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西郷どん(せごどん)特集 週刊武春

西郷隆盛49年の生涯をスッキリ解説・年表付き!せごどん誕生から西南戦争まで

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大政奉還後の西郷は、逆に背水の陣となってしまう

もはや、なりふり構わず突き進むしかありません。
西郷は、長州に倒幕への決意を語ります。

薩摩藩内にも武力行使反対派がいました。
久光が反対派の筆頭なのですから、家臣に過ぎない西郷、大久保らが反対意見を押し通すのは異常なことです。

まさに背水の陣。

薩摩・長州ら倒幕勢力は12月、調停工作を行い「倒幕の密勅」を出させました。
さらには王政復古のクーデターを起こし、慶喜政治参画の野望を挫いて、会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬の帰国を決定します。

王政復古によって制定された三職(総裁・議定・参与)が集った三職会議、いわゆる「小御所会議」にて、土佐の山内容堂は慶喜の招致を求めますが、薩摩側は断固として反対。慶喜に辞官納地を要求します。
会議は紛糾し、ついには山内容堂の主張が通り、慶喜が議定に就任して領地も返上しないことが決まりかけました。

焦ったのが西郷です。

前述の通り、薩摩でも藩内一致で倒幕を目指してはおりません。
あくまで少数派、西郷の周辺だけ。
長州藩を除く諸藩は、その強引なやり方に反発し、冷たい目線を向けていました。

このまま倒幕派がくじけたら、西郷の失脚は間違いありません。
もはや西郷の選択の余地は、ない。
そこで彼は武力の道を選びました。

西郷の密命を帯びた井牟田尚平・益満休之助ら薩摩藩浪士隊が、将軍不在で治安が悪化していた江戸および関東一円で暴れ回ったのです。

 

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薩摩の悪行「薩摩御用盗」に江戸の町は恐怖の中へ

彼らの行動は現在の言葉で言うならばテロです。
強盗、放火、殺人、暴行。
しかも要人暗殺ではなく、警備の手薄な一般市民というソフトターゲットを狙った無差別殺傷でした。
現在の過激派組織は、世論の動揺や挑発のため、コンサートや駅で市民を巻き込む事件を起こします。幕末の京都で横行したターゲット狙いの暗殺より、こうしたテロに近いと言えます。

浪士隊の勢いは留まることを知らず、ついには天璋院がいる江戸城二の丸までも含めて、江戸城は三度も放火されるに至ります。

江戸の人々は彼らを「薩摩御用盗」と呼び、その悪行に震え上がりました。

警護担当の庄内藩・新徴組は当然ながら激怒。
薩摩藩邸で下手人の引き渡しを求めるうちに、藩邸は焼き討ちにしてしまいます(薩摩藩邸の焼討事件)。

確かに江戸城そのものは無血開城されたかもしれませんが、実際には多くの血が流れていたのです。

この知らせが大坂にいる幕府軍に届くと、風向きが変わりました。
幕府に藩邸を焼き討ちされた薩摩藩は怒り、武力行使もやむを得ないと考えを変更、西郷の望んでいた武力衝突の避けられない事態となるのです。

年明けて慶長4年(1868)1月、鳥羽伏見で新政府軍と幕府軍が激突!
数の上では幕府軍が勝るため、敗北することもありえると西郷は覚悟を固めていました。

しかし装備面で差がつき、勝利した新政府軍は「錦の御旗」を掲げて進軍。
この旗は即席と言っていいほど割と適当に作られたもので、正統性はどの程度あったか疑問はあります。
が、ともかく慶喜としては朝敵にだけはなりたくありません。

かくして慶喜らは、江戸を目指し上方から撤退。自ら謹慎し、恭順の意を示します。
静寛院宮(和宮)や天璋院も、慶喜の助命を嘆願しながら、西郷としては何としてでも切腹させたいと考えていました。

今後もし、再び徳川が力を得たならば、能力の高い慶喜は必ず巻き返しをはかるに違いない――そうなったら危険だと考えていたのです。

そこに現れたのが勝海舟でした。

 

江戸城の無血開城から突然の路線変更

勝に面会を求められた西郷は、これを受け入れました。

この時点で勝は、慶喜助命のための会談に全力で臨む一方、決裂した場合に備え、戦争の準備も整えていたのです。
が、その心配は杞憂に終わりました。

「江戸城無血開城」の実現です。

江戸城

歴史において燦然と輝く偉業のように思えるこの決断は、実は新政府から不満も出ておりました。

まず西郷は、幕臣が軍艦や兵器を持って逃げ出すことを看過してしまいます。
新政府からすれば、西郷が勝相手に譲歩したように思えたのです。
また、西郷の気持ちひとつで慶喜の命すら決まるような強引なワンマンぶり、ころころと変わる決断は、周囲の人々に不信を招くことになりました。

