真田家 週刊武春

真田幸村(真田信繁)45年の生涯をスッキリ解説! リアルの幸村はどんな武将だった?

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昌幸の野望、そして第二次上田合戦

真田昌幸は、石田三成とこまめに書状のやりとりをしました。
そこで手にした情報では、圧倒的な石田方=西軍有利であったはずです。味方にしておきたい者には、自軍有利という情報を三成が送るのは当たり前でしょう。

そうしたバイアスを差し引いても、どの勢力もこの動乱が長引くと信じて疑わなかったのがこの時の状況です。結果を知っていると、昌幸と信繁が極めて楽観的であったと思いたくなりますが、そうではありません。

上田に向かう徳川勢を率いていたのは、家康の嫡子・徳川秀忠でした。

この秀忠が、
「上田城で思わぬ足止めをくらってしまい、そのために関ヶ原本戦に間に合わなかった」
というのがよく知られた説です。

しかし近年では、
「上田攻めはむしろ予定通りの行動であり、秀忠が関ヶ原本戦に遅参したのは家康が計画を変更し早めたため」
と、されています。

さてこの秀忠率いる軍勢ですが、質量とともに徳川方の主力ともいえる戦力でした。
家康としてはこの戦いで秀忠の武勇を印象付けたいという思いもあったのでしょう。
熟練の参謀的存在・本多正信を付け、万事取り仕切るようにさせたのはその証拠かと思われます。

イラスト・霜月けい

そしてこの軍勢の中には、信幸もいました。
彼は父と弟と対決することとなったのです。

以下、合戦の時系列での経過です。
軍記の記載もありますのでご留意ください。
(茶:真田/紺:徳川)

9月3日
徳川勢が上田城に到着。
この日、昌幸は徳川に味方した信幸経由で、剃髪後に和睦をしたいと秀忠に伝えました。
籠城側の兵力は3千です。その一方で、上田の領民には「敵の首一つにつき知行百石を与える」と呼びかけ、兵を集めておりました。
高まる真田勢の士気。

4日
昌幸は、態度を豹変させ和睦を反故にします。
「あいつは絶対にゆるさん!」
昌幸の言動があまりに無礼、挑発的であったのでしょう。秀忠は激怒しました。

5日
秀忠は信幸に砥石城攻略を命じます。
信幸が城に向かうと、城を守っていた信繁とその手勢は脱出していました。信幸は犠牲を出さずに砥石城を奪います。
この日の夜、信繁は敵に夜襲をかけようとしますが、相手の警戒が厳しく断念。

6日
秀忠は染屋原に本陣を置きます。そして城内から敵を誘い出すため、苅田を実施。しかし苅田中に徴発され、徳川勢は城へ接近してしまいます。
城に接近した敵に対し、真田方は鉄砲や矢を放ち、激しく攻撃。甚大な被害を与えたのでした。
真田父子はさらなる挑発を行い、神川を渡ります。追撃してきた敵に対して、昌幸は伏兵に命じて川のせき止めを切り落とさせ、水を流しました。流れに脚を取られたところを虚空蔵山麓にいた伏兵に襲わせ、さらに追い打ちをかけます。
徳川勢は討たれる者、溺死者を多く出し、敗退するのでした。
秀忠が攻めあぐねているうちに、予定を変更した家康から至急美濃に転進するよう命令が下され、徳川方は撤退します。

こうして第二次上田合戦は終わりました。勝利といってもあくまで、
「徳川方の作戦変更による撤退」
というカタチです。

もしも家康が作戦を変更せず、秀忠がそのまま上田城攻めを続けていたら結果は異なっていたかも知れません。

そうはいえども、兵力差がありながらも徳川方が陥落させられなかったこと、緒戦で真田方が勝利をおさめたことは事実。
小さな城に手間取ったことは秀忠の若さ故の経験不足、そして本多正信の不手際であると当時から認識されていました。

第二次上田合戦は軍記にあるような痛快な大勝利でないにはせよ、歴史に影響をおよぼした合戦であったことは確かです。

 

