北里柴三郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 週刊武春

東大とバトルし女性関係も激しかった北里柴三郎~熱血肥後もっこすの78年

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【新紙幣1千円札】の顔に決まった北里柴三郎
彼にとっては、弟子である野口英世と交替するかたちです。

貧家に生まれ、左手に障害を負いながらも、母はじめ周囲の愛を受けた野口。
アメリカで国際結婚し、異国の地で黄熱病に倒れた最期といい、彼の人生は劇的でした。

しかし、業績となると、実は野口のものは、現在では否定されるものも多い。

一方、その点では、北里の方が勝るとされていますが、なのになぜ、伝記では圧倒的に野口に人気があるのでしょうか?

答えは、北里柴三郎の生涯そのものにあります。

東大派閥と激しく戦い続けたばかりか、自身の女性関係スキャンダルをメディアに取り上げられ――品行方正とは言い難いながらも、その一方で信義に篤い、北里柴三郎の人生を振り返ってみましょう。

 

阿蘇国・北里に生まれる

時は黒船来航前夜の嘉永5年末(1853年)。
阿蘇国の小郷郡北里村庄屋・北里家にて、一人の男児が誕生しました。

父は惟信、母は貞。四男五女のうち長男です。
このうち男二女一は夭折しています。

父方は総庄屋、母方は久留間藩士・加藤家となります。
家老に次ぐという名門の家に生まれた母は気の強い女性で、西南戦争では家にやってきた兵士に一歩も引かなかったとか。
父方は先祖をたどると、清和源氏がルーツの郷士です。

清和源氏までさかのぼれる。
母も、武士の娘として気丈。

そうした生まれから、北里柴三郎は「肥後もっこす」として、武芸をおさめようとしていた頃もあるほどでした。

しかし、両親はそのことを望みません。
これからはむしろ知能の時代。そう考えたのでしょうか。それとも聡明さを見抜いていたのか。

そう考えた両親は、安政5年(1858年)に寺子屋に我が子を入れます。

8歳になると、父方の伯母が嫁いだ橋下淵泉の家に預けられ、その父である漢方医・龍雲から四書五経を習います。

学問を究めるまで、家に戻るな。母はそうきつく我が子に言いつけました。
そのため、彼はほぼ北里家に戻ることなく、ひたすら学問を続けることになります。

この年は「安政の大獄」前夜でした。

安政の大地震(安政江戸地震)を中心とした幕末の天災 倒幕にどれほどの影響を与えたか

日本には、海を越えた脅威が迫っておりました。

黒船ではありません。
コレラです。

人の行き来が急増した幕末とは、パンデミック到来の時代でもあります。
北里家の幼い子供たちニ男一女も、この歳に立て続けに亡くなっているのです。

 

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「肥後もっこす」の進路選択

慶応2年(1866年)、熊本に遊学し細川藩士子弟と学んだ際には、武芸に熱がこもりすぎたようです。
北里柴三郎には、学者としてのイメージがあるかもしれません。

しかし、彼は誇り高き熱血肥後もっこすでした。

最先端の流行を、敏感に追いかけたい。
武芸を鍛錬し、武士になりたい。
政治家になって、世の中を動かしたい!

そういう出世欲があったことも、なかなか重要です。
気も強く、彼はその人生において、衝突が多い人物でもありました。

明治2年(1869年)、北里は念願の細川藩校・時習館に入学しています。

が、明治政府によりこの藩校は閉鎖されてしまい、迎えた新時代。
北里柴三郎の進路には、いくつかルートがありました。

◆1 士族への道

士族として、熊本の仲間と新政府に悲憤慷慨する。
もしこの道を選べば「神風連の乱」でバッドエンドルートだったかもしれません。

不平士族の反乱マトメ(佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争)

◆2 陸軍兵学寮に入って軍人だ!

