真田家 週刊武春

真田幸村(真田信繁)45年の生涯をスッキリ解説! リアルの幸村はどんな武将だった?

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大坂夏の陣

掘を埋められた大坂城は、無力な巨大建築物と化したわけではありません。

信繁はまもなく再戦するだろうと予感していましたが、それは当たります。
城に立てこもる牢人たちがいる限り、再戦は避けられません。

大坂方が集めた牢人たちは、ただ腕っ節が強い者たちではありません。
徳川という新秩序の中、居場所を失いドロップアウトした者たちです。和睦が成立したからといって、彼らには行く場所はありません。
いったん大坂方に味方した彼らが武器を置いたところで、どうしようもないのです。大坂城を離れたところで、彼らを仕官させる大名家はありませんでした。

秀頼は、とりあえず大坂城に蓄えられた莫大な金銀を配り、牢人をなだめることしかできませんでした。
しかし、こんなものは焼け石に水に過ぎないのです。
大坂城内も意見が割れていました。徳川との和睦を遵守したい豊臣秀頼・大野治長らに対して、治長の弟・治房は真っ向対立します。治房は牢人たちの動きを支持しました。

牢人たちは掘を掘り返し、武器弾薬兵糧を買い付け、不穏な動きを見せます。
何万人もの牢人が、武装して城にいるわけです。不穏な動きは、当然江戸に伝わりました。

秀頼らは、和睦条件の完全履行をあきらめたわけではありませんでした。
城を出て新たな国に移れば命は助かるのです。
しかし、牢人にとってそれは破滅を意味するもの。彼らを養えるだけの国を、徳川が気前よく秀頼にくれてやるはずがないのです。

「召し放たれて野垂れ死ぬくらいならば、大坂城を枕に討ち死にしてやる!」

牢人たちにひきずられるようにして、秀頼らもまた次なる開戦へと突き進んでいきます。

家康にとっても「反幕府武装勢力」の牙城と化した大坂城を、放置するわけにはいきません。
和睦と統率がとれない大坂方は家康に見限られ、4月、ついにタイムリミットを迎えたのでした。

4月13日、大坂方は作戦会議を開きます。
信繁は防御力を失った城から出撃し、近江国瀬田で敵を止める作戦を提案します。
しかしこれはかなりリスクが大きい作戦でもあり、反対意見に呑み込まれてしまいます。

後藤又兵衛は、妥協案として天王寺近辺での迎撃策を出します。
大坂方は迎撃と同時に、周辺国で一揆を煽動して攪乱、地侍たちに対して味方につくよう誘いをかけました。

しかしこの策は不発に終わります。
4月29日の樫井の戦いでは塙団右衛門ら有力武将、多くの兵を失いました。
5月5日、道明寺の戦いでは、後藤基次が奮戦するものの、敵との戦力差を埋めることができず、伊達政宗軍によって討ち死にを遂げます。
後詰めに駆けつけた明石全登も大軍を支えきれずに撤退。傷を負いました。

幸村も後詰めとしてこの戦いに参戦し、伊達政宗軍と激戦を繰り広げます。
真田の軍勢は片倉重綱(小十郎景綱の子)に率いられた敵に猛攻を仕掛け、数での劣勢をものともせず押し返します。
伊達勢は武器弾薬が底をつき、敵の撃退を諦めるしかありません。

真田幸村の12歳の娘(超絶美少女)が伊達政宗の仙台藩にかくまわれていた!

しかし両軍とも損害は大きく、真田勢もまた疲弊していました。
真田大助も脚を負傷していました。

5月6日の八尾・若江の戦いでは、木村重成らが戦死。

大坂方の戦力は削がれ、限界が近づいていました。

 

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茶臼山に咲いた満開の赤備え

5月7日。
茶臼山に布陣した真田隊は、その赤備えがまるで満開の躑躅の花のようでした。

鹿角の兜をかぶり、河原毛の愛馬にまたがった大将の幸村は、その中でもひときわ目立った存在。
今日こそが決戦の日になると考えていたのでしょうか。
あるいは目前に広がる敵勢を見て、もはやこれまでと覚悟を決めたのでしょうか。

