れ

父の遺志を継いだ元親は本山攻めを続け、永禄五年(1562年)9月、茂辰の立て籠もる朝倉城(高知県高知市)へ進軍。
この時は茂辰の子、親茂の奮戦によって長宗我部軍の敗北となるが、本山の勢力圏は減少が止まらず当主・茂辰を見限る家臣が相次ぎ、とうとう支えきれなくなった永禄六年(1563年)1月、朝倉城を捨て本山城(高知県長岡郡本山町)に撤退する。

同年、25歳の元親は、美濃斉藤氏の縁者より正妻を迎えた。
石谷光政の娘である。

石谷家には、明智光秀の重臣・斎藤利三(春日局の父)の実兄で、養子となった頼辰(よりとき)がいた。
つまり、石谷光政の娘は、その義理の妹にあたり、こうした彼らの強い結びつきが後に本能寺の変へ向かわせたとする説がある(織田信長と元親の間に確執が生まれ、明智家・斎藤家が間に立たされたことから・詳細は後述)。

ともかく、この石谷光政は、清和源氏・土岐氏の流れを汲み、また将軍足利義輝の奉行衆でもあることから、元親の才が一定の評価を受けていたことがご理解いただけよう。
元親は、後にこの正室との間に四男四女に恵まれ、更には結婚と同年に、弟親貞に吉良氏を継がせることに成功している。

本山氏の抵抗はその後も続いた。が、戦いの最中に当主・茂辰が病死、跡を継いだ親茂は永禄十一年(1568年)冬に降伏する(元亀2年の説もあり)。
本山氏は祖父の仇である。同時に親茂は、元親の姉の子でもあり甥にあたる。

元親は彼らを赦し一族を岡豊へと引き取ると、後に嫡男・信親の家老として仕えさせている(便宜上、本山親茂と表記したが、元の名は貞茂と言い、元親より一字を与えられ親茂と名乗るようになった)。朝倉城の戦いで活躍したように親茂は優れた武将であったため、元親も気に入ったようだ。

かくして初陣から8年、元親は祖父の無念を晴らし、土佐の中央部を支配するに至った。

 

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土佐最大の戦い「八流の戦い」

残るは東側の安芸国虎と西側の一条兼定である。
安芸国虎は、元親が本山と戦っている最中に岡豊へ攻め込んできたりしており、一条氏の仲介で一時和睦を結んだとはいえ油断ならぬ相手であった。

本山との紛争が決着した翌年、元親は安芸国虎の元に書状を出す。
過去のことは水に流して友好を深めようという内容であったが、その中に「岡豊へ来て頂きたい」と策略を仕込んでおいた。

策略とはほかでもない。
和議を結ぶのであれば、お互いの国境に出向くのが常である。
それを本拠に来いというのは「長宗我部に降伏しろ」という意味になる。

案の定、これを見た国虎は激怒。
長宗我部からの使者を即座に送り返してしまう。

国虎は挑発に乗り、重臣が諫めるのも聞かず、元親と一戦を交える覚悟を固めたのである。
一方の元親も、これを口実にして7,000の兵を率いて安芸城(高知県安芸市)に進軍、国虎は5,000の兵で待ち構えた。

土佐最大の戦い「八流の戦い(やながれのたたかい)」の火ぶたが切られた。

元親は軍を二手に分け、海沿いから5,000、内陸から2,000の兵で攻撃を開始。
対する安芸勢は、黒岩越前率いる2,000の兵が、道幅の狭い八流に留まり、地の利を活かして迎撃しようとした。

しかし、長宗我部軍の勢いに押されて敗北。
残る3,000の本隊も、内陸から攻めた長宗我部軍に背後を突かれて安芸城への撤退を余儀なくされる。

そこで長宗我部軍は二部隊が合流し、安芸城を包囲して籠城戦に持ち込んだ。
国虎の妻は一条氏の出身だったが、同氏からの援軍は来ず、城内の兵糧はつきかけた。

追い打ちをかけるようにして元親は、「井戸に毒を入れた」との噂を流し城内の攪乱に成功。
万策尽きた国虎は城兵の助命を条件に開城し自害する。

元親はこの安芸城に弟の香宗我部親泰を入れ、城主とした。

 