そしてなぜだか西郷は、この無血開城を機に、徳川宗家の寛大な処分を望むようになります。
あれほど強硬路線を目指していたはずが突然の180度転換です。現代の我々にとっても理解に苦しむ展開でしょう。

西郷は、江戸での彰義隊との上野戦争を指揮し、その後、出羽・米沢庄内へと転戦。
庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、激しい抵抗を示していました。そして力尽き、9月に降伏すると藩主以下厳しい処分を覚悟します。

彰義隊との上野戦争の様子/国立国会図書館蔵

が、西郷の意を受けた黒田清隆は寛大な処分を下したのです。
減封は16万石から4万石の12万石。改易された会津藩とは対照的でした。

あれほど血を流すことを望んでいた西郷は、すっかり変貌していたのです。
庄内藩士はこのことから西郷の徳を慕い、明治22年(1889年)には西郷の言動をまとめた『西郷南洲遺勲』を出版するほど。

しかし、この西郷の変貌は新政府にとっては受け入れがたいものでした。

戦いを終えた西郷を待っていたのは、新政府首脳部からの冷たい目線。
久光や彼の強引さに苦々しい思いを抱いていた薩摩藩士からの敵意でした。

フィクション作品における彼の絶大なるカリスマイメージからは想像しにくいかもしれませんが、さほどに理解しがたい行動だったのでありましょう。

そして西郷は新たな人生へと踏み出そうとするのですが……。

 

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激怒する島津久光のなだめ役を任せられ

望み通り幕府を倒し、戊辰戦争を起こし、勝利した西郷。
もはや斉彬の遺志は果たしたと、鹿児島に戻ると温泉で療養します。

役目を終えたという思いもありましたが、徳川側に厳しい態度を取る新政府についていけない部分もあったのです。

西郷は隠居するつもりではありました。
が、それは許されないことでした。
当時の薩摩藩は戊辰戦争から凱旋した兵たちが発言権を増しており、久光は苦々しい思いで彼らの台頭を見ていました。彼の不満を抑えるためにも、誰かが必要だったのです。

鶴丸城(鹿児島城)

藩主・忠義や周囲の懇願を受け入れ、西郷は薩摩藩参政、明治3年(1870年)には鹿児島藩大参事に就任。
反感を買いながらも、それまでの圧倒的な彼の人望や政治力は発揮され、藩内の政治不安を抑えます。

ただし、久光の鬱憤はとどまることを知らず、その矛先は西郷に向かいます。
幕府にかわって日本を支配できる――そんな風に時代錯誤な思い込みをした久光が悪いと語られがちな場面ですが、そもそもは、久光の意向と関係なく推し進められた新政府の方針について、説明不十分だったのが原因ではないでしょうか。

薩摩藩はじめ新政府は、当初、攘夷を訴えておりながら、維新が成功したとなるや180度方向転換して西洋流を取り入れたわけです。
このままでは日本流が廃れて西洋に染まってしまう。
そんな危機を覚えたのは、何も久光一人のことではないでしょう。

さらに西郷の倒幕活動は、久光から反対されていたにも関わらず、慶喜の腹を切らせるべくクーデターを行い、テロを煽動したワケです。
独断専行と批判されても仕方のない一面があり、「家臣にないがしろにされた」と久光が怒りを抱くのも自然なことかもしれません。

そして、久光の不満は何ら解消されないまま、新政府は「版籍奉還廃藩置県」へと邁進。
旧藩主の座は消えてなくなり、元藩士の大山綱良が権大参事(のちに県令)となるのでした。

久光は、もちろん激怒です。怒りのあまり、大規模な花火を打ち上げたと伝わるほど。
そして自らが県令の座に就くべく運動を開始するのですが、結局これも叶わずじまい。

一方の西郷は明治4年(1871年)、近衛都督・参議兼陸軍元帥に就き、軍部の頂点に立ちます。

久光の憎悪は強まるばかりでした。

 