幸村は大助を呼び出し、告げました。
「お前は脚を負傷している。活躍は見込めまい。秀頼公のお側に参り、最期まで付きそうのだ」

大助は父の命に抗い、父子ともに死ぬまで戦いたいと願いました。
父子の言い争いはしばらく続き、幸村が大助の耳元で何事かささやくと、やっと馬に乗ります。
しかしそれでもなかなか側を離れようとはしません。

ここで別れたら、二度と会うことはないと互いにわかっていたのでしょうか。
大助は父の方を振り向きながら、名残惜しそうに立ち去ります。

幸村は大野治長に、秀頼自らの出馬を請いました。
豊臣の威光を示す千成瓢箪が戦場で輝けば、どれほど士気が高まることでしょう。
城からは、使者を通して、秀頼の出陣を合図に合戦を始めるとの返事だけがありました。

茶臼山にいる敵の様子をうかがう幸村。
午後になると、松平忠直の軍勢が前を通りかかりました。
松平勢は真田勢を狙って来たわけではなく、見通しの悪い道を通っているうちに偶発的に出くわしたのです。

両者、鉄砲による小競り合いから、本格的な戦いに発展します。
そして混乱する戦場で、浅野長晟が離反したという虚報が流れ、東軍は混乱に陥り、もろくも崩壊するのでした。

統国寺の庭の裏から見える茶臼山(photo by 北村美桂@歴史おじ散歩

 

不幸な、あまりに不幸な誤認

ついに来た、好機――。

家康は「味方崩」を察知し、立て直そうとします。
しかし、旗本衆までが戦線崩壊してしまい、ますます混迷を極めます。
最後の盾となるはずの旗本衆が散り散りになり、我先にと逃げ出したのです。

それでも踏みとどまった僅かな旗本衆は、文字通り家康を死守すべく奮戦。
このとき、大坂方がひるむことなければ、家康は腹を切っていただろう——と、戦場の様子を聞いたイエズス会士は書き残しています。

では、そのとき何が起こったのか?
それは、不幸な偶然としか思えない出来事でした。
十騎ほど供を連れて出馬していた大野治長が、出陣のタイミングがわからない秀頼の呼び出しを受け、退却したのです。

大坂方にとって不運だったのは、よりにもよって治長が秀頼の馬印を掲げていたことでしょう。

東軍を相手に奮戦していた牢人たちも、治長の撤退、さらには城内に虚しく戻る秀頼の馬印を見て、自分たちの敗北を悟りました。
不幸な、あまりに不幸な誤認。
東軍を襲っていた「味方崩」の大波は、今度は西軍に襲いかかったのです。

天王寺口では真田幸村・毛利勝永が猛攻撃を仕掛け、岡山口では大野治房が秀忠相手に大健闘をしているタイミングでした。
治長が城に入ると、城で待機していた兵士たちが敗北かと動揺し始めます。
さらに真田大助が入城すると、敗れた幸村が「我が子だけでも逃がしたのではないか」と更に大きな動揺を呼び起こすのです。

治長は秀頼に出馬を請い、秀頼も準備を始めました。
明石全登に出撃を命じ、いざ出陣!というそのとき、城内に「先手が崩れている」との知らせが届きました。

かくなる上は戦い、討ち死にすべき!
秀頼は決意を固めますが、家臣からは籠城し、自害すべきだと進言されます。

秀頼が逡巡していると、突如、大坂城内から火の手があがります。
火をはなったのは、大角与左衛門という、秀吉の頃から使えていた料理人。
この火の手を見て西軍の将兵は絶望するしかなく、一方の東軍将兵たちは歓喜に沸きます。

真田幸村の援軍に駆けつけるはずであった明石全登も、もはや機を逸しました。
時既に遅し。
数で勝る敵軍相手に敗退し、そのあと行方不明になっています。

誤解はさらなる誤解を生み、裏切り者に火まで放たれ、もはや西軍の勝ち目は完全にゼロ。
太閤秀吉の遺児として生まれた豊臣秀頼は、一度も戦場に立つことなく短い生涯を終えることになるのでした。

 

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日本一の兵

城内の混乱、秀頼の逡巡を知ることもなく、真田幸村は松平勢と一時間ほど戦い続けていました。

懸命に戦い続ける真田勢に、井伊直孝軍、藤堂高虎軍が横槍。
満身創痍の真田勢は、七手組(豊臣家に使える馬廻・旗本衆)に加勢を願いますが、彼らは動こうとはしません。
既に東軍へ内通していたのです。

奮戦むなしく、真田勢は手足をもぎとられるように分断され、戦闘力を失ってゆきます。

家康まであと一歩!