ついには土佐の名門・一条氏も吸収してしまう

周囲の国人たちを軒並み吸収し、勢いにのる長宗我部。土佐に残る他勢力は一条氏のみとなった。

当主は土佐一条5代目にあたる兼定。
伊予大洲・宇都宮氏の娘を娶っていたが、離縁し継室として大友宗麟の次女を迎えていた。

『土佐物語』などでは
「軽薄な性格で放蕩、酒宴に興じて色を好む」
と酷評されているが、これは後の時代に書かれたものであり信憑性には疑問が残る。

ただ、特に咎のなかった重臣・土居宗珊を手討ちにしたり、人望に難ありという人物だったことを窺わせる。
実際、天正2年(1574年)2月、一部の老臣が兼定を幽閉し、妻の実家である豊後に追放するというクーデターが勃発するのだった。

代わりに兼定と前妻の子である内政(ただまさ)が擁立され、重臣らは元親に後見を依頼する(最近の研究によると、兼定の隠居には、武家色が強くなりすぎた土佐一条氏に、本来の公家としての本分を全うさせようとする京都一条家の意図があったとも)。

元親は内政を長岡郡の大津城に送り、後に自分の娘と結婚させた。
そして土佐中村の一条御所には実弟の吉良親貞を入れ、その所領を手中に収めたのであった。

一方、土佐を追放された兼定は大友氏の助けを借りて再興を図るべく、天正三年(1575年)、南伊予の豪族である法華津氏からも援助を得て3,500の兵で栗本城(高知県・四万十市)を奪い、中村奪回の機会をうかがった。

これを聞いた元親は、わずか3日後に7,300の兵を率いて進軍、両者は渡川(四万十川)を挟んで対峙する。

いわば土佐の覇権をかけた頂上決戦。
と、なるハズだったが、元親の陽動作戦に兼定の陣形はたやすく崩れ、「渡川の戦い」はわずか数刻で決着してしまった(兼定は瀬戸の小島へ流される)。

家督相続から15年、かくして元親は土佐を統一したのであった。

 

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酒を飲んでいると四方の霞が全部私の方にたなびく

天正五年(1577年)2月、連歌会で元親がこんな句を詠んでいる。

四方(よも)はみな 汲手(くみて)になびく 霞哉(かすみかな)

酒を飲んでいると四方の霞が全部私の方にたなびく――すなわち四国の国が全部が自分にたなびいてくるようであるという、四国制覇への野望が見られるものだ。

さほどに鮮やかな土佐統一であり、周囲を見渡せば、まんざら制覇も難しいものではない。
当時は、そう思わせるような周囲の勢力図でもあった。

地図で確認してみよう。

阿波(徳島県)は、元々土佐も支配していた細川氏が没落し、代わりに三好氏が台頭していた。
しかし、当主の三好長治は、国内での評判が芳しくなかった。

讃岐(香川県)も元々は細川氏の領地であったが、こちらも没落し、東部は三好氏一族の十河存保(そごうまさやす)、西部は香川氏の支配下にあった。
中部では羽床氏が勢力を持っており情勢は不安定である。

残る伊予(愛媛県)も元々一国支配をしていた河野氏が力を削がれ、今じゃ支配地域は中央部だけ。
南部は西園寺氏が、東部は金子氏などが支配している状況である。

このように小勢力乱立という状況は、四国制覇を目指す元親にとって都合がよい。
大軍を相手にするよりも各個撃破するのが簡単だからである。あるいはこうした状況が「四国の戦国大名って地味ね……」と思わせる要因だったのかもしれない。

