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絵・富永商太

武田・上杉家 週刊武春

武田信玄53年の生涯をスッキリ解説【家系図付き】戦国ロマン溢れる甲斐の虎、そのリアル

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激突! 川中島

村上義清を追い落とし、勢いに乗る武田家。
しかし、それが正解だったのか?と問われれば、必ずしもそうとは言い切れないのが歴史の面白いところでしょう。

義清が頼った相手・長尾景虎とは、信玄の永遠のライバル・上杉謙信です。
本稿ではこの時点から上杉謙信と表記します。

イラスト/富永商太

天文17年(1548年)、兄・晴景を引退させて家督を継いだ謙信。
彼は武田に追われた村上義清、高梨政頼らを受け入れます。

このまま武田が勢力を伸ばすことになれば、越後も危ういのではないか?
自らを頼ってきた信濃の者を見捨てるわけにはいかないのではないか?

そう考えた謙信は、信玄との対決に挑みます。

両雄決戦の地は、戦国ファン以外にも知られている川中島。
信玄は川中島より北の信濃を領有しており、この地はいわば国境線上のボーダーラインだったわけです。

さて、冒頭の
「なぜ信玄と謙信は、日本史の教科書に掲載されるのか?」
という話ですが……。

最も大きな要因は、川中島の戦いの人気ではないでしょうか。
日本人にとって戦国ロマンといえば川中島の戦い――そんな意識すら感じてしまいます。

ただし、この合戦は人気と知名度ほど、歴史的に見て重要ではないと思われます。

天下の趨勢を決めたワケでもない。
京都のように政治的に大切なエリアでもない。

それでいて戦国ロマンには絶対欠かすことのできない合戦。

実は、何度、戦ったのか?ということすらハッキリしていません。

しかし、それを言い出したら始まりませんので、ここでは通説に従い、5度の戦いを端的にマトメさせていただきます。

それぞれの詳細については【城の奪い合い】という面白い観点から非常によくマトメられた「お城野郎さん」の記事リンクがございますので、個々にご参照ください。

第一次合戦:天文22年(1553年)
Alias(別名):「布施の戦い」あるいは「更科八幡の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信(謙信本人が出陣したかどうかは諸説あり)
When:天文22年(1553年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:武田信玄に追われた村上義清の旧領復帰を目指す
What:放火等はあったものの、本格的な戦闘には至っていない。武田側は、村上領が奪われることを阻止。上杉側にとって村上義清の旧領復帰は失敗したものの、北信濃国衆の離反を防ぐことができた

【参照記事】お城野郎の第一次川中島の戦い

 

第二次合戦:天文24年(1555年)
Alias(別名):「犀川の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:天文24年(1555年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:「甲相駿三国同盟」締結で後顧の憂いをたった武田と、離反した善光寺奪回をめざす上杉の戦い
What:武田方は食料調達、上杉方は家臣離反といった不安材料に悩まされ、両者ともめぼしい戦果をあげられず。今川義元の仲裁により和睦

【参照記事】】お城野郎の第二次川中島の戦い

 

第三次合戦:弘治3年(1557年)
Alias(別名):「上野原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:弘治3年(1557年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:北信進出を目指す武田を上杉が迎え撃つ
What:両軍とも不完全燃焼、戦果をあげられなかった。武田方が優勢であり、信玄は北信濃への進出を強める

【参照記事】】お城野郎の第三次川中島の戦い

 

第四次合戦:永禄4年(1561年)
Alias(別名):「八幡原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:永禄4年(1561年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:関東進出を狙う上杉を、武田が迎撃、激突する
What:最大の戦いで、一般的に「川中島の戦い」というと、大半の人がこの戦いを連想するハズ。ただし、軍記ベースで誇張され気味で、実態は不明な点がも多い。「啄木鳥戦法」が有名で両者多数の死者(武田:4千、上杉:3千)を出すものの、決着はつかなかった。これが両雄最後の直接対決となる
Notable Deaths(主要死者):武田信繁、山本勘助、室住虎光

【参照記事】】お城野郎の第四次川中島の戦い

 

第五次合戦:永禄7年(1564年)
Alias(別名):「塩崎の対陣」
Who:武田信玄VS上杉謙信
When:永禄7年(1564年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:両者にらみ合いのみ