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九度山蟄居の日々

9月15日、真田昌幸・信繁父子が望みを託した石田三成ら西軍は、徳川家康の東軍に大敗を喫しました。

実は真田方はその三日後も、上田城を監視する徳川方に夜襲をかけています。
しかし、もはや決着はついていました。

信幸らの説得を受け、昌幸・信繁父子は降伏します。
家康の命によって上田城は破却。
長年にわたった徳川と真田の対立は、家康の完全勝利という決するのです。

上田領には、真田信之(信幸から改名)が入り、11万5千石の大名となりました。

家康は真田父子を死罪にしようと考えました。
が、信之は舅にあたる本多忠勝、本多正信らに父と弟の助命を嘆願します。
一説には、娘婿の信之を気に入っていた本多忠勝が「殿との一戦も辞さぬ!」という覚悟で迫り、さしもの家康もしぶしぶ折れたとされています。

「ああ、なんと悔しいことか! 家康めをこのような屈辱的な目にあわせてやろうと思っていたものを!」
昌幸は悔し涙を流しつつ、信之に別れを告げ、高野山へと向かいます。
慶長5年も末のことでした。

昌幸はこのとき54歳、信繁は30代前半でした。
当時の寿命を考えても、信繁は気力や体力をもてあます日々であったことでしょう。

なにせ生活費は信之からの仕送り頼みで困窮の極み。
生活費を稼ぐために、真田父子が「真田紐」を作り売り歩いたという逸話もありますが、伝承レベルであり史実かどうかは不明です。

信之も決して余裕があるとは言えない台所事情で、父と弟の生活を支え続けます。
生活費だけではなく、焼酎等の物資も送り続けたのでした。

蟄居生活は退屈ではあったものの、趣味のための時間を作ることはできたようです。
信繁は連歌に初挑戦し「なかなか上達しないがいつか興行したい」といった書状も残しています。
更には九度山でも子が何人か生まれ、兄・信之よりも子だくさんの父となりました。

戦国武将も愛した連歌が実はメッチャ面白い! 信繁も義光も官兵衛もハマってた

しかし、生まれきっての武士の彼らにその生活は厳しくそして辛いものでした。
はじめこそ楽観的で、赦免に望みをつないでいた父子ですが、歳月が流れ十年も経つと、悲観的にならざるを得ません。
真田昌幸は気鬱でふさぎこみがちになり、食事もろくに喉を通らなくなり、慶長16年(1611年)、無念の死を迎えます。享年65。

信繁も髭に白髪が混じり、歯は抜け落ち、病気がちになっていました。
30代前半という人生の盛りから十年以上蟄居し続け、心身ともに衰えるしかない環境です。

もしこのあと何も起こらなければ、真田信繁という男は父と同じく失意の死を迎え、歴史に輝かしい名を残すこともなかったことでしょう。
真田の家名も今ほど大きなものではなかったに違いありません。

 

大坂からの招待

父を失い、家族らと蟄居を続ける信繁。
連歌や焼酎でストレスを発散する日々は、大坂からの招待によって突如として終わりを告げます。

天下は動いておりました。
徳川家康は江戸に幕府を開き、諸大名を従え、新体制を着実に構築。
しかしこの新体制の中に、大坂の豊臣秀頼を含めることは未だできていなかったのです。

家康は歳をとり、秀頼は青年へと成長してゆきます。
そんな折、慶長19年(1614年)に起きた「方広寺鐘銘事件」は、タイムリミット間際の家康にとって絶好の好機でした。
それまではむしろ秀頼に寛容であった家康が、態度を変えます。「方広寺鐘銘事件」は、家康が仕掛けたというよりも、大坂方が最悪のタイミングで重大なミスを犯したのです。

それでもまだ大坂方には生存への道がありました。
家康としては秀頼の首は必要ではありません。彼らを江戸幕府の秩序に組み込めばよいのです。

両手両足を縛ってしまえば、いくら豊臣に恩顧を持つ他の大名たちとてそうは簡単に動けません。
かくして秀頼に対して突きつけた条件が以下のものでした。

1. 大坂城退去
2. 生母・淀殿を人質として江戸に送る
3. 駿府と江戸への参勤

大坂方は激怒し、この要求をはねつけました。
さらには徳川方との交渉を担当していた片桐且元を、謀叛を起こしたとして討ち取ろうとしたのです。且元は大坂城を退去するしかありません。

