西郷どん(せごどん)特集 週刊武春

西郷隆盛49年の生涯をスッキリ解説・年表付き!せごどん誕生から西南戦争まで

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「御前は地ゴロ(田舎者)で、事情に暗いから無理でしょう」

このころ藩の実権を握っていたのは、お由羅の子・久光でした。

西郷主役の作品では暗君扱いされがちな久光は、そもそも二人の背景に険悪な関係があるわけで、その点を考慮せねばならないでしょう。

久光の野心は、薩摩藩の武力をもって幕府に公武合体を迫ることでした。
西郷が奄美にいた安政7年(1860年)、「桜田門外の変」で井伊直弼が凶刃に斃れ、幕府の権威は揺らいでいる最中。
この状況ならば兄のように政治力を発揮できるはずだと久光は考え、出府上京準備の一環として西郷を呼び出したのです。

しかし、西郷にとっての久光は、斉彬とは異なる不出来な人物です。

実質的に権力を握っているとはいえ、藩主ですらなく、あくまで藩主の父。しかも無位無冠。
斉彬とは違って江戸暮らしの経験もなければ、政局での知名度もなく、まさに「ないない尽くし」でした。

西郷は、久光の野心に反対します。

斉彬のもとで政治工作の腕を磨いた彼からすれば、久光の意見なんて素人臭く相手にするのもばかばかしいものでした。
島に潜伏していた三年のブランクを埋めるため、自らの力量を見せ付けたかった場面でもありましょう。
そこで久光の野心に対し、こんな暴言を吐いてしまいます。

「御前(久光)は地ゴロ(田舎者)で、事情に暗いから無理でしょう」

せっかく奄美から呼び出したのに、恩義も知らないような態度。久光がそう西郷に激怒したとしても無理のないところでしょう。
二人の不幸な関係の再開です。

島津久光/wikipediaより引用

西郷に辛辣な言葉を浴びせられても上京を諦めきれない久光は、予定より遅れながら京都に入り、これを見た攘夷志士たちは「今こそ挙兵の好機!」と沸き立ちます。
彼らは京都・大坂に集結。周囲は、にわかに騒然となりました。

西郷はこのとき下関待機組でした。
が、こうした情勢を見て急ぎ上京を試みました。
一方、この命令違反に激怒した久光は、西郷の捕縛命令を出し、薩摩へ送り返します。

ちなみに京都の寺田屋に終結した攘夷派らが、説得側と乱闘になった「寺田屋事件」もこの時勃発しておりました。
もしも西郷が京都にいたら未来はどうなっていたか。
そんなことを考える余裕すらなく薩摩へ送り返された西郷は再び流刑となり、徳之島から沖永良部島に流されたのでした。

※島津久光にスポットを当てた記事は以下をご参照いただければ幸いです

島津久光71年の人生をスッキリ解説! 西郷隆盛、生涯の敵というのは本当か?

 

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生麦事件が勃発し、京都も混迷を極める

文久2年(1862年)、西郷らを処罰した久光は、政局での発言力を順調に増していました。
そんな折、衝撃的な事件が発生します。
薩摩藩の行列が武蔵国生麦村を通過中、乗馬したイギリス人4人が横切ったのです。

歴史の授業でもお馴染み、生麦事件。

事件当時の生麦/Wikipediaより引用

英国人の非礼に激怒した薩摩藩士はこの一行を殺傷し、事態は急激に悪化します。
文久3年(1863年)、犯人の処刑および賠償金支払いを求めたイギリス艦隊が薩摩に襲来し、薩英戦争が勃発したのです。
この戦いで双方は手痛い損害を出し、薩摩側も攘夷の無謀さを痛感させられました。

和平交渉がまとまると、イギリス側も態度を軟化させ、薩摩側に接近します。
薩摩藩も態度をあらため、こののち薩摩藩遣英使節団として五代友厚らを派遣。
攘夷とは異なる新たなる道を模索することになるのでした。

久光不在となった京都では、政局も新たな変動の時を迎えていました。

穏健派を抑え込んだ長州藩が、過激な攘夷を唱えるようになったのです。
彼ら長州藩尊攘激派は京都に志士を送り込み、公家を抱き込むと朝廷を操るようになりました。
そして暗殺と天誅が横行。
京都守護職・会津藩と、その配下の新選組が治安維持のために武力で抑え込むという、血の嵐が吹き荒れていたのです。