しかし、元親はやはり別格で、視野の広い彼は四国統一の前に、中央への配慮も忘れてはいなかった。

1570年代後半、全国で最も力を有していた大名は織田信長である。

このころ信長は、1575年に長篠の戦いで武田軍に勝利し、1576年から安土城の築城にも着手していた頃。
依然として石山本願寺との対決は続いており、毛利との決戦前という状況であるが、もし仮に信長が近畿を押さえると、次に四国へやって来るのは必定。その段階で織田家に正面衝突しても勝ち目はない。

そこで元親は、姻戚関係にあった明智光秀の重臣・斎藤利三を介して、織田信長に嫡男千雄丸(後の信親)の烏帽子親になることと、併せて「阿波への用兵の了解」を求めている。

使者に立てられたのは中島可之助(なかじまべくのすけ)という風変わりな名前の家臣であった。

中島は信長に謁見し、
「無鳥島の蝙蝠(鳥なき島のコウモリ)」
「蓬莱宮の寛典に候」
という受け答えをしている。これがどうして、我々常人には理解し難い言葉が交わされているのだが、信長は元親の阿波侵攻を許し、更には嫡男の烏帽子親も引き受けているのである。

長宗我部信親。
信長から「信」の字を拝領した元親の嫡男であり、非常に有能だと期待されていた武将である。

同エピソードの詳細は、以下のマンガに詳しいのでよろしければご参照を。

変人は変人を知る!? 四国の覇王・長宗我部元親は信長級の傑物! 『戦国boogie-woogie』vol.34

 

国人の人心を掌握する巧みな判断力

元親は天正四年(1576年)、自ら手勢を率いて岡豊を出立した。

実はこれより5年ほど前、元親の末弟・親房が有馬温泉に湯治に出かける途上で阿波南部の国人・海部宗寿(かいふむねとき)に殺されるという事件があった。
元親は弟の仇討ちを名目に海部城へ攻撃を仕掛けたのだ。

長宗我部軍は怒濤のごとく阿波に進入し、海部城はあっさりと陥落、城主・宗寿は逃亡する。
元親の勢いを見た周辺の城主たちはこぞって人質を出して降伏し、元親はたちどころに阿波南部の海部、那賀(なか)の二郡を掌握してしまう。

次に目指したのは「白地城(高知県・三好市)」だ。
白地城は阿波の西端部に位置しており、土佐・伊予・讃岐を結ぶ交通の要所となっていた。

四国制覇のためには、是が非でも押さえなければならない城。
守っていたのは十河一存(そごうかずまさ)の妹婿・大西覚養(おおにし かくよう)だった。

このとき覚養は、実弟であり養子にしていた上野介を人質として元親に差し出した。
それから2年後の天正六年、覚養は十河存保(そごうまさやす)に応じて寝返るのだが、『上野介を斬首にすべきだ!』という家臣の意見をおさえて、元親は覚養を国元へ送り返す。

「覚養の裏切りは憎むが、上野介に罪はない」

いかにも芝居っぽいセリフであるが、こうした度量が人の心を打つのもまた事実。
同措置に感激した上野介は、長宗我部の阿波討ち入りの先陣を自ら買って出て、これにより白地城は落ち、上野介はその後も元親に家臣として仕えるのであった。

阿波の南部と北部を支配した長宗我部軍は更に2方向に分かれて進軍、阿波を治めていた三好長治が国内の戦いで敗死したこともあり天正七年には阿波の大半を支配下に置いた。

勢いにのった元親は天正六年から本格的な讃岐(香川県)侵攻を開始する。
手始めに藤目城(香川県・観音寺市)を降伏させ、続いて天霧城主(香川県・善通寺市)の香川氏と和睦、次男の親和(ちかかず)に香川氏を継承させた。

弾みをつけた長宗我部軍は、中讃岐に兵を進め1万2000の大軍で羽床氏を降伏させ、天正八年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧する。

