藤原兼家

藤原兼家/wikipediaより引用

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藤原兼家(道長の父)の権力に固執した生涯62年~光る君へ段田安則

藤原道長の父として知られる藤原兼家

大河ドラマ『光る君へ』で段田安則さんが演じる人物ですが、劇中での彼の姿を見て、こんな印象を抱きませんでしたか?

この人、権力欲が凄すぎないか?

賢そうな長男・藤原道隆(井浦新さん)を重んじたり、娘の藤原詮子(吉田羊さん)を入内させるのはいいとして、藤原為時(岸谷五朗さん)をスパイに使ったり、極めつけは次男・藤原道兼(玉置玲央さん)の扱い。

一族繁栄のためなら汚れ仕事を課すことも至極当然のように語っていて、人間扱いしてない雰囲気すら漂っている。一体なんなんだ……。

そう思われたのなら、ドラマ制作陣の狙い通りかもしれません。

実はこの兼家、史実においては兄と壮絶な権力争いを繰り広げて、その戦いに勝ち、ついには頂点に上り詰めると、緊張の糸が切れたかのように最期の時を迎えるのです。

そしてその権力は再び複雑怪奇な流れを経て、藤原道隆・道兼・道長の三人へと引き継がれてゆくわけですが……。

いったい藤原兼家とはどんな人物だったのか。

如何にして貴族の頂点に立ったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

 


長兄・伊尹に愛され、引き立てられる

藤原兼家は延長7年(929年)、藤原師輔(もろすけ)を父、藤原盛子を母として生まれました。

兄が二人いる三男で、兼家は順調な出世を遂げてゆきます。

天暦2年(948年)に従五位下となると、天暦3年(949年)には昇殿を許され。

それからしばらく時間を経過しての康保4年(967年)に蔵人頭と左近衛中将を兼任するようになります。

この年は、甥にあたる冷泉天皇が即位しました。

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兼家はさらに順調に出世して安和元年(968年)には従三位叙任となりますが、背景には長兄・藤原伊尹(これただ/これまさ)の思惑もあったと考えられます。

兼家は、次兄の藤原兼通よりも昇進が早かったのです。

その流れは止まりません。

安和2年(969年)になると、参議を経ずして中納言となる異例の出世を果たし、3年後の天禄3年(972年)には正三位大納言と同時に、右近衛大将と按察使も兼任することになりました。

ぬかりなく娘・藤原超子を入内させることにも成功し、摂政となった兄の伊尹と共に出世街道を歩んでゆく――しかし、次兄の藤原兼通を除け者にしたような展開は、不覚だったのかもしれません。

程なくして、兼家にとって悪しき転機をもたらしてしまいます。

 


次兄・兼通に憎まれ、阻まれる

長兄の藤原伊尹が病に倒れて官を辞すると、残された弟二人は対立を深めました。

兄のあとは誰を関白とすべきか?

そんな状況の最中、藤原兼家は、円融天皇の御前で藤原兼通と言い争ってしまいます。

円融天皇の母である安子は、兄弟の順序で関白とするよう言い残していました。その結果、兼通→兼家の順で関白となることに……。

兼家の運命はにわかに暗転し、兄・兼通の時代となると、不遇の時代を迎えることになるのです。兼通にしてみれば復讐のターンと言えるでしょう。

当時は娘が天皇の寵愛を得て権力が得られる、外戚政治の時代。

兼家はぬかりなく、長女・藤原超子を冷泉上皇の女御としておりました。二人の間には居貞親王(後の三条天皇)が生まれており、ここまでは兼家も安泰です。

しかし、次の一手も打っておきたい。

そこで次女の藤原詮子を円融天皇の女御に入れようとしたのですが、兼通が許しません。それどころか円融天皇に兼家の悪事を吹き込まれてしまう始末。

兼家の野望の前に、兄の兼通が立ち塞がる最悪の展開です。

弟に対する兼通の恨みは並々ならぬものがあり、もしも罪があれば、九州流罪にでもしてやりたいと語っていたと伝わるほどでした。

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