この世はワシのもん同然でしょ!
欠けることない満月のように完璧っしょ!
藤原氏といえば藤原道長。
「この世をば~」の歌があまりに有名なため、まるで彼一人がスーパーマンのように思われますが、実際はさにあらず。
道長の時代以前にもあった、幾千もの権力争い。
その代毎に数多の藤原モンスターが現れ、そして次代へ引き継がれてきました。
今回の悪ミシュランで注目したいのは、平安前期、阿衡事件や応天門の変に関わった藤原基経。
菅原道真を讒言で陥れた藤原時平の父にあたります。
以前、当コーナーで藤原時平の記事を公開した後、読者さんから
「時平なんてまだ可愛い。父の方がよっぽどヤバイ」
とコメントを頂きました。
その父・基経が今回の主人公ってなワケです。
彼の「大の妹嫌い」が政治にも影響を与えたと言いますが、一体どういうこと?
これは楽しみな藤原モンスターですね。
叔父もかなりの藤原モンスター良房
藤原基経は中納言・藤原長良の三男として生まれました。
最初に少し、父・長良の話をしておきますと……。
彼は藤原冬嗣の長男。
一族の中で最もイケてる藤原北家の出で、当時のドエリートでありますが、長良は弟の藤原良房に出世競争で負けてしまいます。
ただ、大変性格の良い人だったので貴賎を問わず皆から慕われ、二人の兄弟仲も良好だったと伝わります。
そしてその子である基経は、男児のいなかった叔父・良房に見込まれて養子となりました。
この良房叔父さんがかなりの切れ者でして。
皇室以外で初めて摂政になった人物、かつ皇女を嫁にもらうという権力者にのしあがります。
基経もその下で政治的手腕を遺憾なく発揮するようになりました。
応天門での放火事件をキッカケに
866年、応天門が放火され炎上するという大事件が起きました。
天皇の住まいと職場に近いところでの火事で、しかも放火ですから、単なる失火では済まされません。
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直後に動いたのが大納言・伴善男(とも の よしお)でした。
「犯人は左大臣の源信(みなもとのまこと)だ!」
として右大臣の藤原良相(ふじわらのよしみ)に訴えでたのです。
そこで良相は、すぐさま源信の逮捕を命じるのですが、ここで藤原基経が「ちょっと待ったぁああああ!」。
で、権力闘争の始まりです。
実は右大臣の良相とは、冬嗣の五男。
つまりは良房の弟であり、基経の叔父にもあたる人です。
しかもナイスガイで人気者だったので、ライバルとなる良房にとっては目の上のたんこぶでしかありません。
ちなみに良房は、伴善男とも源信とも仲良しではありません。彼らを助けようなんて気持ちはない。
ここで基経、太政大臣であった良房に「源信は無罪でしょう」と報告。
結果、良房の尽力で源信は無罪となり、その後のタレコミで「真犯人は伴善男だ」ということになり、自作自演乙という展開で伴善男は流罪となりました。
左大臣の源信をはめようとして伴善男が自滅した――そんな事件が「応天門の変」です。
良房から見れば、
・ライバルの伴氏が政治の舞台から消え、
・左大臣には恩を売ることができ、
・さらには良相を「あれ? 放火犯の伴善男とつるんでたよね?」とプレッシャーをかけノイローゼにしちゃう
という一石三鳥。
ゆえに伴善男は本当に犯人だったのか?と疑念も残されているほどです。
融君は天皇になれま……しぇ~ん!!