本人は当初、それを望んでいました

◆3 故郷で塾の先生にでもなってくれ

これが両親の希望です。

両親の考えから、逆に息子の性格も見えてきます。
熱い肥後もっこすだったのでしょう。

きっと士族にせよ、軍人にせよ、知勇兼備の者として出世できたと思われます。
ただ、激情にかられ、高慢なところもある――親としては、不安になっても仕方ありません。

そんな折、当時の藩主・細川護久は「再春館」を再構築して、西洋医学の講習所を開こうとしていました。
医者であれば、まずは安心ではないのか。両親はそう勧めてみます。

しかし、息子は一蹴。

「医者と坊主は、一人前の男児が為すべき仕事ではない!」

天下国家のために、知友を磨いてきたのに、医者なんてとんでもない。
これは江戸時代以前からの、伝統的な思考でしょう。
当時は現在とは異なり、医者は特に尊敬を集める職業ではありませんでした。

このあと短い書生生活を経て、北里柴三郎は両親の希望通り医学を目指します。
このあたりも、野口英世との違いですね。

物語にするとして、どちらが劇的かと言われたら?
そりゃあ、左手手術に感激した野口英世となりましょう。

実は遊び人の野口英世と彼を支えた人々 偉業は一人にして成らず――

 

熊本から東京へ、医学へと進む

本人にとっては不本意であった、医学の道。
明治4年(1871年)、熊本にある古城医学校(のちの熊本医学校)に北里柴三郎は進学しました。

熊本では「神風連の乱」という混乱も起きますが、北里は巻き込まれておりません。

学校では、長崎から招かれたオランダ人海軍軍医・マンスフェルトが指導にあたっていました。

マンスフェルトは、北里柴三郎の聡明さと語学力を見出します。
もしも進学が数年ズレていたら、北里は漢方医として修行を積んでいたかもしれませんし、マンスフェルトとの出逢いもなかったかもしれません。
幸運な偶然を経て、北里は医学へ踏み出しました。マンスフェルトは北里柴三郎を通訳とし、医学の魅力を教え込んだことでしょう。

そんなマンスフェルトの任期が切れた後の、明治7年(1874年)夏。
北里柴三郎は母の握った握り飯を持ち、故郷を出立します。

現代ならば上京したとひとことで済むですが、当時の交通状況です。
大阪はじめ、途中の経路で住み込み書生をして路銀を稼ぎ、やっとの思いで首都を目指しました。

実はこのとき北里柴三郎は、明治政府の定めた年齢制限を3歳オーバーしていました。
そこをなんとかしまして、明治8年(1875年)東京医学校本科学生となります

東京医学校は、安政5年(1858年)設立の「種痘館」を起源とする医学校でした。熊本から、日本最高峰の医学校に入学したわけです。

ここで考えたいことがあります。
授業の大半はドイツ語でした。英語もそこに混ざります。

勝海舟福沢諭吉も、語学に苦しみました。
せっかく学んだオランダ語が時代遅れになってしまったのです。

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医学となると、ドイツ語が加わります。
この慣習は日本で長く残り、かつてはドイツ語でカルテを記載することが、慣習としてあったほどです。

そんな学生生活で色々なことがありました。

・誰かがランプで読書して倒れる
→火災発生、逃げろと知らせる北里柴三郎。

・寮監の態度がでかい!
→馬に乗っているところを襲撃して懲らしめよう! とノリノリの北里。危険を察知したのか、寮監が態度を改善して未遂に。

・バンカラの時代だ!
→結社だ、行事だ、そうなるといつも先頭にいたのが北里柴三郎です。

バンカラといえば、スポーツ結社のこちらですね。

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・シュルツェとの確執
→頭痛に悩まされ、イライラしていたこの教師に反発していたそうです。

・後のライバル・青山胤通との出会い
→なにかと対立することになるライバルは、このとき出会っておりました。

苦学生として牛乳配達に励んだという話もあります。
まさに肥後もっこす。それが北里柴三郎でした。

卒業時の成績が不振で、学校に残れなかったという説もありますが、そうなのでしょうか。

入学者:121
卒業試験合格者:26
北里卒業順位:8

そこまで悪くはありません。優秀です。

ただし、同級生からは、
「中程度の成績。ずば抜けていない」
という証言が残されています。
実際に、成績表でずば抜けているものは、眼科のみ。あとはそれなりであったそうです。

実はこれ、ナポレオンもそうでした。
士官学校でさぞかし優秀だったのだろうと思われがちですが、そうでもない。
優秀さとは、学校の成績だけが判断材料ではありません。

成績抜群というよりも、むしろ熱血、そして大それた行動力が北里にはありました。
嘉納治五郎よりも、生来の気質としては喧嘩上等であったのかもしれませんね。

さすがに肉弾戦はないものの、北里柴三郎は喧嘩上等人生を歩むことになります。

 

