織田家 週刊武春

譲位を提案した信長に、なぜ天皇は大喜び!? 100年ぶりの院政は結局復活せず

投稿日:

織田信長といえば「革命児」。
日本国民の98%ぐらいがこうしたイメージを持っていると思います。

ところが、一つ一つの事象を追っていくと、それは間違い。

信長は保守派、とまでは言いませんが、現代なら「革新」ではなくせいぜいが「穏健改革派」ですかね。

その「証拠」の一つに、平安時代の日本の伝統ながらも途絶えていた天皇の「院政」を復活させようとしていたことがあります。

 

戦国大名の隠居と天皇の譲位は意味がまるで違う

信長の頃の天皇は、正親町(おおぎまち)天皇です。

この二人の微妙な関係は、当サイトでも恵美嘉樹さんが「織田信長は皇位を狙っていた!の噂は本当か?」として書かれていますので多少かぶりますが、ご了承ください。

天皇制存続の危機だった?信長が皇位を狙っていたという噂は本当か

「天皇の地位を譲って隠居しませんか、するでしょ」
と譲位の圧力をかけ続けていた――。

と、書くと、信長が暴君のようですが、上記恵美さんの記事でも触れられているように、戦国大名が隠居するのと、天皇が譲位するのは大きく意味が違います。

天皇というのは祭祀関係の儀式がたくさんあって超忙しい。
そんなこともあって平安時代に「もっと政治とかしたいから、天皇は若いのに譲って、俺は自由にやらせてもらうよ」と、始まったのが院政です。

政治を動かす「上皇(元天皇)」と表向きの儀式をこなす「天皇」という役割分担によって、平安朝はそれなりにうまく動いていたのでした。

ただ、最高権力者が二人いれば、屋敷も、スタッフも「倍返し」。
コストがかかります。

そのため、武士の世になり、幕府側にも「最高権力者」が生まれると、朝廷はコスト負担できずに、上皇(院)を「作れなく」なっていたのです。

最後に譲位が行われたのは、正親町天皇の4代前の後花園天皇です。
15世紀後半だから約100年前ですね。

この朝廷没落のことを古い用語で「式微」といいます。

 

王政復古の鐘を鳴らした「革命児」

そんなときに、将軍を追放、朝倉・浅井を滅ぼして昇り龍の信長さんが「譲位やる? お金は私が出しますんで」と言ってくれたのです。

朝廷にとっては、渡りに船。
時は天正元年(1573年)でした。

信長の申し出に対して天皇は
「朝家再興の時いたり候と、たのもしく祝いおぼしめし候」(「正親町天皇宸筆御消息案」『京都御所東山御文庫記録』)
と信長へお礼のお手紙を送っています。

意味がわからなくても、なんだか喜んでいるなぁという感じは伝わると思います。

こうしてやる気満々の朝廷ですが、公家皇族が厄介なのは【即実行!】とならないところ。

伝統と格式の世界なので、陰陽師に「譲位したいのだけど、来年はどうかな?」と諮問するんです。
すると、「いや、来年はお日柄が悪い。再来年にしたほうがいい」なんて占いを出されると、もうこれでストップ。

実際、この時もそうなりました。

信長の打診を受けたのは年末12月だったので、来年(1574年)にしようとなり、でも来年になったら朝廷が「年回りが悪いので」とまた延期なったのです。

朝廷側にしたら、100年ぶりの大儀式なので、昔の譲位の儀式のやり方をひっぱり出したり、物を作ったりと、慌ただしくて、時間を稼ぎたかったのかもしれませんね。

信長は、現代のイメージの「革命児」ではないと冒頭に言いましたが、別に保守派でもありません。
グダグダやっている朝廷に「飽きちゃった」んでしょうね。

今度は、信長が金を出さないとはじまらない上皇のためのお屋敷の新築が進まずに、結局、9年間、譲位はのびのびになって、本能寺の変にいたるわけです。

ちなみに伊勢神宮の式年遷宮は信長の生前に話が進み、実際は死後に行われました。
朝廷って……。

川和二十六・記

【参考】

谷口克広『信長の政略』(学研)(→amazon link

 



-織田家, 週刊武春

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.