不在の薩摩に代わり、攘夷派公家を買収して台頭した長州藩。
この時期はまさにイケイケで、下関砲台からアメリカ船を砲撃する等して、攘夷へのやる気をアピールします。

もちろん諸藩は黙っているわけにはいきません。
久光、徳川慶喜らの有力諸侯が続々と上洛し、土佐藩も朝廷工作を画策しました。

同時に、荒れた治安を回復させるため、京都守護職として松平容保率いる会津藩士が上洛します。

容保は政治的な謀略を駆使するタイプではありませんでした。その誠実さがかえって孝明天皇に気に入られ、寵愛を受けるようになり、諸藩の嫉妬や反発を集めてしまいます。
幕末の政局というのはドロドロした「妬み嫉み」もあり、英雄がスカっと豪快にコトを運べたワケではないのですね。

松平容保/wikipediaより引用

 

長州藩を追い出し、政局を握ったのは「一会桑政権」だった

長州藩の台頭で政治力に翳りが生じ、焦り始めた久光は会津藩と手を組み、邪魔な長州藩を排除しようとします。

文久3年(1863年)8月18日。
孝明天皇の許可を得て御所の警備についた会津・薩摩藩の兵士たちは、長州藩と懇意の公家・三条実美らの参内を差し止めます。
そしてその後の朝議では、長州藩の京都からの退去が決定されました。

やっとの思いで長州を追い払い、久光としては発言力回復を期待したところでしょう。
しかし、この計画が脆くも崩れてしまいます。
一橋家慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の三名が主導する「一会桑政権」が、政局を握ることになったのです。長州藩を追い払ったと思ったら、今度は彼らに政治力を制限されてしまうのです。

慶喜らの政治力に敗北した久光としては、何としても失地回復をしたいところ。
そうなると頼りになるのが西郷です。
元治元年(1864年)、沖永良部島の西郷のもとに赦免が届いたのでした。

再び上洛を決意した西郷。
避けては通れぬ久光の対面を、周囲は固唾を呑んで見守ります……。
が、西郷はかつての西郷ではなく、尊大な態度をすっかり改めておりました。
調整役として、小松清廉小松帯刀)が二人の間に入ったのも、改善の要因だったのでしょう。

小松清廉(小松帯刀)/wikipediaより引用

一方、追放以来、怒りのおさまらない長州藩尊攘激派は、捲土重来を期しておりました。
薩摩藩と会津藩から京都を追われたと怒り心頭の彼らは「薩賊会奸」と履物に書き付け、憤怒をこめて踏みつけて歩いたとされています。

そしてついに長州藩士らが復権を狙い京都御所に進撃。
元治元年(1864年)、「禁門の変」が起こります。

京都蛤御門・銃弾の跡

戦いの詳細は省略しますが、当初は静観していた薩摩藩が援軍に駆けつけると、長州藩は敗走します。
西郷もこの戦いに参加していました。

 

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朝敵と見なされた長州を救うため薩長同盟を締結

「禁門の変」のあと、長州に対しては、征討の勅命が下されました。
参謀に命じられた西郷は「いざ長州を叩き潰すべし!」と意気込んでいましたが、そこで幕臣の勝海舟と出会います。

西郷は勝から思想的に大きな影響を受けました。

「もう幕府には、政権を担う力なんざねぇ。ここで長州を叩き潰してもいいことは何一つねえんだ。そんなことやるよか、諸侯が力を合わせて外国に立ち向かうべきだろ」

そう言われた西郷は、考えを180度改めます。すっかり勝に惚れ込んでおりました。

長州征討は、いくつかの条件のもとに和睦となりました。
その中身は「三家老・四参謀の切腹」と「藩主と世子直筆謝罪状の提出」、さらには「山口城の破却」と、八月十八日の政変で追われた三条実美ら「五卿の引き渡し」でした。
処分が寛大過ぎないか?
そんな疑問の声があがる中、征長軍は解散します。

しかし混乱に追い込まれた長州藩では、その後、奇兵隊で知られる高杉晋作らが穏健な「俗論派」を倒し、主導権を握ります。

過激な彼らが主流となれば再び火を噴きかねない。
こうした動きを見た幕府は、再び長州征討を企画。一度は矛を収めた薩摩藩は、幕府の決定に不服を覚えました。

この頃、西郷とは旧知の仲でもある土佐藩士の坂本龍馬らが薩摩と長州の提携に乗り出すのです。

そうです。
幕末では最大の出来事の一つである「薩長同盟」が結ばれ、後に統幕路線へ舵が切られるのでした。

※なお西郷は、禁門の変1864年と薩長同盟1866年の間の1865年に3人目となる妻・岩山糸西郷糸子)と結婚してます

イラスト・富永商太

しかし、この倒幕路線とは、あくまで西郷らの目指す方向です。
久光はむしろ警戒感を持っておりました。
武力行使を辞さない西郷と、強硬路線に反発する久光。やはりこの二人の対決が、禍根を残します。

というより、西郷が結んだ薩長同盟の目的も、倒幕そのものではありません。

朝敵と認定された長州藩の立場を救うことが第一であり、そのためには孝明天皇および朝廷から深い信任を得ることが必要でした。
同時に、政治の実権を握る「一会桑政権」(慶喜・容保・定敬)の打倒も視野に入っており、「慶喜打倒イコール倒幕」を当初から目指していたわけではないのです。

 

武力に依る倒幕しかない!