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黎明期の細菌学を学ぶべく、ドイツ留学へ

卒業後、医学士となった北里。定番ルートは、地方の赴任です。

医者が尊敬されなかったという時代も、もはや終わりました。
西洋医学を学んだ医学士となれば引く手数多です。

しかし、それでは終われない。
国家の医学的向上を目指すべく、北里柴三郎は明治16年(1883年)、内務省衛生局に入り、局長・長与専斎(ながよせんさい)の細菌学導入計画に加わることとなるのです。
論文も発表し、学術的な成果も出し始めます。

そして、いよいよ転機が訪れます。
ドイツ留学です。

北里柴三郎はここで初めて細菌を学ぶことになるのですが、留意しておきたいのは、たとえドイツが西洋医学の本場であっても、細菌による感染症の認識はされ始めたばかりだった――ということです。

彼らの親の代までは、
「医者というのは血まみれであってこそ!」
とすら、思われていたのです。

不潔な出産&手術で死者多数 センメルヴェイスとブリスの皮肉な功績

日本の明治前夜の1865年。
手洗いの重要性を提唱したオーストリア人医師・センメルヴェイスは、精神病院に収監。

1881年のアメリカでは、狙撃されたガーフィールド大統領の治療を細菌感染を無視して行い、死なせてしまう悲劇が起きています。

そんな時代に、フランスのパスツールが細菌学を提唱し、イギリスのリスターが消毒法を確立させ、そしてドイツであの人物があらわれます。

北里柴三郎が師事するコッホでした。

ロベルト・コッホ/wikipediaより引用

明治政府は、そんな最先端の細菌学を学ばせる者を選抜しました。
そのうち一名として長与推薦のもと北里柴三郎が決まったのです。

明治18年(1885年)、北里は横浜を出立。
当時のドイツにおいて、日本人が人種差別を受けなかったとは思えません。

しかし、やがて周囲のドイツ人研究者は、熱心に取り組む北里に感心するようになっていきます。

ともかく体力、根気が凄まじい。
実験器具の洗浄まで一人でこなす。北里柴三郎の実験は驚異的でした。

北里柴三郎は、コッホのもとでチフス菌、コレラ菌の研究から始めました。
そうした中、弟子の中でもずば抜けた成果をあげていきます。

・水素ガスを用いたウシの嫌気性菌・気腫疽菌(きしゅそきん)の純培養に成功
・破傷風菌の純培養に成功
・破傷風毒素・破傷風免疫の研究を行う
・1890年ジフテリアの免疫研究者E・ベーリングとの共著『ジフテリアおよび破傷風の血清治療について』免疫血清治療発見の論文を発表、世界的に名声を得る
・コッホのツベルクリン研究修得を目指し、皇室内帑金(ないどきん)によって留学期間延長を認められる
・プロイセン政府より、プロフェソールの称号を受ける

かくして彼の名声は世界的なものとなりました。

 

ドイツ留学生と脚気

留学生活は大変なものでした。

当時の留学生仲間である夏目漱石は、ロンドンで神経を病んでいるほど。
異国で慣れぬ食事を取り、息抜きもろくにできない。大変なことでした。

ドイツ留学をした医者といえば、森鴎外もおります。

彼の代表作『舞姫』を授業で習い、怒りを覚えた人もいたことでしょう。ドイツでダンサーのエリスを妊娠させ帰国するという、格調高い無責任男の話です。

あのモデルは作者自身説もありますが、この一件についてはハッキリとはしません。ただ、少なくともあの小説のような無責任留学生もいたということではあります。

北里柴三郎も、性的には潔癖とは言い難い人物です。
しかし、ドイツ時代には『舞姫』経験はないようです。学問に取り組んでいました。

学問ばかりに取り組めず、情緒を求めた留学生の筆頭が森鴎外だとすれば、学問を極めた筆頭が北里です。

そんな北里柴三郎が否定した菌があります。
「脚気菌」です。

オランダ人細菌学者・ベーケルハーリングが発見したというこの菌に、北里は猛烈な批判を加えます。
師匠であるコッホを挟んで大激戦となったものの、北里柴三郎の正しさが証明されました。ベーケルハーリングは北里に感謝し、親交を深めているのです。

しかし、日本にはベーケルハーリングほど懐の広い研究者はおりませんでした。




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東大の緒方正規は、北里柴三郎の批判を根に持っています。
このことが北里の人生に暗い影を落とすこととなるのです。さらには……。
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