絵・富永商太

信長公記

阿坂城の戦い 先陣は藤吉郎に任せた!超わかる『信長公記』第61話

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今回は永禄十二年(1569年)の伊勢攻め【阿坂城あざかじょうの戦い】です。

本題の前に、当時の伊勢の勢力図をざっくり確認しておきますと……。
大まかに分けて、この時代の伊勢は

【北伊勢】神戸氏他、豪族が乱立
【南伊勢】伊勢国司家の北畠氏が支配

という感じになっていました。

「永禄十〜十一年(1567〜1568年)に織田信長は北伊勢へ攻め入っていた」
とする史料もありますが『信長公記』には記載されていません。

また、それらの史料が数十年後に成立したと思われるものばかりなので、正確性も疑わしいところです。

永禄十一年には信長の三男・織田信孝が神戸氏へ婿養子入りしているため、これ以前から伊勢に対して干渉をしていたのは間違いなさそうですが、ともかく本題へと移りましょう。

 

鷹狩をしながら桑名で駐留

永禄十二年8月20日、信長は南伊勢の北畠氏を攻めるため出陣しました。

この日は桑名まで進み、翌21日は鷹狩をしながら駐留。
もちろんただの余暇ではなく、この日のうちに斥候を放つなりなんなりしていたのでしょう。そういうことは記録に残りにくいものですから。

兵や馬を休める意味もあったと思われます。

現代の道路で、岐阜から桑名まではおおよそ46〜47km。
武装しての行軍となると、なかなかに堪える距離です。

士気を維持するためには、兵の疲労回復も欠かせません。
兵を休ませつつ、自身は鷹狩で体を動かしながら良い知らせを待っていたのでしょうね。

22日には白子観音寺(鈴鹿市)まで、23日に小作(こづくり)まで進軍していました。

信長公記では「小作」となっていますが、ここは北畠氏の傍流である木造氏(こづくりし・きづくりし)がおり、地名としても存在していたため、おそらく「木造」のほうが正しいと思われます。

木造城の主・木造具政こづくりともまさはときの北畠氏当主・北畠具房ともふさの叔父でした。
が、重臣の献言により、信長に従う道を選んでいたため、織田軍もここに立ち寄ったようです。

 

重要拠点・阿坂城へ攻撃開始

24〜25日は雨のため進軍せず駐留したとありますので、23日の時点で空模様が怪しかったのかもしれません。

旧暦8月末は、新暦に直すと10月初旬。

台風や秋雨の季節ですから、行軍に影響が出るのもむべなるかなというところです。
激しい嵐と思われる描写がないので、このときは秋雨のほうだったのでしょう。

天候が回復した26日に、いよいよ北畠氏の重要拠点・阿坂城(松阪市)を攻めました。

このときの先陣は、あの木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)です。

秀吉はこれまでの間に一軍の将を任されるようにはなっていましたが、単独での先陣はおそらくここが初めてでしょう。
城の塀際まで攻めたところで藤吉郎が負傷してしまい、いったん後退を余儀なくされ、そして再び攻めかかります。

城方は敵わないとみて降参し、阿坂城には滝川一益が入って、戦いは終了となりました。

※阿坂城=現・浄眼寺

幸先がいいといって差し支えない状況ですが、周辺にはまだまだ北畠氏方の城があります。

それに対し、信長はどのように攻め込んだか?
続きはまた次回。

長月 七紀・記

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戦国武将データベース

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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