征韓論争 「使節として朝鮮に渡り交渉をしたい」

江戸幕府から政権を奪った新政府は、朝鮮半島に目を向けるようになりました。

当時の李氏朝鮮は、対馬藩を経由して貿易を行う間柄。新政府ではこれを廃止し、新たに日本政府と交易するように求めたのです。

このとき日本が持参した文書に、朝鮮にとっては宗主国である清しか用いないはずの「皇」や「勅」という言葉が含まれており、朝鮮は反発しました。
しかし、この文字への反発は表向きのこと。
鎖国体制だった同国は、かつての日本のように開国に対する激しい抵抗感があったのです。

強硬な朝鮮の態度に対し、日本政府は徐々に不満を募らせます。
もはや武力行使もやむなしか?
そんな論調も高まる中、西郷が手を上げます。

「使節として朝鮮に渡り、平和的に交渉をしたい」

西郷にはネゴシエーターとしての才覚があります。長州征討の際にも敵の懐に飛び込み、解決に導きました。
敵の懐に飛び込んでどうにかするのは西郷が最も得意とするところ。
「俺さえ行けば何とかなる」
そういう考えがあったのかもしれません。

あるいは、不平士族の目をガス抜きのために外国へと向けたかったのか。
新政府への鬱憤を晴らしたかったのか。
体調不良で自暴自棄だったのか。
決定的な理由はわかりません。

しかし、大久保利通岩倉具視はそうは考えませんでした。
諸外国を実際の自らの目で見て、日本はまだまだ近代国家としては脆弱過ぎると考えた彼らは、外に打って出るより内政強化の道こそが正しいと考えたのです。
今後、もしも朝鮮と武力衝突などが起きれば、諸国から一斉に敵意を向けられるリスクも感じていたでしょう。

岩倉使節団の頃の木戸孝允(左)。ほかは左から山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)

結局、そんな大久保らの意見が通り、朝鮮への使節派遣はとりやめとなります。

西郷はこの決定を不服とし、下野して郷里に戻りました。

このとき同じく下野した板垣退助らは政府批判を強め、明治7年(1874年)に民選議員の建白を行い、後の自由民権運動につながります。
江藤新平佐賀の乱を起こします。

船出を始めたばかりの明治新政府は、早くも大波にぶつかったのです。

 

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「おいの体はさしあげもそ」

大久保ら盟友が新政府で確固たる地位についている中、西郷は国元で久光との確執に苦しみ続けました。
そしてその苦しみはやがて、新政府に向けられるようになり、失望へと変わります。

権力を手にし、蓄財に励み、私腹を肥やす官僚たち。
何のために粉骨砕身し、戊辰で血を流したのか?
こんな腐敗した政府を作るためだろうか?

新政府のやり方に不満を抱いていたのは西郷だけではありません。
郷里に戻った西郷のもとには不満分子が集まり始めるのですが、これはなにも鹿児島だけの話ではありません。
武士としてのアイデンティティ危機を迎えた士族たちは各地に大勢いました。各地で不平士族の蜂起が起こっていたのです。

中でも明治9年(1876年)萩の乱は、西郷同様に下野した元長州藩士・前原一誠が起こしたものだけに、意義深いものでした。

萩の乱を描いた錦絵/wikipediaより引用

政府を離れた西郷は、地元で私学校を開設していました。
そこへ、次第に不満をつのらせた士族が集まり始めます。
西郷は彼らの過激な言動をたしなめる立場でしたが、こうした不満分子が集まっている時点で、火薬を積み上げているような危険があったのではないでしょうか。

比喩だけではなく、文字通り本物の武器弾薬も鹿児島にありました。
当時海軍で使用する弾薬を製造していたのです。

「不満分子がこうした武器弾薬を手にしたらどうなるか?」

政府は、武器弾薬の回収を行うとともに、その状況を探らせました。
任に当たったのは薩摩藩出身の大警視・川路利良
かつては西郷の側近として鳴らした腕利き(とその配下の者たち)です。

彼ら密偵の目には、日々不満を募らせ鬱憤を語り合う西郷は、捲土重来を期しているように思えました。
そして、この密偵が思わぬ事態を起こします。
西郷の私学校の者が、川路の部下・中原尚雄を捕縛。中原が、西郷暗殺計画を吐いてしまったのです。

西郷はこのことを聞くと驚き、焦りました。
「しもた(しまった)!」
かつて江戸市中でテロを起こし、導火線に火をつけ、戊辰戦争に挑んだ西郷です。

これから何が起こるか、何に火をつけてしまったか。
理解したのでしょう。
そして彼は悟ります。

「おいの体はさしあげもそ(俺の体は差し上げよう)」




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もう、こうなったら暴発は止まらない。
薩摩での士族挙兵を知った新政府は西郷を朝敵と認定し、討伐令を下しました。

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