【参照記事】】お城野郎の第五次川中島の戦い

総括としましては……。

川中島の戦いとは、どこまでの範囲が含まれるのか。
何をもって合戦とみなすのか。
その基準すら変動しかねないため、はっきりと特定できないというところです。

後世の人々がロマンを託したがゆえに、話を盛った創作部分が大きすぎて、実態がよくわからなくなってしまったふしもあります。

例えば信玄と謙信の一騎打ち。
立派な銅像までありますが、これも想像の産物とされています。

一般的に最も有名なのが、第四次合戦です。
一騎打ちも第四次でのことと考えられ、この戦いは信玄の弟・武田信繁や、山本勘助らが討ち死にする大激戦となりました。

両者ともに大きな犠牲を払った川中島の戦い。

結果からいうと、実質的には武田方の勝利と言えましょう。

激戦を通して、北信濃の支配を固めていったのは信玄です。
謙信は強いけれども、地域支配のために効果的な陣地や城を得られず、足場を固めたとは言えません。

善光寺にしても、謙信が仏像を奪ったのに対し、信玄は寺ごと甲府に移転させてしまっています。

甲斐善光寺

領地を切り取るということに関しては、信玄の方が上手だったのですね。

しかし川中島の戦いが終結する頃から、信玄の身辺には別の問題が起こってきます。

 

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義信事件

第三次川中島の戦いが起こった永禄3年(1560年)。
駿河に激震が走りました。

「海道一の弓取り」と名高く、信玄にとっては同盟相手である今川義元が織田信長に討たれてしまったのです。

いわゆる桶狭間の戦いですね。

これにより今川家の跡を継ぐのは若輩の上、不肖の息子とされる氏真に決まり、今川氏が斜陽化してしまうのは誰の目からもハッキリとしておりました。

なれば、同盟を反故にしてでも攻めたくなるというもの。
他ならぬ信玄生誕の頃に今川氏から攻められていたような過去もあり、領国経営という観点からすれば自然な選択かもしれません。

しかし、問題がありました。
嫡男の武田義信です。

彼の妻は、今川氏真の妹で、いとこにもあたる嶺松院でした。
義信は義兄・氏真の治める駿河を攻めたくはないわけです。

信玄と義信の対立は、これ以前にもありました。
川中島の戦いの時点で、父子の意見が一致しなかったことが。

武田・織田の同盟にも反対しており、勝頼の妻として信長の養女が嫁ぐことにも反発していました。

要するに、積もり積もった反発、外交面での不一致が決定的な父子不和となったのです。

永禄8年(1565年)正月、飯富虎昌が成敗されました。
義信を唆したとの理由。
そして義信は、籠舎(牢屋に入れられる)となってしまいます。

しかしこの二年後の永禄10年(1567年)義信は自害してしまうのでした。

武田義信が幽閉されたという甲府の東光寺/photo by さかおり (talk) wikipediaより引用

信玄も父を追放し、権力を握った人物です。
義信は血統もよく、申し分のない嫡男であったはずです。

しかし、我が身を省みて、実子の謀叛のおそろしさを痛感していたのかもしれません。

捨て置くことはできない――ゆえに苦渋の決断を下したとしても、無理はないところではあります。

義信の死後、嶺松院は駿河に送り返されました。
そしてその死によって、諏訪家を継ぐはずだった四男の勝頼が、後継者となるのでした。

なお、信玄のその他の子供たち詳細については、本記事の終盤に付記しておきます。

 

駿河侵攻

窮地に立たされた今川氏真も、無策ではありません。
上杉謙信と協力し、武田の背後を脅かすことを模索します。

しかし、越後では上杉謙信の家臣である本庄繁長が、永禄11年(1568年)4月から翌永禄12年(1569年)3月にかけて叛乱を起こします。
しかもこの年はめったにないほどの豪雪で、さしもの謙信も思うように身動きが取れませんでした。

さらに信玄は織田信長に使者を送り、ある策を使います。
将軍の御内書による甲・越和議の和睦斡旋を依頼していたのです。
川中島であれだけ死闘を繰り広げておいて、その数年後に和睦って……と驚かされますよね。

これも戦国の外交なのですね。
信玄を描く物語に奥深さが出るのも、こうした百戦錬磨の作戦を網の目のように張り巡らせているからでしょう。

むろん上杉謙信とて、簡単に首をタテには振れません。
織田信長と足利義昭の度重なる斡旋により、永禄12年(1569年)7月には和睦が成立しています(甲越和与)。

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより

信長と義昭から働きかけさせるなど、この辺も外交上手な信玄の為せるワザですね。
※ただし長くは続かず、元亀元年(1570年)には、この和睦は謙信によって破棄されます

