阪鶴鉄道で監査役を務めていた頃の小林一三/Wikipediaより引用

週刊武春 明治・大正・昭和時代

西の実業王・小林一三!渋沢に負けぬ手腕と84年の生涯をスッキリ解説

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日本国民に新たな演劇を!「宝塚少女歌劇団」

一三は、当時流行していた少年少女による音楽隊に想を得て、1913年(大正2年)に「宝塚唱歌隊」を結成しました。

唱歌隊は歌だけでは物足りない、歌劇をやりたい――そう考えるようにもなりましたが、温泉施設の出し物として歌劇は高尚すぎるという意見もありました。

音楽隊よりも上質で派手、かつ歌劇よりは庶民的な娯楽。
それが彼女らの目指す道でした。
こうして「宝塚少女歌劇養成会」が誕生したのです。

この少女歌劇は斬新で、日本国民にとって新たなエンタメの到来を予感させるものでした。1918年(大正7年)には、東京の帝国劇場でも公演を行い、大成功をおさめます。

一三は歌劇団のさらなる躍進のため、指導者たちを欧米で学ばせます。
歌劇団の評判は高かったものの、損益を考えると決してよいというわけではありませんでした。

国民的な新エンタメを、損をしてでも作るべき――。一三は、そんな姿勢を貫きました。
上質なものを作るという硬派な方針が、唯一無二の「宝塚歌劇団」を作り上げたのです。

彼の精神は、目先の儲けよりも“上質なものを作る”ということに集約されています。
例えば、現在も話題になるカジノ誘致による観光産業を「低劣なもの」としてキッパリと否定。
そんなものよりも、日本各地にある特性を生かすべきだと考えていたのです。

 

阪急百貨店の賑わい 「ソーライス」伝説とは?

1918年(大正7年)「箕面有馬電気軌道」は、「阪神急行電鉄」と名を変えました。

この二年後、大阪・梅田と神戸を結ぶ神戸線を開通。
そして梅田に阪急電鉄本社ビルヂングを竣工しました。
本社として使用するのは三階から五階まで、二階はレストラン、そして一階には白木屋百貨店をテナントとして入れたのです。

この二階のレストランでは有名な「ソーライス」伝説があります。

日本一安い食堂として売り出したレストランとはいえ、昭和恐慌となると貧乏な客はライスしか注文しません。
このライスに備え付けのウスターソースをかけるだけの客がいました。

一三は嫌がって追い出すどころか、
「ライスだけのお客様を歓迎します」
と張り紙をして、福神漬けをサービスしました。

ソーライスを食べた貧しい若者は、やがて出世して恩義を感じる。そう考えたのです。
※後日、ソーライスと食べていた客が来店し、多額のチップを置いていくということがあったとか

この白木屋事業は、いわば一三にとってはテスト。
百貨店は儲かると信念を得て、1929年(昭和4年)に阪急百貨店を開業したのでした。

阪急百貨店のHPに掲載されているソーライスの解説・今もこの心を大事にしているんですね

 

電力統制に猛反対するも戦争へ突き進み

次々に閃いた新しいアイデアを実行に移す――。
ここまでの業績でも、小林一三はたいへんな人だとわかります。

しかし、一三の業績はまだまだ終わりません。

彼は「田園都市会社」と「目黒蒲田電鉄」を経営。
1932年(昭和7年)には、「株式会社東京宝塚劇場」を設立しました。
さらに1933年(昭和8年)「東京電燈」の社長として、経営再建に関わります。

彼が社長となったころの「東京電燈」は経営が傾いていました。そこで一三は徹底的な改革に臨みます。
この「東京電燈」での余剰電力解消手段として、一三は「昭和肥料」と「日本軽金属」という製造業にも進出。まさにありとあらゆる産業に着手したのです。

本人も流石に疲れたのでしょう。
1935年(昭和10年)には引退を考えるようになります。
この頃、国家が電力を統制すべきだと政府が方針をさだめました。

一三は電力統制に猛反対。
彼の反対もむなしく、1938年(昭和13年)には「電力国家管理法」が成立してしまいます。
日中戦争と平行してこのようなことをするのは無謀極まりなく、日本はかえって深刻な電力不足に直面することになるのです。

 

