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日本の戦国時代は僧侶が軍師? 「海道一の弓取り」今川義元を補佐した名軍師雪斎の頭にもスポットライト!

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厳密に「軍師」というと、戦場にいる文官のことで、日本の戦国時代には、武官と文官が分かれていないので、「いなかった」となります。が、日本ではその代わりに「軍師」の役割をとある職業の方が担っていたことも多かったようです。そんな人物をご紹介いたします。(この今川義元と太原雪斎さんが4コマ漫画化されました→こちら

官兵衛以外に光をあてたら坊主頭にあたってしまったでござる

主君の側に仕え献策し、覇道に貢献する軍師。大河ドラマ「軍師官兵衛」によってそのかっこよさはクローズアップされていることと思います。

黒田官兵衛以外の軍師たちにもぜひスポットライトが当たって欲しい!ということで、今回は今川家に使えた名軍師、太原雪斎(たいげんせっさい)に注目したいと思います。竹中半兵衛や山本勘助、直江兼続などを差し置いてなぜこんな地味な人物を?と思われるかもしれません。

しかし、この人には他の有名な軍師たちとは違う特徴を持っています。そう、彼は禅宗(臨済宗)の僧侶だったのです。なぜ、本来俗世の争いとは無縁であるべき僧侶が軍師となって戦略・戦術を献策することになったのか。雪斎の生涯を追うことで、この疑問を解決していくことにしましょう。

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なぜ僧侶が軍略に通じているのか

明応5年(1496年)に生まれた雪斎は、はじめめ駿河(静岡県)の善得寺に入り修行をします。師匠にあたるのは今川氏親が招聘した舜渓という禅僧。
極めて利発で機敏な少年だった雪斎は、舜渓に見込まれて京都の建仁寺で修行を行うことになります。当時、雪斎は13歳でした。(当時名乗っていた名前は九英承菊といいますが、ややこしいのでこの記事では雪斎で統一します)

さて、建仁寺霊泉院で学ぶこと14年。雪斎は立派な禅僧になるとともに、古代中国の兵法・軍略にも通じるようになっていました。なぜ、禅寺で兵法などが学べたのでしょう?

仏典は中国・朝鮮半島を経由して日本に入ってきましたから漢文で書かれています。ゆえに仏典の勉強には漢文の知識は必須。さて、漢文などお手の物である僧侶たちの中から、他のジャンルの漢籍を読んでみたくなった者が出てきたとしても、さほど不思議ではないでしょう。
しかも世は乱世。「孫子」「呉子」「六韜」などなど、禅寺は一種の「兵法研究センター」と化していたのです。秀才と謳われた若き雪斎は、後々おおいに身を助けることになる兵法の知識を、みるみるうちに吸収していったのでした。

今川義元の今川家当主就任をバックアップ

大永2年(1522年)、27歳の雪斎は今川氏親の要請により、氏親の五男芳菊丸、後の今川義元の養育係として久しぶりに駿河に帰ります。

芳菊丸(義元)の養育係になって欲しいという氏親の要請を、雪斎は三回も断っていますが、結局押し切られるように引き受けたのでした。
兄・氏輝がいた芳菊丸は仏門に入って生涯を過ごす定めのはずでした。

しかし、氏親の跡を継いだ氏輝は天文5年(1536年)、24歳の若さで病死。僧籍に入っていた義元は還俗して今川家第10代当主となります。

この決定に不服を抱き、自らが今川家の家督を継ごうと挙兵したのが、義元の異母兄・玄広恵探でした。この家督争いを花倉の乱と呼びます。

この戦いで義元に勝利を呼び込む功を挙げたひとりが雪斎でした。彼は無事国主となった義元を政治的にも軍事的にもよく補佐し、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。たとえば、当時混乱状態にあった三河の支配権をめぐる織田信秀(信長の父)との争いには、総大将として第一線の指揮を執っています。

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戦国屈指の外交的成果、甲相駿三国同盟

さて、雪斎の功績をただ列挙してもきりがないので、彼の残した最も大きな成果の一つ、甲相駿三国同盟について述べておきましょう。

駿河の今川氏にとっては、三河をめぐる西の敵・織田氏は悩みの種で、北と東の守りを安泰にしておく必要がありました。そこで登場したのが雪斎です。北信濃をめぐり、上杉謙信との衝突が本格化した武田信玄、関東平定に専念したかった北条氏康―――彼らの利害を踏まえ、雪斎が働きかけたのがこの三国同盟でした。

史料によっては、信玄、氏康、義元の三者が雪斎の立会いのもと善得寺で会談し、同盟を結んだことになっていますが、史実かどうかは疑わしいとされています。(残念!)

しかし、

今川義元の娘が武田信玄の嫡子に、

武田信玄の娘が北条氏康の嫡子に、

北条氏康の娘が今川義元の嫡子に嫁ぐ

という形で歴史的な三国同盟が実現したのは事実です。実際のところ、「武田氏は太平洋沿岸に進出できなくなった」「北条氏は陸路での上洛が難しくなった」という点を考えると、三国同盟最大の「勝ち組」は今川氏と考えて良いでしょう。

あまたの功績を残した雪斎は、天文24年(1555年)、60歳にして没します。義元が桶狭間で不覚を取るのはこの5年後。もし雪斎がもう少し長生きしていれば、天下を取ったのはもしや……という空想にかられるのは、筆者だけではないでしょう。

三城俊一・記

イラスト・霜月けい




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参考文献:土屋重朗「今川氏の武将たち」近代文藝社

 




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