絵・小久ヒロ

週刊武春 武田・上杉家

武田勝頼37年の生涯をスッキリ解説!風林火山を使えぬ悲劇が武田家崩壊を招く

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二年目の進展

天正2年(1574年)、この年は追放した我が子・信玄の死を受けて、武田信虎が帰国しています。

そんな祖父の動向に、勝頼は神経を尖らせていたようです。
再び権勢を握らないかと不安になるほど、己の基盤が脆弱だと感じていたのでしょう。

このころ、信玄の宿敵であった上杉謙信は、勝頼をこう酷評しています。

「勝頼の武略は、武田の名に劣るものである」

しかし、そんな侮辱を吹き飛ばすかのように、勝頼は東美濃を攻めます。
武田勢は同地方への攻勢を強めており、その中で選択肢を迫られた一人に信長の叔母・おつやの方もいます。

彼女は甥を離れ、武田につくこととなったのです。
この女城主のことを、頭の隅に入れておいていただければと思います。

勝頼には、東の援軍として北条勢、西には亡命中の足利義昭や六角義賢がおりました。
彼らと手を組めば、織田にも対抗はできるのです。

かくして武田勢、5月には高天神城を包囲し、降伏に追い込みます。

峻険な山に立つ難攻不落の高天神城/photo by お城野郎

勝頼を「小僧」とか「父に劣る」などとみなしていた周辺大名が、顔色を変えるほどの快進撃。
このあたりから遠江支配、内政基盤の拡充に取り組んでいくのです。

偉大なる父の三回忌に向け、勝頼は邁進していたことでしょう。
いよいよ喪を秘すべき三年が終わり、そして、運命の天正3年(1575年)を迎えるのでした。

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膠着する武田・徳川・織田

勝頼の前に、課題は山積みです。

同盟者相手に「自分が頼りになるところを見せなければならない」ことを痛感。
そのためにも、まずは徳川家康の三河制覇を目指します。

この時期徳川家康は、嫡子・松平信康と、正室・築山殿を処断するという苦渋の決断を迫られました。

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・信長が信康を疎んじた
・正室徳姫との不和
・嫉妬、暴君

処刑の理由としては、上記のような要因が語られますが、同事件と武田の動向を見ていくと、繋がっている何かが見えてきます。

武田側は、三河攻略を前に何らかの策謀を行なっていたと考えられるのです。

この時期、岡崎町奉行・大岡弥四郎(大賀弥四郎として有名)からの内通申し出がありました。
岡崎城主は、家康の嫡男・信康です。
その右腕たる町奉行の内通となれば、非常に衝撃的なことでもあります。

信康の母である築山殿が関与した疑いがあるともみなされました。
要は、信康派による家康排除クーデターの可能性も考えられるのです。

勝頼からすれば、信康派が台頭すれば徳川と同盟関係を目指すこともできます。彼らを支援することで、威信を強化できるのです。
こうした思惑に、築山殿と信康が巻き込まれたと考えれば、辻褄が合います。

一方の信長からすれば、この策謀を放置すれば、徳川が同盟相手から敵対者に変わってしまうのです。
それだけは避けなければならない。
処断は必然の措置となります。

信康の器量を嫉妬したという説は、あくまで後付けでしょう。この信康母子の死は、来るべき決戦の露払いをしたようなものともみなせるのです。

勝頼は大岡弥四郎のクーデターを頼りにして徳川を攻め、西進していきました。
しかしここで、信長が動き始めます。

この時点では、圧倒的に有利であった勢力はなかったと見なせます。
信長も武田の強さは知っておりますし、織田家には本願寺や三好康長ら西にも敵がおります。そうやすやすと動けるものでもありません。

徳川にせよ、家康派と信康派に分裂が見られ、盤石でもない。
それでも、腰を上げた。

そう。
長篠の戦い」です。

結果的に織田・徳川連合軍が大勝利をおさめるこの一戦。

あまりに劇的な勝利だったため、
【そこには何か特別な秘密があったはずだ】
と、長いこと考えられてきました。

例えば「信長の鉄砲三段撃ち」なんかはその一つ。
現代では否定されているこのような話がまかり通ったのはなぜなのか。

冷静に考えてみましょう。

 

伝説から離れてあの戦いを考えてみる

こうした派手な伝説は、史実だったのか?
いや、どうも、そうではないと近年論じらるようになりました。

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長篠の戦い当時の武田軍ならびに織田軍に注目してみますと……。

・武田家では騎馬兵を重視し、鉄砲を軽んじていた
→その確証は得られません。鉄砲の配備が記録に残っています。

・武田騎馬軍団
→東日本では西日本と比較して、馬に乗った戦術が重視されていた点は重要。馬防柵は存在しましたし、鉄砲隊を崩すのに騎馬が使われることもありました。
ただし、西洋の騎兵のような、乗馬したまま団体で突撃する戦法であったとは考えにくい。

・織田勢における兵農分離
→確証はありません。

※このような西洋の騎兵突撃と日本の戦国時代を混同すると誤解に繋がります(ナポレオン戦争、ワーテルローの戦い)

このあたりも難しいところです。

たった一人の革新的天才が、戦争を変えた。
そんな伝説は非常に魅力があります。

例えば孫子や、

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ズールー族のシャカもそうでしょう。

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あるいは幕末の日本ではナポレオン戦争の歴史を学び始め、西洋の戦術に衝撃を受けました。

