黒田長政(松寿丸)/絵・富永商太

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松寿丸(官兵衛の子)に殺害命令!半兵衛が匿うことを秀吉は知っていた?

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「松寿丸を隠すことは秀吉知っていた?」

1578年、突如、織田信長を裏切った荒木村重を説得しにいった黒田官兵衛
説得どころか、逆に幽閉されてしまうと、信長は官兵衛も裏切ったと勘違いして、人質となっている息子・松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じます。

そこで登場するのが竹中半兵衛
信長には偽首を提出し、本物の松寿丸は家臣の下で匿うわけですが、問題は、豊臣秀吉が知っていたのか?ということ。

下手をすれば信長から激しく叱責されかねない一件。
松寿丸が人質になるところから救出されるまでを史実ベース(黒田家譜)で振り返りってみましょう。

 

官兵衛の結婚した年は実は不明

官兵衛は、加古川の志方城の城主の櫛橋伊定(くれはしこれさだ)の娘「光(てる)」と結婚したのですが、結婚した年の記録についてはありません。

資料で出てくるのは、松寿が生まれた1568年(永禄11年)11月3日のことで、この時点で官兵衛は23歳、光は16歳でした。光は美女だけど体が官兵衛より大きかったそうです。

割と結婚してすぐ生まれたと考えるのが妥当かもしれませんね。

それにしても、戦国時代にしては官兵衛は晩婚でした。
そして、側室を持たないという当時としては珍しい武将でした。

 

松寿丸、人質に

姫路城を含む播磨は、信長と毛利に挟まれて中小勢力が割拠して草刈り場の様相でした。
官兵衛は主君の小寺氏を説得して、信長へと下ります。

「黒田家譜」では、1577年(天正5年)秋に、松寿を安土城に差し出したと記載されています。

同時に官兵衛は、信長から播磨の東隣で毛利方の備前・美作の武将たちを説得して、人質を出させるよう命じています。
信長にしてみたら、よそものの官兵衛を高く買っていたわけですが、同時に軍事機密も扱う役目であるので、松寿を人質に出させたと、戦国史研究家の渡邊大門氏は分析しています。(渡邊「黒田官兵衛」、講談社現代新書77P)

秀吉も起請文きしょうもん(神様に誓う形で約束する契約書の一種)を官兵衛に出しており、そこでは秀吉は官兵衛を粗略に扱わない、人質の身の安全を確保する、ことなどが記されているのです。

「起請文」は戦国時代には結構大事です。
この頃は、神仏への信仰心が非常に強いので、神と約束したことを容易に破ると自分に降りかかってくると心から信じていました。

「人質を守る」という約束は、秀吉にとって、信長という俗世の主との関係とはひとつ違ったレベル(どちらが上と言えば信長だけれども)で、守るべきものだったということも重要な要素となります。

 

荒木村重の反乱

1578年(天正6年)10月、有岡城(伊丹市)の荒木村重が叛旗を翻しました。

村重は、信長軍の対毛利戦線の後衛を務める、中国軍団(秀吉がトップ)のNo.2とも言える超大物でした。この時、官兵衛は全然、このレベルにありません。

どれぐらいなのか?
というと秀吉配下の幹部数十人の一人といったくらいが実情でしょう。

村重の説得には、蜂須賀氏はじめ何人もが挑戦していて、最後の切り札が官兵衛だったといわれていますが、それはちょっと買いかぶりかもしれません。

ともかく、1年間にわたり幽閉されてしまうのは、ご存じの通り。

官兵衛救出2

 

半兵衛が松寿の命を救ったことを秀吉は知っていた!

信長にしたら、官兵衛が音信不通になるのは裏切ったためと思うのも、その時点ではしかたありません。

なにせ大河ドラマでも官兵衛の直属の主である小寺氏(片岡鶴太郎)も裏切っているのが濃厚だったからです。

直接的に、松寿の命を救ったのは、秀吉のもうひとりの軍師・竹中半兵衛です。
半兵衛は、怒り狂う信長に申し上げました。

「官兵衛は忠義のもの。裏切る理由がありません。黒田家を敵にまわすと毛利攻略が危うくなります」

そこで、半兵衛はこっそりと安土城から自身の領地である岐阜県垂井町へと連れ出します。

松寿がいたのは、秀吉の長浜城だったのかもしれませんね。
各地から人質を集めていた信長ですが、すべてを安土城下で管理するのは難しいでしょうから、各軍団長のもとに預けていたというのが自然でしょう。

では、秀吉がそれを知っていたのか?

結論から言えば、知っていた、可能性が高いです。
証拠は2つあります。

 

わざわざ半兵衛の忠言を伝えている

一つは、幽閉中に秀吉が官兵衛のおじさんに改めて忠誠を誓うよう、書状を出している(黒田家譜)のですが、そこに、半兵衛が信長に対して異議をとなえたことが書いてあります。

中国戦線で、黒田家の重要性を知っていたのは、半兵衛以上に秀吉でありました。

秀吉にしたら、官兵衛が仮に裏切ったとしても、黒田家本体が秀吉についている限りは松寿は人質として活かしておく方が得策なのです。

 

半兵衛の死後も松寿は生きていた

もう一つは、竹中半兵衛が官兵衛幽閉中に病気で死んでしまうことです。

1579年(天正7年)6月のこと、官兵衛が解放される4か月前のことでした。

もし半兵衛が単独で、信長・秀吉の意向に反して松寿を匿っていたとしたら、この時点で、竹中家の家中は、家の存続のために松寿を処分していたでしょう。
ところが4か月間も生き延びていることは、竹中家にとって主の秀吉からの了解があると推察できます。

ゆえに半兵衛は秀吉の了承のもと松寿丸を生かしていたと考えるのが自然。

大河ドラマでは、秀吉の妻・ねねが「松の扇子」を黒田家に渡して「松寿丸生存」の意図を暗に伝えておりましたが、史実でも黒田家を重視した秀吉の画策と見てよろしいのではないでしょうか。

なお半兵衛と官兵衛の生涯については以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ併せてご覧ください。

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文・川和二十六
絵・富永商太

【参考】
『黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)』渡邉大門(→amazon link

 



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