絵・富永商太

信長公記

信長と義昭で御所完成を祝う「観能の会」~超わかる『信長公記』第67話

更新日:

元亀元年(1570年)4月14日。
将軍御所完成のお祝いとして、観能の会が開かれることになりました。

将軍・足利義昭織田信長はもちろん、他にも以下のような人々が客として招かれています。

・姉小路頼綱 飛騨国司
・北畠具教 伊勢国司
徳川家康
・畠山昭高(秋高)
・一色義道
・三好義継
松永久秀

他に、摂家・清華家といった公家や、近畿周辺の大名・武将がいたようです。
それぞれについて、少し補足をしておきましょう。

 

家康と同じくらいに重要な相手

姉小路頼綱は、京極氏の家臣・三木氏の出身です。
父親の代に朝廷へ接近し、姉小路家の名跡を継いだために名を改めました。

また、斎藤道三の娘(信長正室・濃姫の姉)をもらうなど、なかなか外交に長けていたようです。
信長と頼綱は相婿ということになりますね。

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現代ではあまり知られていない人物ですが、当時の信長は頼綱を
【徳川家康と同じくらいに重要な相手】
として扱っていたようです。

北畠具教は、信長が伊勢へ侵攻した際に戦った相手ですね。
当連載では61~64話で触れていますので、気になる方はそちらへどうぞ。

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この時点で織田家と北畠家の間には和睦が成立しており、信長の次男・織田信雄を娘婿かつ跡継ぎに迎え(させられ)ています。
とはいえ、攻め込まれての実質敗北の和睦から、まだ半年程度しか経っていない時期なので、胸中は複雑だったことでしょう。

 

武家からは、あの松永久秀も招待されていた

畠山昭高は河内の半国・紀伊守護だった人です。

三好義継と対立したこともあり、【永禄の変】以降は一貫して義昭方についていました。

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一色義道は丹後の戦国大名です。

一色氏は室町幕府で主要な【四職】の一角でしたが、戦国時代では言わずもがな、有名無実に近い状態でした。
この後、信長と少々複雑な関係になっていきます。

【室町幕府の三管四職とは?】

三管……管領になれる細川氏、斯波氏、畠山氏

四職……侍所所司になれる赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏

徳川家康・三好義継・松永久秀については、これまでにも他の記事にも多く登場しているので、割愛させていただきます。

代わりと言ってはなんですが、公家についても少々見ておきたいと思います。

 

観世流と今春流 競演という形で交互に一番ずつ

摂家は、藤原北家の子孫たちの家で、五つの系統があったことから「五摂家」とも呼ばれます。
全ての公家の中で摂政・関白になることができるのは、この家々の人だけです。

清華家も藤原北家の子孫が多数派ですが、村上源氏の系統もありました。
こちらは摂政・関白にはなれないものの、太政大臣にはなれる家柄です。

公家関連は非常にややこしいので、この節に関する点だけをまとめると、こうなります。

「義昭主催の観能会に、公家のものすごくエライ家柄の人達がたくさん招待されていた」

ここまでの経緯を考えれば、室町幕府や将軍の権威がかなり回復しつつあった――そう見ることもできますね。

てなわけで、当日の能へ。
観世流・今春こんぱる流の競演という形で交互に一番ずつ、合計で七番立てを演ずることとなりました。

観世流は、能の大成者・観阿弥の子孫たちによる流派で、今春流は、室町時代に奈良の春日大社や興福寺に奉仕していた役者たちを祖とする流派。

観阿弥の弟子・金春禅竹によって発展し、特に豊臣秀吉に好まれました。
秀吉はなんと、弟子入りまで敢行。そのため同時代の大名間でもかなり人気が高まっていったとか。

両派とも現代まで続いていますので、どこかで聞いたことがある方も多いでしょう。

 

バリエーションに富んだ演目だった

さて、肝心の演目と概要は以下の通りです。
(  )内が演じた流派となっています。

一、玉の井(観世)
日本神話の海幸彦・山幸彦の話をそのまま能にしたもの

二、三輪(今春)
奈良の三輪山を舞台とする、人と神のハートフルストーリー

三、張良(観世)
漢の高祖・劉邦の軍師である張良が、謎の老人に兵法を教わる話

四、芦刈(今春)
家が没落したために別れて暮らさざるを得なくなった夫婦が、紆余曲折の末に再会するイイ話

五、松風(観世)
在原行平と須磨の美人姉妹の恋物語

六、紅葉狩(今春)
平安時代の武士・平維茂による化け物退治
※平維茂は平安時代中期に平将門と戦った平国香の孫にあたる(常陸平氏

七、融(観世)
嵯峨源氏の源融みなもとのとおるの屋敷「河原院かわらのいん」跡を訪れた東国の僧が、幻想的な景色と謎の老人に出会う

なかなかバリエーションに富んでいますね。

信長公記』に客の反応などは書かれていませんが、信長や義昭だけでなく、他の客たちもどれか一つくらいは面白く見物できたことでしょう。

 

名より実を取れ 官職不要

代わり……というわけではないものの、信長と義昭のちょっとしたやりとりが書かれています。

この会の席上で、義昭は
「もう少し高い官職についてはどうか? なにか希望があるなら、私から朝廷へ取り次ぐが」
と勧めたのだそうです。

信長はこれまで同様に断りました。
信長が官職に価値を感じていなかったのか、ただ単に遠慮したのか、それはわかりません。

これは個人的な推測ですが、信長はここでもやはり、
「世間の評判」
を気にしたのではないでしょうか。

この時点での信長は、勢力を拡大して将軍の後ろ盾という立場にはなっていたものの、やはり「元はどこの馬の骨ともしれない家」であることニ変わりません。

特にこの観能会のように、一般的に”名家”とされる公家や武家が多く居合わせる中では、どうしてもそういう面が表に出てきます。

客の中には、信長や織田家の面々に対して、白い目を向ける者もいたでしょう。
そんな中で信長が高い官位を望んだりすれば、陰口がエスカレートすることは間違いありません。

それらによる心証や世間の評判の悪化を防ぐため、ひいては今後も朝廷・公家・武家から協力を取り付けやすくするため、あえて官職を断った……そんな可能性はいかが思われます?

長月 七紀・記

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戦国武将データベース

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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