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田んぼに入っただけで【寄生&死】となる日本住血吸虫症が恐すぎ!小幡昌盛(武田二十四将)も死す

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西郷隆盛さんの睾丸が大きく腫れてしまったのは「バンクロフト糸状虫」のせい?

前回、そんな記事を掲載したところ妙に反響ありましたようで、今回も寄生虫ネタ。
皆さんのご興味は、もしかしたらソッチじゃなかったかもしれませんが、「日本住血吸虫症」をお送りいたします。

かつては「田んぼに入っただけで寄生→死を迎えてしまう」という、凄まじく恐ろしい寄生虫でした。

西郷隆盛のタマが大きく腫れた原因は寄生虫!? 現役の女医さんにご診断いただきました

 

経皮感染 つまり肌から通って体内へ

日本住血吸虫は哺乳類の血管内に寄生する吸虫の一種です。

字面からして、なんだか生き物のように見えないかもしれませんが、れっきとした寄生虫です!
なんか変な言い方ですね。

また、名前に「日本」が入っているため本邦オリジナル!みたいな印象ながら、実際には、中国やフィリピン、インドネシアなど他の国にもおりまして、各地で、イヤ~な被害をもたらしております。

症状を聞いたら……眠れなくなりますよ(´・ω・`)

まず、大きさは雄雌で若干異なりながらだいたい2㎝くらい。このサイズにして、血管内に生息します。
この段階で想像するだけで恐怖になりません?

さらには何が怖いって、感染経路でして。
日本住血吸虫は『経皮感染』いたします。要は肌から入るわけです。

となれば、もう、どうやったって防げないじゃん!
と、慌てないでください。少し詳しく説明してまいりますね。

 

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卵は壊死した組織と共に腸の中に落ちる!?

日本住血吸虫は最終宿主の糞便と共に排出された卵が水中で孵化し幼生となり、次に、中間宿主のミヤイリガイに寄生。
そこである程度まで育つと、今度は最終宿主が水に浸かった時、すかさず皮膚から侵入し感染します。うげぇ~。

日本住血吸虫のセルカリア・これが皮膚を通じて哺乳類に感染する/Wikipediaより引用

血管の中に入った後、虫体は門脈まで移動し、そこで成体になります。
門脈というのは、消化管から栄養を吸収した血液が、肝臓へと流れ込む部分の血管のことを指します。

あれ?
血管の中に寄生するのに、なぜ糞便中に卵なの?
と思われたアナタは鋭いです。

卵を産む時期になると、この寄生虫は雄雌抱き合ったまま血管を遡り、消化管に分布する細血管に移動します。

そこで卵を産むのですが、卵は細血管に詰まるため周りの粘膜組織を壊死させ、卵は壊死した組織と共に腸の中に落ちます。
おー、これで体外に卵をばら撒けますね!
よくできた仕組みですが、寄生される側からしたら気持ち悪いことこの上なしです。

しかし、この卵たちが腸に落ちるのはまだ許せます。
本当に怖いのはここから。

 

肝硬変を患わせて死に至る

一部の虫卵が腸に出ず、血流に乗って様々な場所に運ばれ、そこで血管を詰まらせ炎症を起こすのです。

消化管からの血流は、先に述べたように門脈を通り肝臓に注ぎ込むため、虫卵が門脈に詰まると肝臓にダメージを与えることがしばしば。
最終的には肝硬変になる人もおり、重度な症状になりますと大量の腹水が溜まり死に至ります。

また、虫卵は脳に運ばれることもあり、頭痛や運動麻痺、痙攣発作の原因となります。

こんな怖い寄生虫がいるなんて。
おちおち水に入れないじゃん!と思った方もいらっしゃるでしょう。

実はこの病気、我が国では流行地が狭い地区に限られる風土病な上、すでに根絶されております。
これで安心して読めますね。

しかし歴史的には私達の祖先が苦しんだものでもあり、決して他人事ではありません。
日本住血吸虫症をいかにして根絶したか?