これにて土佐・阿波・讃岐の三国を支配下に。

残りの伊予攻めに関しては、天正五年頃より郡代に命じて南伊予攻略を開始したが、中伊予を支配する河野氏に中国の雄・毛利氏が援軍を出して苦戦し、現場の判断で一時和睦となる。
更には、毛利氏が織田氏との戦いで余裕の無くなった天正七年(1579年)にも伊予侵攻を再開するが、大森城(愛媛県宇和島市)で大敗を喫し、撤退を余儀なくされた。

その一方で東伊予については、順調に国人を味方につけていった。

間もなく四国統一。しかし、この時点で待ったをかけた、思わぬ大物が現れる。

織田信長である。

イラスト:富永商太

 

織田信長の命令? んなもん知らんがな!

前述の通り、当初の信長は、元親の四国侵攻を許容していた。
しかし、四国で元親が台頭してくると、良好な関係は徐々に崩壊していく。

信長は、元親が力を持ちすぎぬように「一条氏の土佐支配を補佐している元親」と見なしたかったのだが、天正九年二月に元親が娘婿でもあった一条内政を追放すると、織田政権と長宗我部氏の間に亀裂が入り始める。
信長は四国政策の路線を大きく変更した。

すなわち三好氏への肩入れである。

それまで信長は、明智光秀を仲介として長宗我部氏と友好な関係を結んでおり、元親の阿波・讃岐の三好勢力への攻撃を容認していた。

が、この方針変換で、信長は元親に対し「土佐一国と阿波南部は与えるが、その他は返上せよ」との使者を出す。

元親はこれを拒絶した。
当然であろう。たしかに事前に許可を得る手続きは踏んだが、実際に切り取ったのは長宗我部の実力である。
本来であれば口出しされる場合じゃない。

ならば、と織田軍も攻撃を開始させる。
信長の助力を得た三好康長が先発隊として阿波で反撃を開始したのだ。

更には天正十年(1582年)5月、信長の三男である神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍も編成される。

これにより、いよいよ立場が窮してきた元親。
2014年に見つかった新資料「石谷家文書」(石谷家は元親正室の実家にあたる)の中には、この月に長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状があり、この時点で元親は信長に恭順する姿勢、つまり「言うこと聞きまする~」という姿勢を見せていた。

本能寺の変直前に土佐の長宗我部元親と明智光秀との書状のやりとり判明

 

本能寺の変に影響が皆無だったとも考えにくい

1582年6月2日の早朝。
織田信孝率いる四国討伐軍は、岸和田の港からすでに船を出し始めていた。

そこへ飛び込んできたのが「信長自刃」の急報。

そう。本能寺の変である。

信孝は軍を撤退せざるを得ず、四国攻めは寸前のところで回避された。
果たしてこれは偶然であろうか?

本能寺の変の動機としては怨恨説、野望説、秀吉黒幕説など多数あるが、その一つの有力説として考えられているのが『四国説』。

長宗我部氏と同盟関係にあった光秀にとっては四国征伐により長宗我部家が滅亡することは手痛いダメージとなりこれを回避したかった。
あるいは仲介者としての面子を潰された。

こうした種々の因縁が絡んで本能寺の変を起こした――というものである。

『元親記』にも「斎藤内蔵介(利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」ともあり、(主な理由かどうかは別としても)本能寺の変が長宗我部家援護のために行われた可能性は否定しきれない。

ただし、である。
新資料「石谷家文書」で確認された「元親が信長に対して恭順の意を示している」ことから、すでに四国の件は解決を見ており明智光秀が謀反を起こす理由はなくなったとする指摘もある。

決定打のない日本史最大のミステリーであり、今後の研究結果が待たれるところであるが、いずれにしても長宗我部の動きが中央にも影響を与えるような、そんな存在であったことは間違いない。

では、本能寺の変後、元親はどのように動いたのであろうか。

 

