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西郷どん(せごどん)特集 週刊武春

西郷隆盛49年の生涯をスッキリ解説・年表付き!せごどん誕生から西南戦争まで

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西郷どんは、死して星になったのだ

明治10年(1877年)、2月15日。
総勢13,000を超える西郷反乱軍は、熊本に向けて進軍を開始(熊本城の戦い)。

西南戦争の始まりです。

不平士族も次から次へと合流。西郷挙兵の報は東京にも届き、新政府への不満を抱く庶民たちは西郷が勝つように祈るのでした。
判官贔屓という言葉がありますように、カリスマ西郷への憐憫の情というか期待は湧き上がるばかり。

しかし西郷軍は、新政府軍を過小評価していました。
明治政府の軍隊は、全国から集められた兵士。
つまりは徴兵制によってまかなわれており、そんなものたちなど薩摩武士たちの前では鎧袖一触(がいしゅういっしょく)であろう、とたかをくくっていたのです。

しかし、新政府軍とて、そう甘くはありません。
このころ普及し始めた電信で敵の動きを探り、戦況を把握。陸軍や警視庁に所属する旧会津藩士らは、今こそ戊辰の恨みを晴らすときと誓い、鹿児島に向かったのです。
徴兵制とはいえ、単なる寄せ集めではなかったのですね。

1877年3月20日、激戦の末、田原坂の防衛戦を突破した新政府軍は、熊本城へ。

激戦だった田原坂の戦いを今なお偲ばせる弾痕の家

支えきれなくなった西郷軍は撤退し、5月になると鹿児島に上陸した新政府軍を相手に、西郷軍は攻撃を仕掛けます。
鹿児島城下は戦火につつまれました。

鹿児島に入れなくなった西郷軍は、一転、宮崎を目指すものの、ここでも新政府軍に阻まれます。
さらには和田越で迎え撃とうとするも、西郷軍は敗北。
僅か六百名ほどで城山を目指したのでした。

しかし、そこへ辿りついたときには、残り三百名あまり。
9月24日早朝、新政府軍の総攻撃を受た西郷らは、潜伏していた洞窟を出ます。そしてそこから出て五百メートルほど進んだところで、腹と股に銃弾を浴びるのでした。

西郷隆盛の潜んでいた洞窟

「晋どん、もうよかろ」
同行していた別府晋介にそう告げると、西郷は切腹しました。

享年51(満49才)。
西郷の死のころ、火星が地球に近づき、赤く輝いていました。
その血のような色と西郷の非業の死を重ね、人々はこう語り合いました。

「西郷どんは、死して星になったのだ」

 

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熱いのか? 冷たいのか? 人に愛されるのか? 憎まれるのか? 人を愛したのか? 憎んだのか?

死後、西郷は伝説となりました。

勝海舟が彼を評したように、「度量が大きく、人に好かれ、人徳に溢れた人物」として、人々に愛されてきたのです。
英雄でありながら賊臣として非業の最期を遂げたことも、判官贔屓としての効果をもたらしました。

しかし、西郷の生涯を振り返ってみると、こうしたイメージは願望含みのものであると思えてきます。

西郷は人の好き嫌いが激しく、また周囲には味方だけではなく敵も大勢いました。
そうした敵の筆頭は主君である島津久光です。
両者の間には、からりとして豪快なイメージのある薩摩隼人とは異なる、ドロドロとした憎しみがあります。

軍服姿の西郷隆盛/Wikipediaより引用

では伝説化される前の西郷とはどんな人であったか。

事ここに至っても、知れば知るほどわからなくなってしまうのです。
新政府樹立の英雄となってから、賊将として落ちるまで。事績だけではなく、ありとあらゆる行動、思考の振れ幅が大きいのです。

月照と共に死のうと思い詰め、西南戦争では仲間を見捨てなかった。
こうした行動は仲間思いであり、熱い心にあふれています。

その一方で、味方すら容赦なく斬り捨てる冷酷さがあります。
例えば西郷の赤報隊への仕打ちは冷酷そのものです。
西郷の命を受け年貢半減令をふれまわった赤報隊は、年貢半減が実行できないとなると「偽官軍」として処刑されました。
赤報隊だけではなく、西郷は自分と対立したものとの処断に躊躇はなかったのです。

「敬天愛人」という言葉を好んだ西郷は、その言葉通り、庄内藩に対しては寛大さを示しました。
しかし、そもそも庄内藩が薩摩藩と対立したのは、西郷の密命を帯びた浪士隊のテロによる挑発がきっかけです。
目的のためなら手段を選ばず、ソフトターゲットを狙うテロ行為はからは「敬天愛人」の言葉に戸惑いを覚えずに入られません。

熱いのか?
冷たいのか?
人に愛されるのか?
憎まれるのか?
人を愛したのか?
憎んだのか?

