信長公記

稲生の戦いで信長一騎打ち!~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第19話

更新日:

今回は、今までの話と比べて一節あたりが少々長い部分です。

大きく分けると、前半は織田氏の内部事情の変化、後半は「稲生の戦い(いのうのたたかい)」と呼ばれる戦のことが書かれています。

まずは前半から見て参りましょう。

 

守山城の新城主は異母弟の一人・信時

18話で述べた織田信長の弟・織田秀孝の事故死により、下手人の主人である守山城主・織田信次が今川家に出奔してしまいました。
その後、主のいなくなった守山城は、信次の家老たちが守っていたのですが……。

事故とはいえ肉親をブッコロされてしまった織田信行や信長としては、そう簡単に許すことはできません。二人は兵を派遣し、守山城は包囲されます。

怒り心頭だった信行は、おそらく「信次が戻り次第ブッコロ!!」みたいな勢いだったでしょうね。

信長については、少々判断がつきかねるところ。
というのも、同時に守山城の新しい城主を選んでおり、信次の処分が腹の中で決まっていた故の冷静さ――そう見ることもできるからです。

このとき、信長の家臣である佐久間信盛が、新しい守山城主に推挙したのが織田信時。
信長異母弟の一人です。
年齢順にも妥当だったので、信長はこの意見を容れて、信時を守山城主に据えました。

どうやら、信時から信盛に
「守山城主になりたいから、口利きをしてくれ」
というようなことを頼んでいたようで、守山城に入った後、信時から信盛に知行百石が与えられています。

なんだか賄賂みたいなものですが、この時代「陰謀だとしても、人の命がかかってなければ綺麗なもの」みたいな価値観ですからねぇ。

 

信長切腹で信行を当主にしようとしている!?

一方その頃、織田氏の領内では、ある噂が立ち始めていました。

「林秀貞・美作兄弟と、柴田勝家の三人が、信長を切腹させて信行を当主にしようとしている」
というものです。

勝家は信行付きの家老ですから、当主をすげ替えたいのは納得できますが、林兄弟はれっきとした信長の家臣です。
つまりこの二人の、信長に対する不満が見てとれますね。
第14話【村木砦の戦い】の前にも、この兄弟はサボっていましたし。

村木砦の戦い 信長が泣いた~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第14話

今 ...

続きを見る

しかし、そんな中で信長は信時を連れ、弘治二年(1556年)5月26日に、那古屋城の秀貞を訪れています。

秀貞はこの頃、筆頭家老として那古屋城の留守居役を任されていました。
信長が幼少期を過ごした城でもあり、交通の要所である那古屋城を任せたということは、信長から見た秀貞は一応「使える奴」という評価だったのでしょう。

美作は秀貞はこんなやり取りをしたといいます。

「この機会に信長を追い詰め、切腹させよう」
「そうは言っても、三代に渡ってご恩を受けた家の当主なのだ。ここで討ち果たすのは罰当たりになる」

結局、この日信長の身に危険が及ぶことはありませんでした。

 

林兄弟、突如の挙兵!

その一両日後、突然、林兄弟らが反信長の兵を挙げました。
秀貞が何を考えていたのかよくわかりませんが、それだけ悩んでいたのかもしれませんね。

ほぼ同時期に、守山城でも異変が起きます。
新しく城主になった信時が、まともに働いていた家老の角田新五より、男色相手の坂井孫平次を重用してしまっていたのです。
当然、新五からすれば面白くありません。

恨みが募った末、新五は城の修繕工事と偽って、守山城にこっそり兵を引き入れます。
そして信時を追い詰めて、切腹させてしまいました。
これはどう考えても、信時が悪い話です。

新五はヤケになったのか、さらに岩崎の丹羽氏勝という人物を味方につけて、守山城に立てこもります。
この氏勝と信長の幼馴染である丹羽長秀は、血縁関係ではありません。近い時代に同じ名字の人がいるとややこしいですね。

信長はこれを受けて、秀孝の件からずっと放浪していた信次を許し、正式な守山城主に戻しました。

おそらく、他の弟たちはまだ幼すぎて、城主を任せられないと判断したのでしょう。
信長の弟には生年不詳な人も多いのですが、下から二番目の長益(織田有楽斎)が天文十六年(1547年)生まれなので、この時点でも10歳程度です。

信行から長益までの間にも数人の弟がいますが、ほぼ全員10代前半~半ばだったと思われます。

加えて、秀孝が10代半ばでうかつな行動をとって事故死したため、「まだこの年頃では、城主を任せるには早すぎる」と考えたのでしょう。
信次を許す気になったというよりは、他に候補がいないので仕方なく許した……というところでしょうか。

 

稲生の戦い~先に動いたのは信長だった

さらにこれらの裏で、信長と信行の仲も急速に悪化していました。

信長公記の著者である太田牛一は「林兄弟の画策によって」だと書いていますが、詳細は不明です。
前述のように、噂話のことを書くくらいなら、もうちょっとそれらしい記録を残してほしいなぁ、と(´・ω・`)

そんな感じで、あっちこっちで険悪な火花が勃発!
そして「稲生の戦い」へと続きます。

弘治二年8月22日。
織田信長は先手を打って、於多井川(おたいがわ)を渡った名塚というところに砦を作らせ、佐久間信盛に任せました。

信長の居城・清州城からほど近いところですが、信行の居城・末森城から見れば、
「清洲から川を越えて攻め込んできた」
とも取れる位置です。
となると、信行サイドとしても、そうそう放置してはおけません。

拠点の位置関係は以下の通り。

西(左)から見て

黄色……清州城(信長)
緑色……那古屋城(林)
赤色……守山城(織田信次と信時)
青色……末森城(織田信行と柴田勝家)

と続きます。

すると翌23日、勝家が1000、美作が700ほどの兵をそれぞれ率いて、名塚の砦へ迫りました。

信長も24日、手勢を率いて清州城から出陣。
この日の正午頃から戦闘が始まりました。

次のページへ >



-信長公記

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.