元親47歳 四国統一

本能寺の変の報を聞いた元親の嫡男・信親は海部城に兵を集め、一気に勝端城を攻め落とす姿勢をとった。

これに対し元親は、なぜか「時期を待つように」と慎重な姿勢をとっている。

それから2ヶ月後の8月。
元親は2万3000の軍で勝端城を攻め落とし、阿波を手中におさめた。

さらには讃岐へも進軍し、手始めに藤尾城を攻め落とすと、総勢3万6000の軍で十河城を囲む。
冬を迎えて同城の包囲から一旦は撤退するものの、翌年6月に再び攻め入りついに陥落させた。

同じ頃、近畿では信長亡き後の後継者をめぐり、織田家臣団での勢力争いが行われていた。

山崎の戦いを制し清須会議でイニシアチブを握ろうとする豊臣秀吉と、それに反目する織田家の重鎮・柴田勝家。
元親は柴田勝家側につき秀吉と対抗するも、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死してしまう。

天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも徳川家康と結び、大坂を挟撃するための渡航準備を急いだが、十河城陥落後の讃岐における残存勢力の討伐に手間取ってしまう。

8月に虎丸城を落とし、2万の兵の出兵準備を整え井伊直政を通じて「出兵の準備完了」を家康に報じたが、時既に遅し。
織田信雄と豊臣秀吉の和睦により、家康も振り上げた拳を下げていた。

それでも元親は侵攻の手を休めず、難航しながら伊予の平定に成功し、天正十二年末には河野氏を降伏させ、天正十三年春までには西予の勢力もほぼ平定した。

元親47歳。ついに四国をほぼ統一したのである。

 

10万の豊臣軍に降伏し、土佐一国へ

元親が四国統一を進めていた頃、近畿、中国の情勢は動いていた。
宇喜多は豊臣に臣従し、毛利と豊臣の領土問題も一段落つき、近畿・中四国地方では長宗我部元親だけが孤立した存在になっていた。

元親は秀吉に使者を送り領国の部分的返上(伊予一国返上案、阿波・讃岐の返上案)を申し出たが、交渉はまとまらず、紀州の根来・雑賀勢の征伐を終えた秀吉は天正十三年6月、弟・羽柴秀長を総大将とする10万の軍勢を用意する。
そして淡路、備前、安芸の三方面から四国に向かわせた。

これに対する元親軍は総勢4万。
数の上で不利なだけでなく、一領具足で兵農分離が完全ではない長宗我部は秀吉軍の敵ではなかった。

長宗我部側の城は相次いで攻略され、阿波戦線が破綻すると、7月25日、元親は秀吉に降伏。哀しいかな、安堵されたのは土佐一国のみだった。

元親は上洛し、秀吉に臣従を誓うのであった。

イラスト/富永商太

 

戸次川の戦いでかけがえのない嫡男を喪い

四国を平定した秀吉は、天正十四年(1586年)、九州の島津征伐に着手する。
キッカケは、島津義久に圧迫されていた大友宗麟からの援助要請だった。

大友宗麟相手の「耳川の戦い」、龍造寺隆信相手の「沖田畷の戦い」など。こうした大合戦での連勝で、九州最強となった島津軍も負けてはいない。
先手を取るようにして大友の本拠地・豊後へ侵攻し、12月には要衝・鶴賀城を包囲。

そのころ大友義統(よしむね・宗麟の嫡子)の府内城へ、援軍として出向いたのが四国勢の長宗我部元親・信親父子、十河存保らだった。
軍監役は、四国攻めの功績で淡路・讃岐に10万石を与えられた仙石秀久である。
漫画『センゴク』でもお馴染み、豊臣恩顧の武将だ。

