上杉鷹山/wikipediaより引用

江戸時代 週刊武春

上杉鷹山は江戸の改革王!巨額の赤字を立て直す渾身の経営術とは?

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財政再建の名君と称され、TVや書籍でも度々注目される上杉鷹山

彼は、あの謙信公が引き継いだ上杉家→米沢藩の九代藩主でありますが、そこでちょっと気になりません?

「そもそも米沢藩って、なぜそんなに財政がガタガタだったの?」

以下の記事に、その理由がわかりやすく記されておりますが、

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も ...

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今回は、さらに鷹山の手腕を深掘りしてみたいと思います。

いったい鷹山は、どんな財政状態の上杉家を立て直し、それはいかなる手法であったのか?

 

120万石→30万石 発端は「直江状」だった

そもそも米沢藩上杉家が困窮するようになったのは、「関ヶ原の戦い」での敗北が根本にあります。

先ほどの記事の通り、確かに上杉景勝と直江兼続は藩士の削減をしなかったのですが……これを美談と言い切るのも、ちょっと厳しいのです。理由は後述します。

「直江があんな長い手紙で煽らなければこんなことにはならなかったのに!」
という藩士の怒りがくすぶり、江戸期には直江兼続を「家を傾けた奸臣」と評価する声もありました。

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藤原惺窩が兼続を「奸臣」と評価したという話も伝わっております。

兼続自身も存続させようと思えば可能であった直江家を断絶させておりますので、思うところがあったのかもしれませんね。

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三代藩主・綱勝が急死し、石高は半減

悪いことは続くと言いましょうか。三代目・綱勝が藩の財政難に拍車を掛けます。

彼は財政難を気に掛け、藩士には「一汁一菜」を命じておきながら、自分自身は能楽や狩猟にのめり込むという困った性格でした。そのための莫大な費用は代官や商家から借ります。それまで低空飛行なりに借金だけはしなかった米沢藩ですが、ここで借金という禁じ手に手を出してしまいます……!

しかもその定勝は世継ぎのないまま26歳で急死。御家断絶もありえたのですが、二代藩主・綱勝正室の父にあたる会津藩主・保科正之が奔走してそれだけは回避します。

正之は幕府にかけあい、吉良上野介義央と綱勝の妹の間に産まれた子・綱憲(当時2歳)を養子にするよう交渉したのです。

交渉はまとまり、米沢藩は取りつぶしという最悪の時代は逃れました。
しかし、相続できたのは半分だけ。石高は15万石になりました。120万石時代からついにその十分の一にまで落ち込んでしまったのです。

 

「昔は景虎だった上杉だけど、今じゃ猫だよ」

しかし回避したのはあくまで最悪の事態、です。
石高がまたダウンしたのに、それでもリストラをしないという方針を貫いたため、財政はますます悪化。藩士の生活は困窮しました。

藩は「知行借り上げ」というこれまた際どい禁じ手にも手を付けてしまいます。

これは家臣の俸禄の半分を藩が借り上げるということです。例えば五十石取りならば、二十五石を借り上げという形で減らして支給されると。

要するに永久減給ですね。月給二十万のところを、会社が借り上げるという名目で十万取り上げられたらどうなるか、という話です。まさに禁じ手でした。

しかも綱憲は成長すると、藩士の困窮を無視して華美な生活を送るようになるのです。

本人だけならまだしも、その父・吉良義央も派手な生活を送っています。義央は幕府要人や大名との交際が多く、禄高は4千2百石となかなかあるにも関わらず、財政は常に火の車であったのです。

現代人ならばここで「お父さん、ちょっと生活を見直しましょう」となるところです。

しかしこの時代はそんなことは絶対に言えません。藩主の実父を困窮させてはおけないというわけで、定期的に仕送りをする羽目になります。その額は年間6千石。さらに吉良邸新築費用8千両も米沢藩が負担しました。

吉良義央は『忠臣蔵』で有名な「赤穂事件」によって襲撃され、死亡してしまいます。

この時、実父が襲われたのに綱憲が援軍を出さなかったことが、卑怯で臆病だと世間には思われてしまいます。

「昔は景虎だった上杉だけど、今じゃ猫だよ」
「謙信公も子孫の体たらくに嘆いていることだろうよ」

なんて江戸っ子から皮肉られてしまう始末。まさに踏んだり蹴ったりでした。

上杉鷹山像

 

人多すぎ、藩主散財では立て直せるワケがなく

五代目から八代目までの藩主交替の間にも、米沢藩はますます逼迫してゆきます。

代々の藩主は病弱で夭折してしまったり、政治に無関心だったり。しかも幕府からの普請は命じられるわ、飢饉は起こるわ。

禁じ手だった藩学の知行借り上げは定着。領民には7千両の借り上げ。人別銭や軒銭といった増税も相次ぎ、藩士から領民まで皆疲弊しきっていました。

江戸時代も中期となると、どこの藩も改革に迫られます。

天災、疫病、産業構造の変化、人口の伸び悩み、幕府に命じられる普請手伝い……その中でも、米沢藩は全国屈指の困窮ぶりです。

それも当然。藩の規模にあわない藩士の数がおり、窮乏を無視して散財にふける藩主がいればどうにもなるワケありません。借金はついに20万両にまでふくれあがりました。実に、藩予算の総額6年分になります。

江戸の商人たちは返済能力がもはやないとみなし、米沢藩に金を貸すことはなくなりました。よって藩は家臣からの借り上げ、増税、宝物を質に入れるという禁じ手を使い、糊口をしのぐほかありません。

借金苦のあまり、米沢藩は領地返上、すなわち自己破産を真剣に検討し、尾張徳川家から止められたほどです。

そんな状態でも藩主は無策無能、趣味にかまけるばかり。藩の上層部は、そこで一人の少年に未来を託します。
世子、つまりは次期藩主となる長丸、のちの上杉鷹山でした(彼は何度か改名しますが、本稿はこれ以降、全て鷹山とします)。
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