いずれにせよ、背後の驚異がなくなった信玄の、駿河侵攻を阻むものは何もない状態。
調略にも長けている信玄は、斜陽の今川家家臣に対して盛んに誘いをかけ、ついに立ち上がるのでした。

永禄11年(1568年)12月。
信玄からすれば満を持して、氏真にとっては突如、武田の駿河侵攻が始まります。

あまりの侵攻の猛烈さに、氏真は駿府を捨てて掛川城へと逃走。
氏真夫人であり北条氏康の娘にあたる早川殿は、輿すら用意できず、徒足裸足(かちはだし)で逃げ出す羽目になりました。

これが北条氏康と北条氏政の父子を激怒させます。

北条は、武田との同盟を破棄し、今川に援軍を送りました。
また、北条の進軍に呼応して反抗する今川方の武将もおり、戦線はますます激しさを増してゆきます。

一方、信玄は、徳川家康の協力も得て、両軍で今川領に攻め入りみます。

徳川家康/絵・富永商太

遠江を攻めるのは徳川軍の予定。にもかかわらず、武田軍はしばしば遠江にも圧力をかけており、家康は抗議するほどでした。
家康の中には、信玄への不信があったようです。

永禄12年(1569年)5月、今川氏真はついに掛川城を開城し、徳川家康と単独講和を結んでしまいます。
氏真降伏後、家康は遠江を支配することになりました。

【関連マニア記事】信玄の遠江侵攻と死

 

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「死を三年秘すべし」

今川氏の滅亡後、各大名は複雑な同盟関係を締結し、互いを牽制しあいます。

徳川家康は、上杉謙信との同盟を模索。
元亀2年(1571年)、北条氏康が亡くなると、跡を継いだ氏政は武田との同盟を復活させます。

その一方で、密かに織田信長へ危機感をもって対処をするようになります。
表面的には友好を装いつつ、信長の敵対勢力に接触をはかるわけです。

更に信玄は
・足利義昭
・浅井長政
・朝倉義景
・松永久秀
本願寺と一向宗門徒
というように、次々に味方に引き入れ信長包囲網を構築していきます。

こうしてみると、信玄の策略はえげつないな、と改めて感じますね。

元亀3年(1572年)、準備万端整えた信玄は、いよいよ甲府を出陣し徳川領へ向かいます。
徳川は織田との同盟相手。
今川攻めでは互いに不信感を抱いた相手でもあります。

武田軍は徳川領を進撃し、ついに両軍は激突しまた。
三方ヶ原の戦い」です。

【関連マニア記事】三方ヶ原の戦い 合戦場を歩きながら諸説を考察!

この戦いで散々に徳川方を討ち破った武田軍は、赤備えで有名な山県昌景が家康の首を討ち取る寸前まで追い込みます。

そして信玄は
「同盟相手とはいえ徳川に援軍を送ったのは許せない」
として、織田に同盟破棄を通達するのでした。

元亀4年(1573年)、信玄は正月早々動き出し、徳川方の野田城を包囲します。

家康は救援のため出馬するも、武田軍とぶつかることはありません。
謙信に出馬を促すものの、雪に閉ざされ動くことのできない上杉軍。

武田軍は野田城を落とすと長篠城へ。

山と川に囲まれた、峻険な場所にあった長篠城

信玄の撒いた反信長の芽は今まさに花を咲かせる勢いです。

各勢力は、信長を相手に敵対行動を開始。
まるで炎が燃え広がるように、織田を苦しめる――はずが、肝心の信玄が、長篠城から動かなくなってしまいます。

重病に倒れたのでした。

信玄は長年、病苦に苦しめられていました。
常に医者を側に置き、養生に励むも、肺結核とも癌とも推察される病には勝てる術がありません(ちなみに侍医は御宿監物みしゅくけんもつ)。

一度は回復の兆しをみせたものの、ついに帰国を余儀なくされる信玄。
そして甲府に向かう途中、1573年4月12日に亡くなりました。

享年53。




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死を三年間隠すこと。
戦を停止すること。
それを言い残し、武田信玄という巨星は墜ちたのでした。

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