しかし、肝心の大友軍の士気が低かった。
大友義統は“無能”として知られるバカ息子的存在。
おまけに四国勢も、最近まで敵同士だった者であり、軍議もロクに進まない。

秀吉としても一気に攻め寄せる気はなかったのであろう。
「徐々に軍を増やし、いずれは自分が軍を率いて行く」
と持久戦を指示していた。

しかし、である。
何を血迷ったか。軍監役の仙石秀久が、功を焦って戸次川(大野川)の渡河を主張するのであった。

これに対し長宗我部元親&信親父子は猛然と反対した。
冷たい冬場の渡河は無事に渡れても身体が凍って危険すぎる――そんな指摘は、至極当然のものであろう。

しかし十河存保も渡河しての戦いに同調し、川を渡っての出陣が決定してしまう。

これが長宗我部家にとって大きな運命の分岐点となった。

真冬の川をどうにか渡り終えた秀吉軍。
その前に現れたのは戸次平野に布陣した島津軍であった。

精強で知られる島津勢は軍を4つにわけ、先陣を切った秀久本隊が突出したのを見逃さず反撃に転じ、主力部隊でこれを叩く。
と、秀久はあっさり敗走、川を渡って逃亡してしまうのである(逃げまくって地元の讃岐まで)。

こうなると残された長宗我部勢も踏ん張りのきくわけがなく、信親が父親の本隊と連絡を絶たれ、奮戦むなしく討ち死に。
十河もまたこの地に散ったのだった。

元親は命からがら伊予の日振島に落ち延びることが出来たが、嫡男の他にも多くの重臣を失う結果となった。

 

スッカリ人が変わって暗君に

永禄八年(1565年)に元親の嫡男として生まれた信親は幼い頃から聡明で勇気があり、元親は早くから後継者と決めていた。

『土佐物語』によると信親は身長が六尺一寸(約185cm)で色白で柔和、聡明であったという。
将来を期待した信親を22歳という若さで失った元親はすっかり人が変わってしまった。

平たく言うと暗君になってしまったのである。

長宗我部信親の墓/photo by Reggaeman wikipediaより引用

信親が死んだ時点で、元親にはまだ3人の息子がいた。
いずれも正室との間の子で、親孝、親忠、盛親である。
家臣の間にはそれぞれの男子を擁立する動きがあったが、秀吉は次男親和に家督相続を認める旨を送っている。

だが元親は、後嗣問題を2年先送りした上で、天正十六年、末子の盛親を後継者として指名する。
同時に14歳の盛親に、まだ2~3歳の幼子であった信親の娘を正室として迎えることを決めた。

この婚姻に異を唱えた一門の吉良親実(きらちかざね)と比江山親興は切腹に処されてしまう。

吉良親実は元親の弟・親貞の息子、つまり甥であり、比江山親興は元親の従兄弟にあたる。
吉良親実の場合、家臣七人が殉死し、その墓から亡霊が出るとの噂が広まり、比江山親興は妻子六人も死罪となり、これまた墓から七人の亡霊が出るとの伝承が残っている。

その亡霊に出会った人は高熱が出て死んでしまうという「七人みさき」伝説である。

かつては敵にすら情けをかけて助命をした元親が、こともあろうに身内を粛正する人物へと豹変してしまったのだ。
秀吉から後継者として朱印をもらっていたにも関わらず相続出来なかった次男・親孝はこの頃に死去しているが、落胆のあまり断食をして餓死した説や、父親に毒殺された説など、明るい話はない。

長宗我部家の結束は大いに乱れた。
同年、本拠を岡豊から大高坂城(現在の高知城・高知県高知市)に移している。

高知城

 

遺言に記された戦の準備 関ヶ原を予感していた!?