その歴史を見てまいりましょう。

 

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武田二十四将・小幡昌盛も……

日本住血吸虫の流行地は大きく分けて6つ。
そのうち甲府盆地の低湿地帯が最大の流行地であり、病気の原因の発見、治療、予防、そして根絶作戦の主な舞台となります。

甲府と言えば、武田信玄の武田家ですね。

実は武田家の兵法書としてお馴染みの『甲陽軍鑑』に、この病気と思しき記述があります。
小幡昌盛が武田勝頼に病気のため暇乞いをする部分にそれはあります。

小幡昌盛/wikipediaより引用

まず「小幡昌盛」について説明いたしますと、高坂昌信の副将としてこれを助け、自身も武田二十四将に数えられる優秀な武将でした。
息子の小幡景憲は大坂の陣での徳川家への内通者、甲陽軍鑑の編者として有名です。

昌盛の暇乞いは、勝頼が織田・徳川の軍勢に敗れ、新府城を捨て岩殿城へ向かう途中に立ち寄った甲斐善光寺門前での話です。
そうそう、ちょうど『真田丸』の第1話あたりですね。

次に、小幡豊後守善光寺前にて土屋惣蔵を奏者に勝頼御目見仕り、 豊後巳の年霜月より煩ひ、 積聚の脹満なれ共、籠輿にのり、今生の御いとまごひと申。 勝頼公御涙をながされ、ヶ様に時節到来の時其方なども病中、是非に及ばず候と御下さるゝ。豊後も籠輿にて御共仕り候へ共、歩だちて二町ほど御共申いさめ申は、郷人の逆心もいかがに候、今夜は柏尾まで御座被成候へ勝沼は必らず御無用心と申すに付柏尾へ御急ぎならるる。其後小幡豊後も黒駒へ行也如件。(甲陽軍鑑品第五十七より)

昌盛は「積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)」でしたが、籠に乗って暇乞いに来ました。勝頼は、こんな時にその様な病身で来るとは是非に及ばずと涙しました。

実は昌盛、この3日後に死亡しております。

「積聚」とは腹部の異常を指す東洋医学のことばで、腹部が正常でなく脹満しているという記述は「腹水」を示唆する所見です。
もちろん日本住血吸虫以外の肝疾患でも腹水は溜まりますので断定はできないながら、この部分が日本住血吸虫症の最古文献と考えられているそうです。

江戸時代に入っても、この地方で腹水を起こす病気は流行し続けました。
むろん、当時としては原因の特定も不明で対抗する手段はなく、太鼓腹になったら、後は死を待つのみです。

この病気は金持ちには殆ど見られず、貧農に多発した――そんなわずかなヒントもありながら、やっぱり病因の特定には至りません。

甲府盆地の一部にのみ流行する死に至る奇病。
いつしか人はこれを「地方病」と呼ぶようになりました。

 

農家の婦人が死後の解剖を申し出る

解明の糸口となったのは明治14年。
東山梨郡春日居村の戸長が県令に出した一通の嘆願書でした。

この村では両端部には病気が無く、中央部の小松地区にのみ病気が発生したため、発生区域を示した村の地図を添えて原因解明の請願をしたのです。

そこで明治17年、県が医師を派遣して診察を行い、同時に井戸水などの住環境を調べましたが、やっぱり原因は分かりません。

そんな中、温泉で知られる石和(いさわ)の医師・吉岡順作が立ち上がります。
彼は、西洋医学的な手法を用いて病因の解明に挑むのでした。

まず吉岡は、患者の場所を地図に書きこみ、笛吹川の支流にある水路沿いに分布することを突き止めました。
疫学的手法ですね。

病気と川が関係している――そんなヒントを得ながら、同時に行き詰まってしまいます。

『あとは病理解剖しかないかなぁ……』
と思った吉岡でしたが、当時はほとんど解剖が行われておらず、特に山梨県での実績はゼロ。
そんな折、末期の患者が吉岡に献体を申し出ます。

杉山なかという農家の婦人が、病気解明の為にと死後の解剖を希望したのです。
結果、普通の肝硬変と異なり、この病気では肝臓の表面に白い繊維状のものが付着し、門脈閉塞部位が認められました。

 

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患者の便から大きな虫卵を発見!

この解剖の参加者の中に、後に病因解明の大きな力となる三神三朗がいました。

現在の甲府市で開業していた三神は、
「なかの肝臓には変形した虫卵の固まりを中心とする多数の結節が出来ており、同様ものが腸粘膜にあった。虫卵の大きさはいままで知られている寄生虫のものより明らかに大きい」
という解剖の結果を聞き、地方病には新種の寄生虫が関わっていると確信します。

三神はドイツ製の顕微鏡を自腹で購入し、患者の便を見ることで、今まで知られていない大きさの虫卵を発見しました。

そして明治33年、同結果を医師会報に発表。
地方病の原因はこの卵を産む寄生虫だ!と考えましたが、肝臓の卵と便中の卵が一緒だという確証が無く、この時点では決定打になりません。