今まさに悲願の叶うその直前、ついに真田勢も撤退を余儀なくされました。

同時に毛利勝永軍も城内へ撤退。
真田幸村自身も重傷を負い、昼から続いた戦いで心身ともに疲れきっています。

幸村は、馬で撤退する最中に松平家臣・西尾仁左衛門宗次と遭遇。
抵抗するだけの余力はなく、首を取られました。
安井天神付近でのことであった、と伝わります。

享年も、最期の場所もハッキリとは伝わらなかった真田幸村。
しかし、その勇猛果敢ぶりは「真田日本一之兵」と島津忠恒によって讃えられました。

家康も敬意をもって幸村の首実検を行います。
もはや首だけとなったその姿を見るために、多くの武将たちが首実検の見物に訪れました。

同日(5月8日)、大坂城内――。

父を心配していた真田大助は、落ち延びた兵からその最期の様子を聞き、涙を堪えていました。
大助は母から与えられた数珠を手に、念仏を唱え、秀頼に殉じる時を待ちます。

まだ幼い大助を見て周囲の人々は憐れみました。
「豊臣譜代でもないのだから、秀頼様の最期を見届けることはありませんよ。早く落ち延びなさい」

彼らはそう諭し彼を逃そうとしますが、大助は父から秀頼様にお供せよと言われたと拒み、殉死を遂げます。
大坂城は落ち、豊臣秀頼・淀殿母子も自害を遂げました。
大助を除く幸村の妻子は大坂の陣を生き延び、その後も人生を送ることとなります。

兄の信之は、大名・真田家当主として、93という驚異的な長寿を全う。
病に悩まされ、多くの人々を送りながら、弟とは別の厳しい戦いに挑み続けるのでした。

 

後世に英雄視された姿とは違う、人としての迷い

真田幸村という人物の生涯を辿り、筆を進めていても、なかなか浮かんでこない考え方や性格。

大名であれば幼少期から逸話が残り、彼自身の生きてきた証を見ることができるのですが、幸村の場合は違います。
関ヶ原までは父の影に隠れている人生です。

上杉や豊臣から信頼を得て、大谷吉継の娘を娶り、評価されているからには、人間的にも魅力があり、才知に溢れていたであろうことは、なんとなく想像がつきます。
ただし、具体的にどこがそうであったのかはつかめないのです。

彼の性格や人間性がつかめたのは、蟄居後以降です。
連歌がなかなか上達しない、焼酎をもっと送って欲しいという書状からは、あたたかみが伝わって来ました。
大坂の陣和睦の際に家族に吐露した思いからは、彼の人柄が伝わって来ます。

チャンスをつかんでここまで来たものの、そのことで助命嘆願した兄を裏切り、我が子の一生を短いものとしてしまった……弟として、父として、迷う姿からは生々しい人間性が伝わってきます。
後世に英雄視された姿とは違う、人としての迷いがそこにはあります。

最後に蛇足です。
本稿をお読みくださっている方にとっては当たり前かもしれませんが、2016年の大河ドラマ『真田丸』は、幸村の人生を描いたドラマとして最高の作品でした。

史実を丹念に追いつつ、その隙間を三谷幸喜氏の発想と優れた筆力で補う、まさに傑作。
執筆中もずっと『真田丸』のことを思い出しておりました。

もしも未見の方がいらっしゃいましたら、是非一度ご覧いただければと思います。

文:小檜山青




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【参考文献】
真田信繁』平山優(→amazon link
『真田信繁』三池純正(→amazon link
『真田昌幸』黒田基樹(→amazon link
『真田 信之』黒田基樹(→amazon link
『真田丸の謎』千田嘉博(→amazon link

 



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