信長公記

村木砦の戦い 信長が泣いた~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第14話

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今回のテーマは「村木砦の戦い」です。

日本では「砦」と「城」の境界線があまり明確ではないので、この先は本連載の底本『現代語訳 信長公記amazon link)』に従い「村木城」と書かせていただきますね。

一応「砦=軍事拠点」「城=政務・居住機能を有する」という傾向はありますが、あまり「砦」という単語を使わないようです。

 

本拠地のわずか30km南に今川が拠点を築こうと……

ときは天文二十三年(1554年)1月。
前13話で斎藤道三織田信長が会見をしてから8ヶ月ほどが過ぎました。

村木城をめぐっての戦いは、今川が岡崎を拠点として鴫原城(現在は重原城・愛知県知立市)を攻め取ったことから始まります。

今川軍はさらに、織田方の小河城(緒川城・愛知県知多郡)を落とすため、その手前の村木に城を構築しました。

位置的には、かなり信長の本拠地・那古屋城に迫っていて、南に30km程度しか離れていません。
「目と鼻の先」になるかどうかギリギリという感じでしょうか。

那古屋城と小河城の間にあり、今川にとっては楔を打ち込んだようなイメージです。
地図で見れば、一発でご理解いただけますので、以下をご参照ください。

・黄色が織田の城(上が那古屋城で下が小河城)
・赤色が今川の城(右が鴫原城で左が村木城)

 

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自らの出陣出馬にこだわった

城の地理的ポジションだけでなく、石高や兵数でも圧倒的に有利な今川軍。
これに対し、信長は策で対抗しようと考えました。

いったん海に出て、今川軍の背後を衝くのが最善です。
そして信長の場合、大事な戦は自ら軍を率いるのがポリシーですが、ここで懸念すべきことがありました。

本来は身内であるはずの清洲衆に、那古野城を攻められるおそれがあったのです。

普通の人ならここで
「じゃあ家臣に小河城への援軍を任せよう」
となるかもしれません。

が、信長はあくまで自ら出馬することにこだわります。
そのため、舅である斎藤道三に留守居役の兵を嘆願したのです。

斎藤道三/wikipediaより引用

道三もこれを快諾。
なんだかマンガのような展開で、ワクワクしますね。

 

わざわざ斎藤家の重臣がやってきた

天文二十三年1月18日、美濃から千人ほどの兵が那古野へ派遣されました。

一軍を率いる将は、安藤守就(もりなり)という斎藤家の重臣。
道三死後も信長関連でよく出てくる割と著名な武将ですね。

出発から約2日後の1月20日に、彼らが那古野城の近くに到着すると、信長は自ら挨拶に出向いて留守を頼みました。

本当にフットワークの軽い御方です。
だからこそ後の「桶狭間の戦い」における成功が単なる偶然じゃないと思えます。

後顧の憂いはなくなった信長。
しかし、21日の出陣前にひとつトラブルが起きます。

筆頭家老だった林秀貞とその弟・林美作(みまさか)兄弟が、すねてサボってしまったのです。

理由は信長公記には記されてはおりません。

林兄弟はもともと信長の弟・信行を支持していたこともありましたし、
「よそから留守居(の安藤守就)を呼ばれる=筆頭家老としてのメンツが立たない」
とでも感じたのかもしれません。

外敵が迫ってるのに、そんなことでサボったらイカンと思うんですけどね……真相は不明です。

 

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大嵐の中を義経の如くに船を出す

他の家臣たちは当然動揺しましたが、そこは信長、気にせず出陣、この日の夜は熱田に泊まりました。
那古屋城から海に出る、ちょうど中間地点にあたります。

そして22日を迎えました。
この日はあいにくの大嵐。

当然、船頭たちは
「この様子では舟は出せません」
と言いました。

しかし信長は
「昔、源義経と梶原景時が言い争ったときも、このような天気だったのだろう。いいから舟を出せ」
と強引に出航させます。

これは源平合戦のハイライトのひとつ・屋島の戦いの直前にあったとされる故事をひいています。
那須与一や「扇の的」でも有名なこの戦いの直前、悪天候を理由に景時が出航をためらっていたのを、義経が強行させた……というものです。

屋島の戦いは那須与一『扇の的』が熱い!義経のムチャ振りを豪腕で切り抜け




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いやぁ、面白いですね。
太田牛一の才能に震えてしまいそうです。
よろしければ後ほど屋島の戦いと那須与一の記事をご確認いただくとして先へ進みましょう。

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