大西郷――。
それは巨大な迷宮なのです。

小檜山 青・記

南洲翁終焉之地碑 (西郷隆盛終えんの地)

 

【西郷隆盛の年表】

1827年 1才 鹿児島で生誕
1839年 13才 ケンカ仲裁で怪我を負って刀を握れなくなり、勉学に励む
1839年 13才 蛮社の獄で高野長英や渡辺崋山などが捕らえられる
1840年 14才 アヘン戦争始まる(2年後に終わる)
1841年 15才 天保の改革水野忠邦
1844年 18才 郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命される
1850年 24才 農政に関する建白書を提出
1850年 24才 お由羅騒動勃発・赤山靱負の切腹で号泣する
1851年 25才 ジョン万次郎が帰国
1853年 27才 家督を継ぐ
1853年 27才 ペリー来航(翌1854年に日米和親条約)
1854年 28才 島津斉彬のお庭方となり江戸へ・政界工作に携わる
1854年 28才 藤田東湖と出会う
1855年 29才 橋本左内と出会う
1857年 31才 篤姫徳川家定が婚姻
1858年 32才 日米修好通商条約に調印(松平忠固が推し進めた)
1858年 32才 島津斉彬が急死
1858年 32才 安政の大獄で追われ、月照と共に入水・奄美大島で蟄居
1859年 33才 吉田松陰に死刑
1860年 34才 桜田門外の変
1862年 34才 和宮親子内親王徳川家茂へ降嫁
1862年 36才 奄美大島から帰還
1862年 36才 寺田屋事件で薩摩の攘夷派が島津久光に粛清される
1862年 36才 島津久光の怒りを描い、今度は徳之島&沖永良部島へ
1862年 36才 生麦事件
1862年 36才 高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件
1863年 37才 新撰組の前進・壬生浪士が結成される
1863年 37才 長州藩が下関戦争(英・仏・蘭・米)
1863年 37才 薩摩藩が薩英戦争
1863年 37才 八月十八日の政変で長州藩を京都から追放
1864年 38才 再び赦されて、京都における薩摩藩責任者となる
1864年 38才 池田屋事件(長土藩の攘夷派が新撰組に討たれる)
1864年 38才 禁門の変で薩摩&会津が長州を京都から追放
1864年 38才 佐久間象山が暗殺される
1864年 38才 第一次長州征伐で長州はソク白旗
1866年 40才 西郷隆盛と木戸孝允薩長同盟を結ぶ
1866年 40才 アーネスト・サトウが『英国策論』を執筆
1867年 41才 明治天皇が即位
1867年 41才 徳川昭武がパリ万博へ
1867年 41才 高杉晋作が結核で死亡1867年 41才 徳川慶喜大政奉還に応じる
1867年 41才 坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺される(近江屋事件)
1867年 41才 庄内藩が、薩摩のテロ行為に報復として江戸藩邸を焼き討ち
1868年 42才 鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争が始まる
1868年 42才 戊辰戦争の東征総督府参謀として指揮(江戸城無血開城)
1868年 42才 会津戦争・北越戦争・上野戦争箱館戦争
1869年 43才 版籍奉還
1871年 45才 廃藩置県
1871年 45才 岩倉使節団が欧米へ・西郷らが留守を預かる
1873年 47才 征韓論を機に下野し、鹿児島へ
1874年 48才 鹿児島に私学校を設立
1874年 48才 佐賀の乱江藤新平が死亡
1875年 49才 秩禄処分で士族の家禄等が剥奪される
1876年 50才 廃刀令により士族は帯刀の特権も奪われる
1876年 50才 神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
1877年 51才 西南戦争

 

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◆西郷どん特集!事前に読めば楽しさ2.7倍ぐらい

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※大河ドラマ西郷どんのキャストについては以下の記事をご参照ください

西郷どん全キャストと人物紹介!2018大河ドラマ【常時更新】

【参考文献】
松尾千歳『西郷隆盛と薩摩 (人をあるく) 』(吉川弘文館)
落合弘樹『西郷隆盛と士族』(吉川弘文館)
安藤優一郎『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房)




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