再び袋小路に迷い込んでしまうのか……。
というところで現れた助っ人が、岡山医学専門学校の教授・桂田富士郎でした。

研究会で三神と意気投合した桂田は、杉山なかや他の患者の肝臓の標本を顕微鏡で観察し、便中の卵と肝臓の卵が同じものだと判断しました。
さらに2人は腹部の腫れたネコに目をつけこれを解剖、ネコの門脈内から寄生虫の本体と卵を見つけるのです。

この発見によって、地方病が寄生虫によるものだと判明、また、ネコにあった卵はヒトから検出されたものと一致し、人畜共通の病気であることも分かったのです。

日本住血吸虫の標本(雄が雌を抱え込んだ状態で生活するそうで……)/photo by グランピィ wikipediaより引用

 

「泥かぶれ」川や田んぼに入った後に皮膚が赤くなる

次に調べられたのがヒトへの感染経路です。
当時の仮説は、経口感染と経皮感染の2つでしたが、経口感染の方が有力視されていました。

これに対し地元では、川や田んぼに入った後に皮膚が赤くなる「泥かぶれ」という現象がありまして。
地方病を発症する者は必ず泥かぶれがある――そんなことが日常生活の中で実感としてあり、経皮感染を疑う者も少なからずおりました。

ともかく、住民としては、確証はないながら対策はしなければなりません。
まずは、経口感染対策として飲料水を必ず煮沸しましたが効果ナシ。

そこで経口なのか経皮感染なのか、白黒つけるべく牛を使った実験が行われます。

a.小屋に閉じ込め煮沸した餌しか食べない群
b.口を縛って水田や川に入らせ餌は煮沸した群
c.防水装備で水田や川に入らせ餌を自由に食べさせた群
d.何もせずに水田や川に入らせた群

4つに分けた内、寄生虫に感染したのはdと……bでした。
この他にも自分に経皮感染させた医師などもおり、感染経路は「経皮感染」と判明しました。

経皮感染で、しかもヒト以外が感染するとなると予防は厄介です。

 

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この寄生虫は事前にシャットアウトするしかない

ここで東京帝国大学卒の内科土屋岩保が、卵から孵った幼生は感染力を持たないことを発見、中間宿主の存在が示唆されます。

中間宿主が判明したのは大正2年。
九州帝国大学の宮入慶之助らが、新種の貝が中間宿主であると突き止め、その貝は「ミヤイリガイ」名付けられました。

10年後の大正12年には、住血吸虫の卵巣を破壊し、産卵不能にする薬スチブナールが開発されましたが、副作用も大きく、またダメージを受けた肝臓を治す作用はありません。
この寄生虫は事前にシャットアウトするしかない。
つまりは感染予防が重要課題となりました。

実はそれ以前の大正6年から、『俺(わし)は地方病博士だ』という、当時珍しい多色刷りの冊子を有病地の小学生に無償配布するなどの啓蒙活動を進め、感染源対策として糞尿の処理や田に入る際の脚絆の着用の推奨が行われました。

更には中間宿主ミヤイリガイの撲滅運動にも着手。
住民による駆除や焼却、殺貝剤の使用、用水路のコンクリート化など、ありとあらゆる手段を講じた結果、ミヤイリガイは激減し、日本住血吸虫の新規感染は昭和53年を最後に報告されなくなりました。

そして平成8年、終息宣言が出されました!
やったね(ちなみに他国ではまだ流行っていますが……)。

久留米市にある宮入貝供養碑/photo by Sakaori (talk)  wikipediaより引用

余談ですが私、一時期広島県の片山地方に住んでおりました。
ここも日本充血吸虫症の流行地で「片山病」と呼ばれておりました。

この地の住血吸虫は1980年に根絶されており、かつ、私の家は流行地からも数㎞離れていたので感染の危険はなかったわけですが、休耕田で泥投げ合戦をやっていると隣のおバァちゃんから
「まりちゃん、田んぼには裸足で入るなよ~」
と注意をされました。

当時は石などで足を怪我すると危ないからだと解釈していたのですが、もしかしたら「俺は地方病博士だ」的警告だったカモ?
おバァちゃん、ありがとう。

文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【編集部より】
アマゾンの戦国本ランキングで(一時)1位に輝いた、まり先生の初書籍『戦国診察室 お館様も忍びの衆も歴女医が診てあげる♪』が発売中です!

 




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【参考】日本住血吸虫/Wikipedia 住血吸虫症/Wikipedia 門脈/Wikipedia 地方病_(日本住血吸虫症)/Wikipedia
甲陽叢書 ; 第1,2篇 温故堂(国立国会図書館デジタルコレクション)

 




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