要求をつっぱね、しかも交渉窓口担当者を追放――これはもう宣戦布告に等しい行動です。
なぜ、そんな無謀な真似をしたのか。
大坂方は過去の栄華・権力を忘れられず、現在の情勢をまるで読み取れなかったのでしょう。

もはや開戦は待ったなし!
大坂方は各地の牢人に、味方するよう誘いの書状を送付。関ヶ原以来、主家を失っていた牢人たちは風前の灯だった野心に火をつけられ、セカンドチャンスを求めて日本各地からやってきました。

そこで信繁のもとにも大坂からの呼びかけが届いたのです。
信繁は一計を案じ、村人たちを酒宴に招きます。大いに飲んで騒いで、客人たちは皆泥酔。彼らが寝込んだところを見計らって脱出すると、信繁は抜き身の刀槍、火縄をつけた鉄砲を持ち、九度山を立ち去ったのでした。

 

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大坂冬の陣

大坂城に入った真田幸村。
※以降はドラマ『真田丸』に合わせて「幸村」と表記しますが、これまで通り史実を追って参ります

そこには錚々たるメンツが集っておりました。

黒田家を出奔していた「後藤又兵衛」。
尾張生まれで父と共に秀吉に仕えていた「毛利勝永」。
四国の頭領、長宗我部元親の息子・「長宗我部盛親」。
宇喜多直家宇喜多秀家に仕えていた「明石全登」。

戦力総数は不明ではあるものの、およそ10万人は集まっていたもよう。
彼らの多くが関が原を機に失職していた牢人たちであります。

大坂方は敵の来襲に備え、惣構えや砦の建設に着手し、防備を固めます。
幸村は、城の惣構南東の玉造口に砦を築きました。
これこそがドラマのタイトルにも用いられた「真田丸」です。

いったいどんな防御施設だったのか?

これについては今なお謎が多いながら、奈良大学の千田嘉博教授によって提唱された説が有力視されております。
「真田丸」は、大坂城に付随した単なる砦ではなく、堀から少し離れて建築された「(小さな)城」と見るものです。

城に頼るのではなく、独立して堅強な防御力を誇った「真田丸」。
ついに幸村は城主になった――。
少しセンチメンタルかもしれませんが、そう称して問題ないでしょう。

一方、攻め手の徳川方も、武器弾薬兵糧を十全に用意し、満を持して大坂城を目指しました。

大坂城内で軍議が開かれると、幸村は籠城ではなく出撃策を唱えます。
敵の足並みが揃わないうちに積極的に打って攪乱しよう。そんなスケールの大きな策です。
しかし大野治長らの反論にあい、却下されてしまいます。

ただし、この出撃策が史実であるかどうかは断定できません。
たとえ幸村自身がそう考えていたとしても、防備に忙殺されていた大坂方にそんな余裕があったかどうか。
これまた判然としません。

籠城策を取った大坂方において、幸村は「真田丸」に立てこもり、迎え撃ちます。

対するは、井伊直政の子・直孝。
前田利家の子・前田利常
利常はかなり濃い戦国キャラでありましたが、軍として見た場合、両者とも経験がありません。
大坂の陣に参戦した若い武将たちの大半は、これが初陣でした。

攻め手は城攻めの経験不足の者たちばかりで、「仕寄せ」(簡易バリケード)の作り方すらわかりません。
若い侍たちがその作成に四苦八苦していると、大坂方が鉄砲を射かけ、どうにも仕事が進まない。
東軍は、量は最高でも、質はお粗末なものでした。
「仕寄せ」を作れないだけではなく、軍としての機能すら失われているような現象も見受けられました。

味方崩れ。
パニック状態になって戦線が崩壊、敗走してしまう現象。
旗指物による判別がうまくいっていない証拠です。

味方討。
敵と誤認して味方を攻撃してしまう。
伊達政宗軍は神保相茂軍を味方討で壊滅に追い込み、笑いものになりました。

指揮命令系統はたやすく崩れ、戦線はしばしば深刻な崩壊を起こします。
天下統一の過程で戦が減り、関ヶ原から15年もブランクがあるのですから、当然の帰結とも言えるでしょう。