長州と手を結んだ薩摩は、かつて敵だったイギリスとも急接近。
イギリスでは薩摩藩の留学生を受け入れ、薩摩側も入港したイギリス艦を歓待しておりました。

英国艦隊をぶっ潰してやろう……という実力行使で手痛い失敗を受けた薩摩藩では、政策を180度転換し、彼らの援助を受けていたのです

一方の幕府はフランス寄りです。
欧州での英仏対立の構造が、日本を舞台にしても展開されていたのですね。

裏で長州と同盟を結んでいる薩摩は、幕府の長州征討に対し、一向に重い腰を上げません。
と、そうこうするうちに将軍家茂、一会桑政権の後ろ盾であった孝明天皇が立て続けに亡くなります。

これで幕府側が窮地に……と思われるかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。
家茂のあとに将軍となった慶喜の政治手腕は鋭く、薩摩が提案した長州処分の「寛典案」を取り下げる等、薩摩の面目を潰すこともしばしばありました。

また、薩摩藩は幕末の動乱の中で武力行使をし過ぎました。
財政は軍事費で逼迫。その責任を問う目は、西郷にも向けられます。
そんな状況下で、このまま慶喜を頂点とした幕府、政体が存在したらば、西郷は失脚を免れません。

西郷は決断を下します。
「ならば倒幕だ! 慶喜を将軍職から引きずり下ろし、朝廷で開かれる諸侯会議での政治を目指す!」

グレート・リセット路線へ舵を切り、政治主導権を握る――。
それが西郷の出した結論であり、タイミングのよいことに、久光が病のため京都から薩摩へ帰国。
ブレーキ役が不在となったことで、西郷の独走的な行動に歯止めが利かなくなりました。

彼ら薩摩藩は、武力による倒幕を目指して突き進むのです。

 

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方針の違う土佐と薩土盟約 なぜ?

こうした薩摩の強硬路線に歯止めをかけようとしていたのは土佐藩でした。
ソフトランディング路線での政権交替を目指す土佐藩の後藤象二郎は、大政奉還・王政復古・議会政治を条件とした政権交代案を提唱。薩摩藩と土佐藩の間に薩土盟約が締結されます。

武力征圧をしたい薩摩と、あくまで穏当な方法で政権交代を目指す土佐では方向性が違います。
それでもなぜ、薩摩は土佐と手を結んだか。

西郷は、慶喜がそうあっさり将軍職を返上するとは思っていませんでした。
「もし慶喜が将軍職返上を拒んだら、それをきっかけに戦争を起こす」
それが真の狙いだったのです。

武力討伐を目指す薩摩藩と長州藩は、慶長3年(1867年)10月、倒幕の密勅を取り付けました。
一方で土佐藩は大政奉還を求める建白書を提出します。
傑物と言われ、かつて島津斉彬も将軍に就けようとした徳川慶喜は、この土佐発のソフトランディング案に乗り、あっさりと大政奉還を認め将軍の辞表を出します。

徳川慶喜/wikipediaより引用

慶喜としては、たとえ将軍の座を明け渡したところで、政権を担える諸侯などおるまい、という計算もありました。
この見通しは正しかったと言えます。
「あっさりと将軍の座を捨てるなんて、たいしたもんだなあ。悔い改めて返上したからには、もう罪はないだろう。新政権にも是非迎えるべきだ」

慶喜の決断は世間から好評を得て、久光はじめ薩摩藩内にすらこんな風に歓迎する者が多かったのです。

どうにも狡猾に描かれがちな慶喜ですが、人間的には洗練されて魅力に溢れていた人物です。
国内からも、また日本に滞在する外国勢力からも「慶喜に厳しい処分を下してはならない」という声があがっていました。




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しかし、それは断固として武力討伐を目指す西郷にとっては受け入れられないことです。
将軍の座にしがみついた慶喜を、力づくで引き離して戦争を起こすもくろみは頓挫。
徳川の広大な領地と財産も、諦めるにはあまりに魅力がありました。

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