絵・富永商太

信長公記

加納口の戦い(井ノ口の戦い)~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第4話

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5000人ほどが討死!さすがに盛りすぎ

信長公記』では「この戦いで織田方の5000人ほどが討死した」と書かれています。

が、この時期の織田家……というか、信秀にそこまでの動員力はありません。
5000人を「このときの織田軍の全兵力」というならまだ現実味があります。

無意味に数を盛ったのではなく、「そのくらい多く思えるほど、凄まじい負け戦だった」という心情が表れているという意味でしょう。

というのも、このときまだ、信長公記の著者である太田牛一は織田家に仕えていない――どころか信長のいる織田家と反目する勢力に属しておりました。

彼は元々は僧侶で、還俗した後、(名ばかりの)尾張守護・斯波義統(よしむね)の家臣になり、その後、織田家に仕えたという経歴となっています。

当時の義統は、織田家本筋にあたる大和守家・織田達勝(たつかつ)に庇護されています。
そして達勝は、ほぼ新参勢力といっていい信秀を敵視しておりました。

牛一が織田家に仕え始めたのは天文23年(1554年)前後。
つまり、天文十六年当時の牛一にとって、信秀や信長は敵同然の存在であり、敵の被害が大きければ喜ぶのは当たり前のことですから、数を盛るのもおかしなことではありません。

図式にするとこんな感じですね。

斯波義統(太田牛一)・織田達勝
vs
織田信秀織田信長親子

 

義父・道三の戦上手ぶりを称えてアゲアゲ

また、「敵の数が多い・強いほど、それを打ち破った味方の偉大さ」が際立ちます。

ゆえに『信長公記』に限らず、歴史書や講談の類では「それ、一ケタ多くね?」みたいな話はよくあること。
三国志(演義)なんかでもよく使われる手法ですね。

今回の場合、敵であり信長の義父でもある道三の戦上手ぶりを称えることによって、
「その道三に認められた信長様はもっとすごいんだぞ!」
と強調する意味合いも出る……というわけです。

ちょっとややこしいですが、執筆時の太田牛一は
「信長サマ、神!」
という立場ですから、信秀の負けが大きくなっても結果的に信長様アゲアゲになっていれば問題ないのでしょう。

歴史書の一番重要なところは「正しい記録が書かれているかどうか」です。
同時に、著者の性格や背景を鑑みた上で「こういう狙いがあって、こんな風に記されているんだろうなぁ」と推測していくのも楽しみのひとつといえましょう。

さて、この天文十六年の戦いで討死したうちの一人・千秋季光という人物が、次回『信長公記』首巻の5節に少し関わってきます。
最近人気のアレに関わるお話です。お楽しみに。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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