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黒田官兵衛百物語 黒田家

行方不明となった黒田官兵衛の遺骨は長崎それともフィリピンに眠る?【軍師黒田官兵衛百物語異聞Vol1】 

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お久しぶりです。昨年1年間連載した「軍師黒田官兵衛百物語」の番外編です。

福岡藩祖・黒田官兵衛孝高、そっして初代・長政以下、12基の歴代藩主などの墓がならぶ、福岡市の崇福寺にある黒田家墓所は昭和二十五年(1950)に改葬工事が行われ現在の姿になりました。
埋葬されていた歴代藩中、四代・綱政の遺体はミイラの姿で現れました。綱政が死亡した当時、筑前の医師のなかにミイラをつくる技術を持つ者がいたに違いないということで、当時、大変な話題になりました。

長政の墓石の下からは、遺骨に六文銭をそえた骨壺が出て来ました。ところが官兵衛の墓石の下には骨壺は埋まっていたものの、中には六文銭だ けが入れられ遺骨は入っていませんでした。

没年の慶長九年の紀年が入る崇福寺黒田墓所の官兵衛墓碑(筆者撮影)

没年の慶長九年の紀年が入る崇福寺黒田墓所の官兵衛墓碑(筆者撮影)

慶長九年(1604)3月20日に官兵衛は亡くなりますが、埋葬地についてふれる記録が実はありません。
唯一、イエズス会のガブリエル・デ・マトスという神父が、「博多の町の郊外にあってキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高いところ」に埋葬した、と回想録に著しローマのイエズス会本部に伝わるのみです。

 

キリシタン墓地をあわてて改修?

ご存知のように官兵衛はキリスト教徒でした。官兵衛の臨終は京都伏見の藩邸でのことでしたが、遺言により遺体は福岡へと回送され、篤信の信徒だった弟の黒田直之と二人、官兵衛が慶長七年(1602)に建設していたイエズス会福岡教会で葬儀がおこなわれます。

葬儀後、マ トス神父が回想するように、官兵衛の遺体は「博多の町の郊外にあってキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高いところ」に葬られたというわけです。

一方、六文銭だけが入っていた骨壺の上にのっていた墓石には、官兵衛臨終の年の慶長九年が紀年として刻まれています。ところが、この年には崇福寺は現在地にはまだありませんでした。戦乱で荒廃した福岡の南20キロの太宰府にあったものを、早くても慶長十七年(1612)に現在地(福岡市博多区千代町)へ再興開基されたのです。
そうした状況から推測されることは、崇福寺の現在地がマトス神父の回想録にある「博多(現・福岡市博多区)の町の郊外にあってキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高いところ」であったのではないでしょうか。そして、キリスト教式の墓碑の地下に官兵衛の遺体、あるいは遺骨が埋葬されていたところに、慶長十八年(1613)に幕府によるキリスト教禁教令の布告後、慌てて太宰府から崇福寺を移転させると同時に、墓石を仏式に変え、さも以前からあったごとく没年の慶長九年の紀年を刻み入れたのだろうということです。

https://bushoojapan.com/wp-content/uploads/2015/04/黒田菩提寺・崇福寺/官兵衛が没した慶長九年(1604)には現在地に崇福寺は未だなかった(筆者撮影)

黒田菩提寺・崇福寺/官兵衛が没した慶長九年(1604)には現在地に崇福寺は未だなかった(筆者撮影)

それにしても、キリスト教の墓石が仏式に取り替えられたとしても、地下には、土葬であれば遺骸が、火葬による埋葬であれば遺骨が残っているはずですが、昭和25年の改葬工事の際には官兵衛の墓碑の地下からは六文銭のみを入れた骨壺が出てきたのみです。

 

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長崎のキリスト教墓地に眠る?

いったい、官兵衛の遺体あるいは、遺骨はどこの行ってしまったというのでしょう。

その行方について、近年まで、当の崇福寺の住職を勤め、現在は崇福寺と並ぶ福岡・博多市中の古刹とされる住職に転任されている方の推測があります。

慶長十八年(1613)の禁教令布告と同時に再興崇福寺の建設が始まりますが、同時にイエズス会福岡教会が解体されます。

解体によって出た資材や教会の什器は藩主・長政の命で長崎へ送り届けられます。

ご住職は、官兵衛の遺体は教会の資材や什器とともに長崎に送られ、キリスト教墓地に埋葬されたのだろうと言われるのです。
官兵衛に遅れて五年後の慶長十四年(1609)2月3日に弟の直之が没しますが、イエズス会の記録によると、遺言により長崎に葬ら れています。あるいは、この時に官兵衛の遺体も掘り起こされて、直之の遺体とともに長崎に送られたのかもしれない、とも、ご住職は言われます。

長崎から、さらにキリシタン大名として名高い高山右近も流されたフィリピンへと教会関連のモノが送られるということがあったといいます。その時に、遺骨や遺体が同送された可能性もあるというのです。官兵衛は長崎かフィリピンのどこかの丘の上の墓地で静かに眠っているかもしれないということです。

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FrcoDon 記・写真

 





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