12月4日、前田勢は真田勢が陣取り、鉄砲を射かけて来た篠山を占拠し、その先にあった「真田丸」へと接近します。
飛んで火に入る夏の虫、格好の餌食でした。

「真田丸」の空堀に突入した前田勢は、激しい射撃によりたちまち命を落としてゆきます。
井伊勢も援護しようとしますが、これまた激しい射撃により為す術なく呆然とするのみ。ようやく援軍としてなだれこむと、混戦をかえって悪化させるだけになり、犠牲を増やすことになりました。

掘を登っても柵が作られ、身動きすらできないまま、次々に討ち取られてゆきます。

「真田丸」は、兵を飲み込む蟻地獄でした。

イラスト・富永商太

 

束の間の和睦、最期の挨拶

「真田丸」での大敗を聞いた家康は衝撃を受けました。

敗戦の報が諸国に広がるようなことがあれば、天下がゆらぎかねません。
そこで一計を案じ、ある男を幸村の陣へ送り込みます。

真田信尹。
昌幸の弟であり信繁の叔父でした。
信尹は十万石という破格の条件で寝返りを打診しますが、幸村は跳ね付けます。

そこで本多正純は条件をさらにつり上げ、信濃一国を提示。
この非現実的な条件は幸村を喜ばせるどころか怒らせ、彼は二度と信尹に会おうともしませんでした。

しかし、です。
幸村と信尹のこうしたやりとりが行われているころ、大坂方では和睦の機運が高まるのでした。
真田丸での奮戦により、東軍は攻めあぐねているものの、戦力差は大きく到底勝ち目はありません。

奮戦を知って西軍に味方する大名が現れるか?
そんな徳川の懸念、豊臣の願望が叶う気配もありません。
その上、間近に迫ってくる本格的な冬の気配。もはやこれ以上の戦闘続行は不可能でした。

和睦の条件として、大坂城の堀は埋め立てられ、真田丸も破却されます。
当然ながら、大坂城の防御力は大幅に低下。
これは家康の策略であり、無断で埋め立てたという説がかつて有力でしたが、現在では「大坂方も同意の上で埋めた」とされるています。

「城の防御力が低下して困る」
という考えは、再戦することがわかっている後世の人間のものです。
この時点で大坂方が和睦を履行するつもりならば、掘の埋め立ては妥当な要求とみなしたでしょう。

あるいは掘の埋め立ては、徳川方が面子を保つための条件であったとも周囲には伝わっていました。
あれだけの軍勢で包囲しながら、淀殿と秀頼母子を城の外までひきずり出すことはできなかったのです。
せめて掘だけでも埋め立てねば、格好が付かない、というわけですね。

和睦成立後、幸村は、甥にあたる真田信吉・信政兄弟(真田信之の子)の陣を訪れました。
幼いころ別れたきりであった甥は、たくましい若武者に成長していたことでしょう。

幸村は甥たちに語りました。
「関ヶ原で敗れた際に、兄上のおかげで助命されたというのに、このようなことになってしまいました。兄上はさぞや腹を立てておいででしょう。どうか二人から兄上にとりなしていただければと思います」

真田兄弟はこのあと、内通の疑いを避けるため、叔父との再会を幕府に報告。
幸村は旧知の人々に出会い、覚悟を語り残しています。

また、姉の夫・小山田茂誠に書状を送りました。
その心情は複雑で、様々な気持ちが入り混じったものでした。

「この和睦も一時のもの、私たち父子は、一両年のうちには討ち死にすることになるでしょう。私にとっては一軍の大将となり、討ち死にすることは本望。されど倅の大助はまことに不憫です。15年という人生を牢人として過ごし、やっと世に出たと思ったら討ち死にするさだめとは……」

このまま虚しく朽ちるかと思われた人生で、華々しく戦う舞台を得た喜び、高揚感。
兄のおかげで助命されながら、それに背いて親族に迷惑をかけてしまう申し訳なさ。
まだ幼い我が子・大助の命を奪うことになってしまった苦しみ。
残してゆく妻子の身を案じ、その幸せを祈る気持ち。

これまでの人生を振り返りつつ、残り少ない日々をどう生き、どう散るか。

死を前にした幸村は、苛烈な戦いぶりとは異なる、繊細で人間味あふれる心情を残していたのでした。




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そして哀しき大坂夏の陣へ……。

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