天正十七年頃、元親は秀吉から羽柴の姓を送られた。

1590年の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて秀吉軍に参戦し下田城を攻め、小田原城包囲に参加。
某ゲームのイメージで「海賊・水軍」のイメージが強いかもしれないが、四国国内の陸戦に水軍は必要なく、統一時代には補給部隊の色合いが強かった。

土佐水軍の主体は種崎、池氏の十市水軍で、元親の時代、種崎には造船所が置かれたという。

下田城攻めの際には海上から攻撃をしており、文禄・慶長の役でも文禄元年(1592年)には兵3,000を連れ、自慢の大船・大黒丸を用意して土佐を出航した。
この時も水軍としての働きを期待されたようなので、小田原攻め以降は四国統一の頃と長宗我部水軍のカラーも異なっていたのであろう。

元親の部隊は普州城攻略戦を行い、陣に侵入してきた虎を部下が討ち取った話が残る。

そして……。

秀吉の死から約半年後、慶長4年(1599年)の春から元親は急速に体調を崩した。

4月に病気療養のため伏見屋敷に滞在し、豊臣秀頼に謁見するも翌5月から病はさらに重くなり、盛親に遺言を残した後、5月19日に死去。
遺体は天竜寺で火葬され、遺骨は故郷の土佐へと送られた。
享年61。

秀吉没後の政局混乱から、大戦が近いと感じていたのであろう。
遺言の内容は、戦の準備に関するものばかり。

関ヶ原の一年前。
土佐の一勢力からはじまり一時は四国を制覇した男は、その後、滅亡へと向かう家の運命を知らずに旅立った。

 

長宗我部元親百箇条とは?

長宗我部元親百箇条は慶長二年(1597年)に長宗我部元親・盛親が制定発布した分国法律である。

分国法とは、戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典で、大河ドラマおんな城主直虎にでてきた「今川仮名目録」もその1つ。

長宗我部元親百箇条は分国法の中で最も新しい。
対象は家臣だけではなく領民へも及び、法の定められた対象は、身分、訴訟、刑罰、取締、交通、軍事など多岐に渡っている。

長宗我部元親百箇条より前の話で、元親が「飲酒の禁止」を出し、『土佐物語』に面白い話がある。

酒を飲むと喧嘩が増えるという理由で、元親は禁酒令を出した。
しかし土佐は酒飲みが多い土地柄で当然のことながら不満の声が多かった。
そんな中、元親は「こっそり隠れて1人で酒を楽しんでいた」のである。

それに気付いたのが家臣の1人福留儀重。
猛将で知られた人物で、元親のもとへ運ばれる酒樽を見付け、数個の樽を壊し
「人々の見本となるべき人が法に背くとは何事だ。民を苦しめ自分だけ楽しむとは無道も甚だしい。これを諫めないのは家臣ではない。殿が承知せずに私が一命を落とすことになっても本望だ」
と酒を運ぶ使いの者に言い放った。

これを聞いた元親はうろたえ、報告にきた家老たちにこう言ったという。

「儀重が自分を諫めた行為はあっぱれである。このような家臣を持った私は果報ものだ。禁酒の法を出しておきながら自分で破ったのは無法であった」

これでスンナリ飲酒オッケーになったかと言うと、土佐ものの頑固さか
「一度出した法をすぐに変えると良くない。自分が禁酒します」
という、おいおいおい!といった内容に。

結局の所は、禁酒法を撤回しないと民は納得しないであろうと判断した元親が
「酒を禁じた法令は誤りであった。これを許すが、乱酒はしてはいけない」
と立て札を立てて法を変更した。
人々は元親の臨機応変に改める心に感じ入ったという。

元親の柔軟な態度と寛い心が伺えるエピソードであるが、福留儀重は豊後戸次川の戦いにおいて元親の嫡子の長宗我部信親らと共に戦死している。

やはり……豊後戸次川の戦いが無ければ……と無念に思わざるを得ない。

ちなみに長宗我部元親百箇条では飲酒は禁止されておらず、大酒の禁止となっている。

文:編集部




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【参考文献】
長宗我部
もっと知りたい! 長宗我部元親 (PHP文庫)
長宗我部元親と四国 (人をあるく)
長宗我部元親 50年のフィールドノート
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)
長宗我部元親/wikipedia
元親記

 

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