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そんな中で、日清戦争日露戦争を経て、日本人は自信を持ち始めたわけですが、そうなると日本の歴史においても、フリードリヒ大王やナポレオン、ウェリントン公のような英雄がいたはずだ!と思い始めます。

むろんそうした過去へのリスペクトは結構なことかと思います。
例えば、最上義光顕彰を見てみますと、

「国民に尚武の気風が貧弱であるうちは、到底列強各国との競争に対峙することなどできない。であるからして、英雄崇拝が日本の国民性として意義があることは否定できない。我等が山形中興の最上義光公は、この意味において最も崇拝すべきグレートマンであると同時に、山形市が今日において東北地方の一都市として雄を競うにたるのも、義光公の遺徳であるのは、言うまでもないことである」

なんだか、すごい理屈で褒められています。

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こうした現象の問題は、一度の顕彰で終わらないことです。

「我々の祖先たる戦国大名も、何かすごい戦術や改革をしていたはず!」
そんな後世の願望が強すぎて、西洋寄りの戦術と混同するような傾向が見られるようになるのです。

戦前の軍参謀本部の分析が、その典型例。
その影響は、現在も払拭されたとは言えません。

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ともあれ、ファンタジックな過大評価は、あくまでゲームや漫画にとどめておかねればなりません。

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この手の背伸びした歴史はさておき、誇張のない「長篠の戦い」を考えてみましょう。

地盤による差はあるものの、軍隊の編成が大きくとなっていたわけでもありません。
ではなぜ、ここまで大きな勝敗の差がついたのでしょうか。

 

「長篠の戦い」

結論から申しますと、この戦いの決定打はまだはっきりとしておりません。

長篠の戦い(設楽原)に設置された馬防柵

しかし、一定の要素は認められている。

・織田徳川連合軍は柵の内側に立てこもり、実際よりも兵を少なく、士気が低いように偽装していた

・若い勝頼は、経験豊富な宿老の懸念を押し切って主戦論に傾いていた。とはいえ、当時30歳という年齢が、そこまで若いかどうか、判断がつきかねる

・徳川勢が武田勢の背後をつき、退路を絶っていた

こうした要素はあります。
とはいえ、誇張もあるのです。

・戦いは数刻に及んでいて、あっという間に勝利したとは言えない

・徳川勢が乗馬しなかったという記録はあるが、そこまで編成が異なっていたという証拠とはいいかねる

冷静かつ慎重に考えれば考えるほど、決定打はわからなくなります。

だからこそでしょうか。
後世の記録は誇張が増え、ますますわかりにくくなっています。

膨大な戦死者がいたことははっきりしています。
ただ、実数や損耗率は不明。これは戦国時代の合戦ではままあることでした。

しかし、いかんせん両軍の規模は莫大です。
万単位であることは容易に推定。

単に推定ではなく、確定した損害もあります。
以下は、名だたる家臣や将たちです。

【甲斐】
土屋昌続
武田信実
甘利信康
米倉丹後守

【信濃】
馬場信春
市川昌房
香坂源五郎
望月信永

【上野原・西上野】
内藤昌秀
真田信綱
真田昌輝
安中景繁
和田業繁

【駿河】
山県昌景
原昌胤
土屋貞綱

【足軽大将】
三枝昌貞
横田康景
山本管助(二代目)

戦争の結果とは、死者数だけでは判断できません。
【将・指揮官の死】に注目してみますと、この戦いの被害がいかに甚大だったかご理解できるはず。

例えばナポレオン第一帝制における斜陽は、1809年とされることが多いですが、この年、帝国元帥の一人であり、勇者と名高いジャン・ランヌ元帥が「アスペルン・エスリンクの戦い」において戦死しておりました。

元帥は、軍制における華であり、頂点の象徴が失われるということ。
それは制度崩壊に直結するとみなされます。

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これはのちに日本軍にも暗い影を落とすことに繋がっていきます。

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こうしたケースを踏まえて「長篠の戦い」死傷者の内訳を確認してみますと、武田は士官にあたる将の死傷があまりに膨大でした。

【兵士の死以上に、士官や将の死の場合は制度の疲弊や崩壊を招きかねない】

「長篠の合戦」における経過や勝因の決定打は不明です。
はっきりとわかっていることは、これが武田家の柱石をなぎ倒した――もはや引き返せぬ大敗北であったことは確実。

余波は、同盟相手にも及びました。

織田勢は武田についた岩村城を攻め立てます。
敗戦から回復できていない武田家の援軍は、年少者や還俗させた僧侶によるもので、頼りにならないものでした。

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そしてこの一件は、単なる一つの悲劇では済みませんでした。

戦国大名の働きとは、同盟相手の保護にあります。
味方を守る力がなければ仲間内から見限られ、その信頼は簡単には回復できないものです。

勝頼当主の武田家は、信玄の服喪が終わった三年目にして、亀裂が生じておりました。

 

戦後処理からの立て直しをはかる

前述の通り、将の死は体制の崩壊そのもの。
再度立て直すのが急務であり、勝頼は、後継者を失った多くの家の編成に着手しました。

一例として挙げられるのが、嫡男・信綱と、二男・昌輝を失った真田家でしょう。
信濃の有力国衆の一つである真田家では、三男・昌幸を武藤家から戻し、継がせることで保たれました。
しかし、そう単純な話でもありません。
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