安禄山/wikipediaより引用

週刊武春 中国

安禄山と楊貴妃の赤ちゃんごっこが「安史の乱」に繋がり、数千万人が死す

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確かに李林甫は、政敵を追いやる狭量な男ですが、同時に政権運営を担うだけの実力も備えておりました。
しかし楊国忠は、所詮は単なるチンピラあがりです。
安禄山は小僧と馬鹿にしており、やがて両者は対立するようになります。

そしてついに安禄山は、史思明とともに、楊国忠打倒を目指して挙兵するのです。

 

名将と忠臣の悲惨な最期

絶大な力を持つ安禄山と史思明は、破竹の勢いで進撃。
その前に二人の名将が立ちはだかります。

高仙芝と封常清です。

彼らは不幸でした。
戦術眼に長けた彼らは敢えて戦術的撤退をして防衛しようとするのですが、監軍(軍の監視役)の辺令誠はそれを敗戦だと非難します。
辺令誠は宦官で軍事的なセンスは皆無ですが、玄宗に取り入る力だけはありました。

「素人は黙っとれ」
二将はそう言いたいところでしょう。
が、それも虚しく……冤罪でついに処刑されてしまいます。
彼らの後任者はあっさりと安禄山に降伏してしまうのでした。

総崩れの唐軍の中、忠臣として活躍したのが顔真卿をはじめとした顔一族です。
彼らは義勇軍を率いて、捨て身の覚悟で安禄山らの進撃を阻止しようとしました。

顔真卿/wikipediaより引用

なお、顔真卿は書道家としても名高く、その書体は空海にも大きな影響を与えたほどです。

台湾国立故宮博物院でもトップクラスのお宝、顔真卿の「祭姪文稿」。その出来に感激した鑑賞者がハンコを押しまくってます/wikipediaより引用

顔杲卿も、劣勢の中粘りました。
そしてついに捕らえられ、安禄山を罵り続けます。

罵声に耐えかねた安禄山は舌を切り取り、全身を細切れにするほど。
いやはや、なんとも壮絶な忠臣の最期です。

ここにきて玄宗は楊貴妃を連れて、蜀へと脱出。その逃避行の中で、悲劇が起こります。
楊貴妃が着いていくならば護衛しないと兵士達が騒ぎ出し、やむなく玄宗は彼女を殺すことになるのです。

 

皇帝僭称からスピード暗殺 犯人は実の息子だった

756年、正月。
安禄山は、洛陽で雄武皇帝として即位し、国号を燕としました。

しかしこの頃から徐々に自堕落になり、目の病気にもかかります。
そのストレスから周囲に当たり散らし、部下に見放されます。

そして即位から僅か一年後。
安禄山は二男の安慶緒と宦官の李猪児によって大きな腹をブスリと刺されて、あっけない最期を迎えるのです。

「我が子にやられるとは!」

安禄山は絶叫。
腹からは内臓が数リットル流れ出したと伝わります。

その後、乱を起こした安禄山の子と、史思明の一族らは互いに殺しあい、乱は9年でやっと終息します。
同時に唐の全盛期も終わっていました。

領土を失い、輝きも失せ、かつての繁栄を失うのです。

 

赤ちゃんごっこが結果的に凄まじい犠牲者を産む

国際的な大帝国であった唐。
その終わりの始まりが、世紀の美女・楊貴妃と巨漢・安禄山による赤ちゃんごっこだと思うと、どうにも虚しくなります。

悲劇が降りかかったのは楊貴妃だけでなく、高仙芝や封常清、顔杲卿らも同様です。

前述の通り、この乱では第一次世界大戦よりも多数の死者数が出ています(参照)。

・第一次世界大戦が推計 854万人~2,100万人
安史の乱が推計 1,300万人~3,600万人

同時にこの乱は、中国史において大変難しい課題をつきつけてきました。

「異民族に滅ぼされたら困るけど、異民族からの侵攻を防ぐために軍隊に力を持たせたら、それはそれで危険」

このバランス取りが実に難しい。
中国大陸という広大な地を治めるのはそれだけで困難であるという、そんな歴史が見えてくるのです。

なお、余談ですが。
主君である自分の意に背く巨漢の西郷隆盛を、島津久光は憎しみをこめて「あの安禄山め!」と罵っていたそうです。

文:小檜山青

【参考文献】

『裏切り者の中国史 (講談社選書メチエ)』(→amazon link

 



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