かくして順調に出世した基経は、義父の良房が亡くなった後、朝廷で権力を握ります。
時の天皇である清和天皇は、良房の孫にあたり基経とも血縁。
しかも清和天皇の女御である高子は、基経の実妹であり、皇子を2人産んでおりました。
清和天皇は高子の息子に譲位し、9歳の幼帝・陽成天皇が即位します。
と、その伯父である基経は摂政となったわけです。
しかーし、色々あって基経と高子は兄妹ながら犬猿の仲であり、成人した陽成天皇と基経の仲もこじれました。
陽成天皇は行いが粗暴だったこともあり、退位を迫り、これを実現させます。
ここで基経が次の天皇に据えたのが仁明天皇の第3皇子であった時康親王です。
基経の母方の従兄弟にあたり、性格はいたって穏やか。即位して光孝天皇となりました。
ちなみにこのとき左大臣・源融(みなもとのとおる)と基経の間でこんなやりとりがありました。
「俺、嵯峨天皇の皇子だし皇位継承できない?」
「姓をもらって天皇になった前例がないからダメ~!」
皇族から臣下になることを臣籍降下と言いますが、源融はまさにそれで源氏の姓になっていました。
そのため「天皇になりたい」という申し出は一喝されます。
一方で、基経のおかげで天皇になれた光孝天皇は恩義を感じ「太政大臣である基経に政治を委任しまーす」と実質上の関白宣言。
さらに光孝天皇は「ウチの皇子と皇女たち26人全員『源』にしました。臣下にしたから皇位継承しないよね」とアピールしました。
なぜ、そんな極端なことをしたのか?
というのも光孝天皇、
『基経は甥にあたる陽成天皇の弟を次の天皇にしたいのだろう』
と空気を読んだのですね。
ここまで天皇に気を遣わせるって凄まじいです。
あれ? 源姓は天皇になれ……ま~す♪
しかし即位して3年後。
光孝天皇が危篤となると、後継問題が浮上します。
そこで、いよいよ件の甥の登場と思いますよね?
違った。
甥とは、基経の大嫌いな妹・高子の息子だったのです。
そこで「アイツは無し!」と突っぱね、光孝天皇の第七皇子である源定省(みなもとのさだみ)を後継に推薦してしまいます。
光孝天皇にとっては、思わぬ展開だったでしょう。
第七皇子の源定省とは、自らが天皇にしたかった息子です。喜びのあまり天皇が基経の手を取ったという逸話も納得ができます。
って、ここで少し違和感を感じませんか?
源定省がなぜ天皇に?
源融に対しては
「一度、姓を貰ったら、もう天皇にはなれない」
と言ってたよね?
もはや基経が法律。
かくして源定省は天皇の臨終間際に親王に復位し、東宮になった日に天皇が崩御すると、次代の宇多天皇となりました。
阿衡だから、ワイ、仕事はしまへん
さて基経のおかげで天皇になれた宇多天皇。
父親と同じく「基経に政治委任しちゃうよ」宣言をすします。
と、ここで新たな問題が起きます。
宇多天皇は詔の草起を左大弁・橘広相(たちばなのひろみ)にさせたのですか、橘氏の活躍を快く思わなかった基経が詔の中の「阿衡(あこう)」という表現に噛みつきます。
「阿衡ってば名ばかりの名誉職じゃん! あっ、そう。ワイのことを軽んじているワケね。だったら仕事しない、バイバイキ~ン」
と言って仕事を完全サボタージュ。
宇多天皇が何度「そういう意味じゃない!」と取り繕っても意に介さず、ついに橘広相は罷免、「私が間違っていました」という詔を天皇に出させるに至りました。
基経は更に「広相を流罪に?」とも主張していますが、さすがにそれはアカン!とした菅原道真が間に入り事件は収束します。
この出来事を『阿衡事件(あこうじけん)』と言います。
意義としては、
【天皇よりも藤原氏が権力を持っていたことを世に知らしめた】
となりますね。
宇多天皇はメチャメチャ悔しかったようで、基経亡き後、藤原外し計画を行います。
やっぱり基経はやり過ぎでしたね。
悪人度 ★★☆☆☆
影響力(権力)★★★★★
妹嫌い度 ★★★★★
イラスト・文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【参考】
国史大辞典
ウィキペディア
藤原基経・藤原良房・応天門の変・伴大納言絵詞