商工大臣就任と「大臣落第記」

そして1940年(昭和15年)、今度こそ引退しようと決意を固めた一三は「東京電燈」社長を辞任することにしました。

そんな一三に、民間の親善使節としてイタリアに訪問するよう依頼がありました。

この滞在中にイタリアは第二次世界大戦に参戦したため、元のルートでの帰国ができなくなった一三はドイツ経由で帰国することになります。
帰国の途についた一三は、ドイツでヒトラーの経済手腕に感心したと言います。

そんな彼を急ぎ帰国するようにと、当時の総理大臣である近衛文麿が電報を送ってきました。
帰国した一三を待っていたのは、近衛内閣における商工大臣のポスト。
大変名誉なことだ、と同職を引き受けます。

内閣としても彼の経営手腕が欲しかったのでしょう。
しかし、政府の経済政策案にズケズケとダメ出しをする一三はやがて煙たがられるようになります。

特に深刻だったのは、岸信介との対立でした。

一三は岸の出した「経済新体制」を強烈に批判。
1940年(昭和15年)に「経済新体制確立綱案」は閣議決定されたものの、経済官僚懇親会で一三が先頭に立って骨抜きにしていました。
さらに一三は、岸を辞任させるように迫ります。

しかし、辞任させられたのは岸ではなく一三でした。

就任から僅か八ヶ月後、内閣改造で一三は辞任させられたのです。
もはや戦争に向けて国家総動員体制を迫る日本政府は、一三のような自由主義経済とは相容れなくなっていました。
彼が軍部批判をしていたことも、大きな要因です。

一三は『中央公論』に「大臣落第記」という連載をスタート。
しかしこれは不謹慎であるとして、すぐに止めさせられます。

日本は泥沼の戦争へと突き進んでいくのでした。

 

焼け野原から再出発へ

1945年(昭和20年)、日本は敗戦を迎えます。

国民にとって大きな挫折と失望、そして死や滅亡であったこの敗戦も、一三にとっては喜ばしいことでした。
彼が憎んだ国家による経済統制の終わりであり、自由主義経済の復活を意味していたからです。

一三は「戦災復興院」総裁に就任し、復興を牽引しました。
しかし敗戦の翌年には、公職追放の対象となってしまい、辞任せざるを得ませんでした。

とはいえ彼は、引退してかねてよりの念願であった茶道だけに邁進するわけにもいきません。
日本全国が汗を流して復興をめざしているのに、そんなことは許されないと思っていたのでしょう。

そんな中、彼が心血を注いだのが東宝再建でした。
公職を追放されているからには本格的に参加することはできません。

そこで彼は公職追放が解除となる1951年(昭和26年)までじっと待ちます。

欧米を見て回り、これからは優秀な洋画の上映と、邦画の製作をすべきとの結論に到達。
社長に就任すると、東宝の業績はみるみるうちに回復を見せ始めました。
同時に株式会社コマ・スタジアムを立ち上げています。

そして1957年(昭和32年)、小林一三は84才でその生涯を終えました。

晩年まで様々な事業に尽力し、「今太閤」と呼ばれた人生。彼の残した産業は今も活きています。

中でも宝塚歌劇団、東宝といったエンタメ産業は、今を活きる私たちの生活に潤いを与えています。
もし小林一三という存在がいなかったら。
私たちの生活は今より味気ないものであったことでしょう。

 

卓越した経営手段と人柄の魅力

小林一三は実に大きな存在で、まさに経済界の巨人とも言える人物です。

人が多い鉄道路線を買い取るのではなく、沿線を発展させるという逆転の発想。
どこまでも大衆本位の発想。
利益よりも芸術性を追求するエンタメへの姿勢。

人間としても魅力的で、多くの人々と交流しました。

若い頃、ジンタの音色に涙を流し、小説を執筆し、エンタメの魅力を知り尽くした一三。
彼は金儲けとしての道具ではなく、本当に面白い上質なものを作ろうとしたのです。

目先の利益だけにとらわれない、本物志向が一三にあったからこそ、現在まで残る素晴らしい娯楽産業が残ったのでしょう。

また一三は、生活の豊かさを大事にした人物でもありました。
人間は八時間きっちり働いて、そのあとは観劇なり映画鑑賞なりして、リフレッシュすべきだと考えていたのです。

現代の日本にこそ、まさにこの精神が必要なときではないでしょうか。

文:小檜山青

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【参考文献】

『日本の企業家 5 小林一三 都市型第三次産業の先駆的創造者 (PHP経営叢書)』(→amazon link

 



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