後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

信長公記

稲葉山城の戦い~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第47話

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今回はいよいよ稲葉山城の戦いです。

まずは織田信長気分になって、直近の斎藤家の動きから確認していきましょう。

ジワジワと信長がプレッシャーをかけていく中、当主の斎藤龍興らはどのような対応をしていたのか?

斎藤家の近年を時系列に沿ってマトメてみます。

 

重臣たちが様々な方法で諫言するも

斎藤家の主要な動きを抜粋しますと、以下の通りとなります。

①弘治2年(1556年)長良川の戦い斎藤義龍が父の斎藤道三を討ち取る

②永禄4年(1561年)斎藤義龍死去

③年月不明 斎藤龍興が斎藤飛騨守という素行の悪い人物を寵愛する

④永禄六年(1563年)頃 西美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全)が斎藤龍興に諫言するも、聞き入れられず

⑤永禄七年(1564年)2月 竹中半兵衛と岳父・安藤守就が稲葉山城乗っ取り

⑥永禄七年(1564年)夏頃 稲葉山城が龍興に返還されるが、状況は改善せず

信長が東美濃を攻略している間に、こんな感じで斎藤氏は揺れておりました。

まったく成長していない……。
さぞかし道三が草葉の陰で嘆いたことでしょう。

そんな中、信長は永禄九年(1566年)4月上旬に、美濃の加賀見野(各務原市)へ布陣。
斎藤龍興も素早く反応し、近隣の新加納(各務原市)まで守備の兵を出しました。

この二ヶ所の間は足場が悪く、馬で進みにくいため、このときは信長のほうから兵を引いた……と、信長公記では書かれていますが、信長にしてはお粗末な感が否めません。
もしかすると、何らかの工作が上手くいかずに、このときは一時撤退が望ましいと考えたのでしょうか。

 

一人、二人ならともかく西美濃三人衆が同時に降伏

また、時間を少し遡って、永禄六年(1563年)4月には、似たような経緯で織田軍が敗北したとされる「新加納の戦い」という戦のことが伝わっております。
著者・太田牛一がこちらと年を書き違えた可能性もありそうですね。

ちなみに、この戦で斎藤軍が勝てたのは、竹中半兵衛の策によるものとされています。
それでも龍興が半兵衛に感謝しようとしなかったので、上記のような諫言や稲葉山城の乗っ取りに繋がったのだとか。

城の乗っ取りについては真偽怪しいところがありますが、龍興の素行の悪さは否定しきれぬものだったのでしょう。
そりゃあ成果が出てるのにぞんざいに扱われたら、ブチギレたくもなります。

そしてしばしの時が流れ、永禄十年(1567年)8月。
ついに義龍に愛想を尽かした西美濃三人衆が、信長のもとにやってきました。

「これからは信長公にお味方いたします。その証として、人質をお受取りください」

一人、二人ならともかく、重臣三人がまとまって裏切る状況ですから尋常ではありません。
もはや勝負は決まったようなものでしょう。

西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用

信長はこれに応じ、村井貞勝・島田秀光の二人を人質の受け取りに向かわせます。
……が、その帰りを待たずに兵を出し、あっという間に稲葉山と隣接する瑞龍寺山に布陣してしまうのです。

さすが信長さん。
あまりのスピーディーな行軍に、味方はもちろん敵もビックリ仰天です。

 

電光石火の速さで城下に火を放ち

永禄十年(1567年)9月、突如、美濃に現れたナゾの軍。

「あれは敵なのか、それとも味方なのか?」

稲葉山城で斎藤方が迷っているうちに、信長はさっさと城下に火を放たせ、稲葉山城を裸同然に追いやります。

翌日には稲葉山城の四方に鹿垣を作らせて、物理的にも包囲を完成させました。
話を聞いた西美濃三人衆も急いでここまでやってきて、驚きながらも信長へ挨拶を済ませたといいます。

そして半月ほど包囲を続けた後、ついに城方が降参。
稲葉山城くらいの堅牢さがあればもっと粘れたはずですが、龍興の日頃の評判からすると、ろくに兵糧も蓄えていなかったのでしょうね。

こういうとき、城の主は降伏して攻め手の家臣になるか、その場で首を取られるかのどちらかになるものです。
が、龍興は、そのどちらでもなく城から逃げ出しております。

この状況で信長が取り逃がしたとも思えませんから、わざと放り出したのでしょう。

龍興はその後、伊勢の長島本願寺に逃れ、さらに越前の朝倉氏に身を寄せたといわれています。

最後についてははっきりしておらず、信長の朝倉攻めの際に討ち死にしたとも、逃れて寛永9年(1632年)まで長生きしたとも……。
その場合、ネチネチと遠くから信長に攻撃を加えようとしていたとされます。

いずれにせよ、マムシの道三の孫とは思えない残念さですね。

 

岐阜と改め「天下布武」の印章を使い始める

家督相続から15年目にして、ようやく尾張と美濃の二カ国を手中に収めた織田信長。
元は尾張半守護の家臣の家であることを考えれば、これだけでも見事なものです。

その働きは、遠く離れた別地域にも伝わりつつありました。

信長も
「これからがやっと本番だ」
と思っていたのでしょう。

稲葉山城に移転を済ませるやいなや、象徴めいたことを二つやりだしています。

一つは、地名を変更すること。
稲葉山のあった町は当時”井ノ口”と呼ばれていたのですが、これを”岐阜”と改めました。
どちらも中国の地名に由来する字です。

”岐”ははるか昔、殷(商)王朝の末期に、後の周王朝の祖となる文王(周王朝の初代・武王の父)が決起した「岐山」からきています。
また”阜”の字は、孔子生誕の地であり、儒教発祥の地でもある「曲阜」からだとか。

これらを組み合わせて「岐阜」の名を提案したのは、信長の師の一人・沢彦宗恩だともいわれています。

もう一つは、テストでもよく出る「天下布武」の印章を使いはじめたことです。

この四文字の意味合いについては、今日でも議論の余地があるため、ここでは省かせていただきます。
『信長公記』でも、「井ノ口を岐阜と改めた」ことは書かれていますが、印章の件については触れられていません。

次回からは、信長の後半生に大きく影響を及ぼす、あの人が出てきます。

長月 七紀・記

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戦国武将データベース

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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